万華鏡のせかい:四話
二匹はしばらくそこから動けませんでした。お空はすでに夕闇に包まれかけております。それは若君の帰還を意味しておりました。そして、そこで紫が離縁を切り出すことも。
行こう、ときりだしたのはやはり青坊でした。こんどは赤坊もそれに素直に従いました。けれども涙はぜんぜん枯れてくれなくて、二匹ともずっと泣きっぱなしでした。
ひょっとしたら、ひょっとしたら紫が迎えに来てくれるかもしれない。そんな 期待を込めてなんべんも振り返りながら、二匹は森の中に入りました。
追手がかかったのは月が中天にのぼる前のことでした。二匹が傍の木の洞に入り込むと同時に、あわただしい足音が静かな夜の森を乱したのです。追ってきたのはたくさんの蛇骨族でした。鎧のようなものをまとった、おそらくは屋敷の兵たちでした。
彼らは口々に赤と青の子蛇を探せと言いながら、たいまつをかざして下ばえや落ち葉の下を探しておりました。
二匹は身を寄せ合ってぷるぷる震えながら、それでも紫のことを考えておりました。いったい、紫はどうなったのでしょう。蛇骨族のために死を覚悟していたあのやさしい娘は、いったいどうなったのでしょう。
木の洞がみつかったのはそれから半刻経ったころのことでした。居たぞという声が飛び交い、蛇骨族のひとりが洞の中に手を入れてきました。
――おい、くれぐれも殺すなよ。生け捕りにせよとの若のご命令だ。もし破ればおれたち全員打ち首だぞ。
そうして差し込まれた手に青坊のしっぽが掴まれてしまいました。青坊がきゅうと声を上げます。赤坊はすぐさまその手に噛みついてやりましたが、さすがは蛇骨族の兵、痛いと声を上げたものの、ちっとも毒は効かないようでした。
兵士は青坊を掴み、小指に赤坊をぶら下げたまま樹の洞から手を出しました。そうしてそのまま二匹は麻袋の中に簡単に放り込まれてしまいました。
こうして二匹の脱出劇はあっけなく終わってしまいました。
むらさき様はどうなったの?生きているの?
二匹はきゅうきゅうと鳴きながら麻袋を持つ蛇骨族に話しかけたのですが、まだまだ言葉が拙いためか、そう命令されているのか、それに答えてくれるものはありませんでした。
不安でいっぱいのまま麻の袋にゆられておりましたが、やがて二匹はいつかのように目の細かい籠の中に移し替えられました。その際、赤坊はもう一回青坊を掴もうとした兵の指に思いきり噛みついてやりました。ちいとも効いてはいないようでしたが、ほんのちょっぴりだけ胸の奥がすっとしました。
「おやしきにもどったのかな」
籠の中からまわりの空気を感じ取りながら赤坊が言うと、傍でしょんぼりしている青坊はかなしげにその瞳を伏せました。
「青はむらさき様のさいごのおねがいもかなえられなかった……。なあ赤坊、むらさき様はどうなったんだろう……」
目の細かい籠の中からでは外の様子はほんの少ししかわかりません。赤坊は閉じられた蓋を頭で押したのですが、か弱い子蛇のちからでは、それはびくともしませんでした。
それからというもの二匹は寄り添って眠り、そうして籠の目から差し入れられる食べ物をたべて幾日もの時を過ごしました。二匹の見張りには必ず誰かがついているようでした。時折洩れ聞こえてくる会話を必死に盗み聞いて、二匹はどうやら紫が生きていることを知りました。
――だけども時間の問題だろうなあ。
――あの座敷牢で何が行われているか誰も知らねえが、あのときの若は相当ご立腹だったろう。あの娘、ひどい拷問を受けているんじゃないのか。
――娘が座敷牢のなかで自害すらできないように、わざわざこの子蛇たちを質にしているぐらいだからなあ。若の怒りは相当深いのだろうさ。
ごうもんってなんだろう。よくわからないけどむらさき様はずっといじめられ続けているということだと思う。
赤坊と青坊はそんなことをお喋りしながらさらに幾日もの時を過ごしました。籠の中から出してもらえないので、二匹はずっとおしゃべりしながら過ごしておりました。青坊はやはり頭が良くて、ときおり難しいことを赤坊に教えてくれたりもしました。
「なあ赤坊、おれ思うんだ。むらさき様は白くてあたたかくてやさしくて、おれたちをずっと守ってくれていただろう」
「うん」
「おれたちは生まれる前に白い卵のからに守られて詰まっていたんだ。むらさき様はさ、それみたいにふつうの蛇より小さかったおれたちを守ってくれていたんだよ」
「うん」
「だけどさ、おれたちはもうりっぱなへびになったのだから、こんどはむらさき様を守るたちばになったのだと思うんだ」
「まもるたちば?」
「うん、そう。こんどはおれたちが守るんだよ」
「それいいなあ。おれは青坊よりつよいから、むらさき様も青坊もまもってやるよ」
そういうと青坊は金色の目を細めてふふっと笑いました。
「うん。たよりにしているよ、赤坊」
むらさきにもういちど会える。
何故だか二匹はそれを信じて疑いませんでした。そうして思っていたのです。もしも会えたら、こんどは自分たちで「えらんだあるじ」をしっかり守ろう、と。
籠のふたが開いたのは、それからさらに幾日か経ってのことでした。
何の前触れもなく開いた蓋からはまぶしいほどのおひさまの光がさしこまれ、二匹は暗闇に慣れた目をぱちぱちとさせました。
「あかぼう、あおぼう……」
なつかしいやさしい声がして、赤坊も青坊はあわてて目を凝らしました。白紫色の髪に赤い瞳のむすめが二匹をみつめておりました。うるんだ瞳を瞬くと、そこからは水がぽろぽろと零れてきました。
その水をあたまのてっぺんで受けとめた二匹も、泣きながら紫にとびつきました。
紫は少しばかり痩せたようでした。けれども心配する二匹に、紫はやさしく大丈夫だよと微笑んでくれました。
そうして言いました。
「時貞様が言ってくださったの。これからはずっと三匹で一緒にいられるよ。お屋敷にはもういられないけれど……」
よく見ると紫はすでに旅支度を整えておりました。きれいな着物はおろしたてなのでしょう。背負えるだけの荷物はきちんとお部屋の隅に置いておりました。
「じゃあ行きましょうよむらさき様。こんなところからさっさと出て行きましょう」
赤坊がそういうと、紫はそっとその赤い瞳を伏せました。
「……ううん。時貞様はわたしに自分が帰るまでは出てくなとおっしゃったの。だからわたしはまだここに居る。時貞様がお帰りになるのを待ってる」
「そうなんですかい?」
「……結局わたしは蛇五衛門の正妻として何にも、何にもできなかったから……」
紫はそういって悲しげに、けれどもきれいに微笑みました。
「せめて最後だけは、ちゃんと、おかえりなさいと言いたいの……」
そうして三匹は、用意されたお部屋で若君の帰りを待っておりました。甘えることもお話しすることもたくさんたくさんありましたので、あっという間に時間は過ぎてゆきました。
来訪者があったのは、お昼を食べてすぐのことでした。その蛇骨族を見て赤坊はぴょんと飛び跳ねました。
「あっ、じーちゃんだ!」
それはずいぶん前に屋敷を辞めて行った庭師の老爺でありました。じいちゃんじいちゃんと肩口にのぼってきた赤坊の頭をぽんぽんとたたいて、老爺は言いました。
「若様からの緊急の伝令がきてなあ。おれら一家で都から幾分と遠いところで暮らしているんだが、お前さんたちをそのそばで暮らさせてやれとのご命令でな、早馬で迎えに来たんだ」
「時貞さまが……」
紫は唇をぎゅとひきむすんで目をしばたかせましたが、すぐに老爺に向かってきちんと頭を下げました。
「……よろしくおねがいします」
その時です。
紫がそう言ったその瞬間、突然「それは」起こりました。




