37・ついに好転するのでしょうか
こちらで少し落ち着いて。
そう言ってマノンが別の小部屋に通してくれた。
私が座るのを見ると、ココアでも淹れさせましょうと言って、彼女は部屋を出て行った。
「……顔を殴るのって、痛いのね」
手に巻かれた濡れタオル。それをそっと押さえていたリュシアンの手に僅かに力が入ったのが感じられた。
「あなたのお腹を殴ったときとも、ジスランに頭突きをしたときとも大違い」
「……腹には肉しかないしな」
「そうね」
だからなのだろうか。今までの中で一番、自分がショックを受けている。リュシアンの時は彼がけろっとしていたからだろうか。ジスランも、どこか相討ち感があったからかもしれない。ディディエが吹っ飛んだことがショックなのだろうか。それともこんなに自分の体が痛むのは初めてだからだろうか。よく分からない。
「……悪かった。ディディエを止められなくて」
リュシアンの顔は強ばっている。
「あなたが謝ることではないわ」
「いや。まさか人前ではしないだろうと考えていた。判断ミスだ」
「私も。今日は大丈夫だと考えていたわ。甘かったわね。……殿下は大丈夫かしら」
「大丈夫だろう」
「だって、倒れるほど殴ってしまったわ」
「いや、咄嗟によけたと言っていた。よけるときにバランスを崩しただけだろう」
「でも殴ったわ!」
「当たったけど、それほどの当たりではなかったということだ」
「すごく痛いわ!」
「こんな華奢な手ならば当たり前……って、なんだかそうでもないか?」
タオルを外し、私の手をまじまじと見つめるリュシアン。私の手には、毎日懸垂をしているから、マメがあるのだ。
「次にバルコニー外に逃げるときに備えているの」
「さすが、お前!」
リュシアンは笑うと、タオルを卓上に置かれた洗面器の水にひたした。絞って、また手に巻いてくれる。
「なかなかいいパンチだったしな」
「……護身術をちょっと習ったことがあるの」
正確には、前世でボクササイズの体験に行ったことがある。ただあれはエクササイズ。痴漢にあったらやっつけられるね、なんて友達と話してはいたけど、本当に誰かの顔を殴るときがくるとは思わなかった。
「どれだけ通常の令嬢枠を越えているんだ?」
「そうでもないわよ。しまった、またエルネストさまのおかしなフェチを刺激してしまったかしら」
「かもな」
失礼します、とメイドがやって来てココアを置く。
「ディディエ殿下はどうなさっているか、わかる?」
そう尋ねると彼女はキョロキョロしてから、身を屈め
「リュシアン殿下がいつも美味しいところを持っていく!と元気に憤慨してますよ」
と小声で言って、部屋を出て行った。
「自業自得」と言ってみる。
だけど元気ときいて、ほっとした。
「王子を殴ったのだから、罰せられるかしら。しばらく屋敷でおとなしくしていたほうがいい?」
「ディディエは懲りていなかった。咎めはしないよ」
だけどディディエはそうでも、国王夫妻がどう考えるか分からない。
「今のうちにふたつ、大事なことを話してもいい?」
そうしてまずは、ディディエは真剣にリュシアンに都に残ってもらいたいようだから、全て打ち明けて協力を仰ぐのはどうかと話した。
彼から、《リュシアンの目を覚まさせよう!共同戦線》に誘われていることは話さない約束だ。そのせいでリュシアンは、どうして私が突然そんなことを言い出すのかと不思議そうだった。
「この前、ふたりがバダンテール邸に来たときよ。ディディエ殿下はとても淋しそうだったの。なんだかんだ言いながらも、あなたに近くにいてほしいみたい。リュシアンひとりではお父様たちに対抗できなくても、みんなで力を合わせたらどうかしら? 私ももちろん協力をする」
リュシアンの目が揺れたのが分かった。
「私もリュシアンに都に残ってほしい。せっかく友達になれたのだもの。あなたが納得しているから言うべきではないと思っていたけど、理不尽すぎて私は悔しい。だから検討してもらえると、嬉しいの」
目は伏せられ、長い沈黙。
だいぶ経ってから
「兄が死んで以来、父にも母にも反抗したことがない」
とリュシアンは言った。私は、うん、と返事をすることしか出来なかった。
「どうしてお前が泣く」
目を上げたリュシアンが手で私の頬を拭った。
「なんだか最近、涙腺が壊れているらしいの」
「ならば仕方ないな」
そう言ってリュシアンは笑みを浮かべた。
「考える時間をくれ」
「ありがとう。考えてくれて」と答える。
「……それで、もうひとつの話は?」とリュシアン
「実はロザリーがね」
彼女の気持ちに起こった変化。その原因が分からないこと。リュシアンに伝える前にクレールにも変化が起こっているか確かめようと今日集まったことを、なるべく手短に説明した。
「どうしてすぐに連絡をくれない」
「だってレシピが効果がなくて、あなたが落ち込んでいたってギヨームが。またがっかりさせてはいけないと思ったから」
「……落ち込んではいないぞ。また手詰まりだとは思ったが。まあ、いい。まずはロザリーに聞き取り調査だな」
「一緒に考えたけれど、普段と違うことは何もしていないの」
「できうる限り、詳細な行動を思い出してもらうしかないな」
一週間ぶんも? さすがに難しいのではないだろうか。
「ふたりで話し合ったときはどうだった? 本当に全くないと言ったか? ひとつも引っ掛かることがないと?」
えぇと、とあの時の会話を思い出す。
「変わったことではないけれど、久しぶりにバジルさんに会えたと話していたわ」
「バジル? 宮廷薬師のバジル・モフロワか?」
「ええ。モフロワ家でお茶をしていたら、珍しく彼がいたって。あぁ、ロザリーはワルキエ家に引き取られる前はモフロワ家でお世話になっていたそうよ。知っている?」
だけどリュシアンは指で顎を摘まみながら、何かを考えている。
「会ったのは、いつだって?」
「きのうの前。一昨日ね」
「お茶をしていたなら、当然のことロザリーは飲食をしているな」
「そうね」
リュシアンは手を顎から離して私を見た。
「一昨々日に、モフロワに『真実の愛に辿り着く』の調合を頼んだ」
「ええ」
「あいつは、ロザリーが外的要因を受けてお前を嫁にしたいと言っていることを気にかけていた」
そうだ。大広場でロザリーがそのセリフを口にしたとき、彼は何やら呟いていた。
「多分だが、あいつはロザリーに惚れている」とリュシアンは続けた。「手元には惚れ薬かもしれないレシピがある」
「つまり……」
リュシアンが唾を飲み込んだのが分かった。鼓動が早くなる。
「バジルがダメ元で、ロザリーにこっそり飲ませている可能性があるぞ」
お読み下さり、ありがとうございます。
そろそろ終盤です。
次話を含め、幕間が何回か入ります。
ギヨーム視点で、極々短いお話です。
読まなくても本編に影響はありません。




