21・敵のターンになりました
色々なことが上手くいかない。
昨日、アルベロ・フェリーチェの花びらは無事に手に入れられたけれど、当然のこと、通りすがりの人に私が一目惚れされるなんて現象はなく、リュシアンは次は何を考えればいいのだと悩みながら帰っていた。
そして今日。晩餐も終わったという遅い時間に、リュシアンから急ぎの手紙が届いた。ディディエたちの視察旅行計画が白紙になったとの連絡だった。詳細は後日改めてとあり、何が起こったのかは分からない。期待させておいてすまないと、やや乱れた筆跡で書いてあった。
リュシアンが謝ることではないのに。
実は今日の午後は、王宮でイヴェットに会って楽しいひとときを過ごした。元々ジョルジェットと約束があったようで、良ければ一緒に来ないかと昨夕に急遽のお誘いがあったのだ。
普通のお茶会のような話もたくさんしたけれど、リュシアンについても話し合ってきた。
彼が結婚、神官以外で母親から離れる手段。留学や地方赴任はどうだろうと思ったけれど、イヴェットがとっくに提案済みだったし、兄はすげなく却下したそうだ。婚約者を気に入っているから他の選択肢なんてありえないと答えたという。
どうしてだろう。私はそれが嘘だと知っている。留学なんかでは一時的な別離に過ぎないからダメなのだろうか。
世間知らずの伯爵令嬢には、他の案なんて浮かばない。
更にお茶会では、やるせなくなったことがあった。大公妃に会ったのだ。
彼女は公務で留守だと聞いていたのだけれど、仕事が早く終わったらしい。娘の友人に挨拶をしにやって来た。どこか哀愁の漂う美しい人は、優しげな微笑みを私に向けた。バダンテールなんてどこの三流貴族かしらと嘲笑われることも、あなたが噂の悪女ねとなじられることもなく、イヴェットと仲良くしてあげて下さいねなんて普通の母親のようなことを彼女は言った。
だけれどその優しさは息子には向いていないのだ。
十年以上も、彼はどんな思いでやってきたのだろう。
そう思うと泣きたくなった。
だけど泣くより考えなきゃ。
脳みそを活性化だ。実は私は勉学は得意だけれど、ゼロから何かを考えるというのは苦手。前世では考えるより前に動いてしまうタイプの人間だった。オリジナルアニエスはそんなことはなかったけど、やはり頭は固かった。
よいしょと立ち上がり、軽く運動をする。脳を活性化できて体も鍛えられるなんて素晴らしいよね。
しばらくそうしていると。背後でガチャリと扉のノブの音がした。まずい、と思った瞬間、お盆とカップが床に落ちる悲惨な音が響き渡った。
扉に『立ち入り禁止』の札を下げておくのを忘れていた。今まで運動するときは必ず出していた。なんて凡ミスだ。
掴んでいた寝台の天蓋を離して、ひょいと床に飛び降りる。振り返ればエマが目を皿のようにしていた。
「おっ、お嬢様。一体何が。やはり悪魔にでも憑かれましたか」
エマの目に涙が浮かぶ。
「違うわ! ごめんなさい、驚かせてしまって」
単なる懸垂だけど、この世界でやる女性はあまりいないだろう。
「ちょっとね、万一に備えてというか……」
「どんな万一ですか!」
今度はエマの目がつり上がる。忙しいなあ。って、私のせいだね。申し訳ない。
「ほら、最近周りがおかしいでしょう?」
一生懸命に言い訳を考えるけれど、思いつかない。ディディエたちから逃げて庶民になる用に腕力がいるとか? なんだそりゃ。
「なるほど」だけれど何故か納得するエマ。「不埒なことをされそうになった時に殴るためですね!」
「……」
「あれ、違うのですか」
「そ、そうよ!」
それは思い付かなかった。というか、そんな恐ろしいことが起こってはいけない。絶対に。だけど確かその備えにもいいかも。
「だから今後もトレーニングさせてね」
「伯爵令嬢の腕が筋肉質になるのは問題があります」
「急に素にならないで!」
「ですがお嬢様が楽しそうなので、いいでしょう」
「そう?」
「一時のお嬢様より、良いです」
「一時って?」
「ここ一年ほど、ワガママも言わず威張らず、おとなしかったではないですか。叔父君という唯一まともな対応をする大人がいなくなったせいで、心がついに病んでしまったのかと使用人一同心配しておりました」
エマは真顔だ。だけれどほんの少し、口を普段より強く引き結んでいる。彼女は本当に心配してくれていたのだ。
「それは、ごめんなさい。自分が良くない性格だと気がついただけなの」
「確かにお嬢様の性格はよくありませんでした。だけれど急に180度変われば、私どもは不安になります」
そうか。私は誰に相談することも、それまでの態度を謝ることもしていなかった。端から見れば、理由が分からず恐ろしかったかもしれない。
「エマ。私アニエス・バダンテールは自分の欠点に気がつきました。これまでみなさんの心を挫く態度で申し訳ありませんでした。これからは敬愛されるよう努力しますから、どうか辞めずにいて下さいね」
「お嬢様」とエマはにこりとした。「ずいぶん前から、辞めたいと願う使用人はおりませんよ」
嬉しさが込み上げる。オリジナルアニエスはアレな性格だったけれど、だからと言って、ひとに嫌われていると知って平然としていられる強さもなかった。
「ですけど」とエマが真顔に戻る。
思わず背筋が伸びた。
「指の皮向けの治りが遅いと思っていました。このトレーニングとやらのせいですね。手指を使わないタイプではダメなのですか」
「……ダメね」ちょっと明後日を見て答える。「そこは見逃してくれないと、またアレなアニエスに戻ってしまうかもしれないわ」
とたんに盛大なため息をつかれた。
「……久しぶりのワガママ! 嬉しいですから諦めて差し上げます」
「まあ、エマ。ありがとう」
「……本当に悪魔は憑いていないのですね」
彼女は疑わしそうな顔をする。
「私、ブリッジで階段を降りたりしないわ!」
「……何の話ですか」
あれ。悪魔がつくとそうするのではなかったかな。
そう尋ねるとエマは、おかしなお嬢様、と楽しそうに笑った。彼女の笑い声なんて、初めて聞いたかもしれない。
◇◇
エマとの仲が深まったものの、リュシアンについての良案が浮かばず沈んだ気持ちで床についたせいだろう。その晩はひどく夢見が悪かった。起きたときにはその内容を忘れていたけれど、後味の悪さと眠りが浅かったことによる気だるさで、最悪の目覚めだった。
今日は一日おとなしく過ごそう。
そう思っていたのに、朝食が済んで部屋に下がったばかりの時間に、ディディエが急襲してきた。先触れも何もなし。バダンテール邸は大騒ぎ。
しかも第一王子は不機嫌で両親も執事も自分の従者も下がらせて、扉も閉めて応接間に私とふたりきりで閉じ籠った。
いくら王子だからといって、非常識すぎる。
「アニエス。私は怒っている」とディディエ。
私もね! 椅子に腰掛けもせずに、立ったまま相対している。なんなんだ。
「一昨日、リュシアンとお忍びデートをしたそうじゃないか」
デート? おとといは花びら配布に共に並んだ。それを曲解しているのだろう。リュシアンの変装はやはり、完璧ではなかったのだ。
「それは違います。リュシアン殿下はディディエ殿下たちに起きている事態の原因を探すために、街中にいる私に周囲がどう反応するかの観察をしていたのです。私は元より使用人たちとアルベロ・フェリーチェの花びらを頂きに行く予定でしたし、それはワルキエ男爵令嬢もご存知です。そこに後からリュシアン殿下が参加なさっただけ。それに使用人たちの他にマノン・コベールさまも一緒でした」
「聞いているが、それは言い訳だろう! リュシアンとお前が寄り添って楽しそうにデートしていたと噂になっている!」
「デートなんかでは……」
楽しかったのは否定できないけど、寄り添ってなんていない。だけれどそんな噂になっているのは、かなりまずい気がする。
「……噂は広まっているのですか?」
ディディエは吐息して、やや表情をゆるめた。
「エルネスト隊の一部だけだ。口外しないよう、エルネストがきつく命じたそうだから問題はないはずだ」
「良かった! 本当にそんなのではないのです。この異常な状況のせいでリュシアン殿下の評判が傷つくのは申し訳が立ちません」
「……」
ディディエは再び小さくため息をつくと
「クロヴィスも一緒だったそうだな。ふたりきりではないのは皆分かっている。だが、そういう問題ではないのだ。噂に必要なのは事実ではない。面白いかどうかだ。評判が傷つくのはお前だぞ、アニエス。『婚約者のいる大公令息を誘惑する悪女』とな」
「その前に『第一王子他四名の各界の人気者を手玉に取る悪女』と噂されてはいませんか?」
ディディエは気まずげに視線を反らせた。
「……それは一応、なんとかなっている」
「リュシアン殿下が収めてくれたから?」
「……そうだな」
「リュシアン殿下は事態の解決のために奔走して下さっていると、ご存知ですよね?」
ディディエの視線が戻ってきた。また不機嫌そうな表情に戻っている。
「私からすれば、恋路を邪魔する敵だ」
困った。自分の状態が何かしらの影響下にあると認めない限り、彼の側から見たらそうなるのだろう。
「協定は破棄することに決めた」
そう言ったディディエは私の手を取った。
「アニエス。お前に結婚を申し込む」
お読みくださり、ありがとうございます。
お借りしました。ネタ元。
階段をブリッジで降りる → 映画『エクソシスト』




