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後宮茶妃伝 ~寵妃は愛より茶が欲しい~  作者: 唐澤和希/鳥好きのピスタチオ
寵妃の愛で茶が育つ

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78/90

秋麗、お茶を点てる

「もっと! もっと叩きつけるように! 激しく! 撃払するのです!」

 宮の中には、采夏の怒号とシャカシャカと何かがはげしく擦れる音が響き渡っていた。

 秋麗は、片手で少量のお茶の入った碗を持ち、もう片方の手には茶筅と言われる、細長く切り刻んだ竹をささらにして束ねた道具を持っていた。

 厳しい顔で腕を組み、「もっと! もっと激しく!」と声をかける采夏の側で、ただひたすらに秋麗は茶筅を使って、碗のなかに入っているお茶をかき混ぜているのだ。

 二人の周りには、冬梅達もいる。彼女達は、私達は一体何をみせられているのだろう、と思いながら二人のやりとりを見守っていた。

「な、なんで、私が! こんなことを!」

 と文句を言いつつも、采夏の迫力に押されて秋麗は言われるがままだ。

「無駄口を叩かないで! この一杯に魂をこめて! さあ! さあ!」

「もう! なんなのよ!」

 細かく茶筅をふるい続けているために、秋麗の右腕が痛い。

 だが、何故か止まれない。ここでやめてしまったら、負けたような気がしてしまう。

 この感覚に、幼い頃のことが思い出された。

「秋麗って、顔は綺麗だけど一緒に遊んでもつまらないのよね」

「分かる。鈍臭いし、何にもできないしね。それに見た? あの子の字、本当に汚いのよ」

「お母様が言っていたけど、秋麗の母親ってね、平民なのですって。しかも、男に媚びを売ってお金を稼ぐ踊り子で……」

 それらは秋麗の異母姉や従姉妹達の言葉だった。

 秋麗のいないところで、同じ年頃の子達は秋麗の陰口を言っていることは日常茶飯事

 幼い秋麗は、親戚の子らの陰口を聞きながら、唇を噛んだ。

 怒りか、悔しさか、涙が込み上げてくる。

 秋麗は、西州長の娘だ。だが、正妻の子ではない。父親が流浪の美しい踊り子に手をだして産ませた娘だった。つまり、妾の子。

 母親譲りの美貌のおかげもあって父親からは可愛がってもらえていたが、他からのあたりは強かった。

 こうやって陰口を叩かれるのは日常茶飯事で、直接罵られることすらある。

 その度に秋麗は、自分に言い聞かせてきた。

 美しくないものが、自分に嫉妬して罵っているだけ。あんな醜いもの達の言葉に負けるものか。所詮は自分に及ばないもの達の妬みの声なのだ。

 自分を下に見る奴らを逆に下に見返すことで、自身の心を守っていた。

 そのおかげで、秋麗は強くいられた。美しさだけが、秋麗の気持ちの拠り所だった。

 だが……その結果、秋麗は美しさに固執するようになった。

 より美しくあるために、体を鍛え、髪を整え、様々美容方法を自らに施した。時には偽の美容情報を鵜呑みにし、身体を壊すことすらもあった。

 そしてその甲斐あって、数いる西州長の一族の姫達の中から後宮に入る妃に選ばれたのだ。

 秋麗ならば、必ずや皇帝の寵愛を得られるだろうと言われて送り出された。

 だというのに……後宮に入ってから、何もかもが上手くいかない。

 本当は分かっていた。後宮に登れるもの達は、総じて美しい。自分と大して差はない。となれば、何を以て皇帝の寵愛を得られるのか。

 それは中身だ。

 心の清らかさ、聡明さ、豊富な知識からくる話題の面白さ、育ちから匂い立つ品の良さ……外見の美しさ以外の何か。

 何かに取り憑かれたように美しさにばかりこだわり続けた秋麗に、圧倒的に足りないもの。

 ――シャカシャカシャカ。

 誰にぶつけていいのかわからない憤りを、秋麗は茶碗にぶつけた。

 茶筅を動かし、激しくかき混ぜる。

 こんなはずではなかったのに。美しければそれで良かったはずなのに。

 それだけではだめだということを、美しさにだけに縋り付いてきた秋麗だからこそ分かってしまう。

 ひたすらに茶筅を動かす秋麗の手が暖かいものに包まれた。

 ハッとして動きを止める。

 茶筅を握る手を女性の暖かい手が包んでいた。顔を上げると、暖かく微笑む皇后、采夏の顔があった。

 先ほどまで、鬼教官のようだった女はそこにはいない。

「秋麗風妃、とても素晴らしいお手前です」

 采夏はそう言った。

 なんの話をしているのか、秋麗はよくわからなずにぽかんとした顔で采夏を見る。

「こちらを」

 秋麗を戸惑わせる原因である采夏は、視線を秀麗の手元にある碗に向ける。

 そこには、細かい白い泡がこんもりと盛られていた。

 先程までは激しくかき混ぜたことで、茶が泡立っていたのだ。

「これは……」

「なんて美しいのでしょう」

 采夏はうっとりした顔でそう呟く。

 采夏の迫力に押されて、ただただかき混ぜていたのは自分だが、意味がよくわからない。

「私……」

「これは前王朝時代に流行った闘茶というものです。今では、お茶の出来の良し悪しを、その味や香りで比べられますが、前王朝時代では、お茶の味や香りは二の次でした」

 采夏の突然の茶談義が始まった。

 本来の秋麗だったら、意味のわからないこと言わないでよ! と怒鳴り散らしていたかもしれないが、今は状況が特殊だった。

 先ほどまで限界まで腕を振るって体が疲れ果てている。

 頭がぼーっとするのだ。だから采夏の話を聞いて、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「味や香は二の次? 他にどうやって比べるというの?」

「この、泡です」

「泡……」

「お茶の味わいよりも、茶を泡立てた時にできるこの泡の出来で優劣を競っていました。より細かく長く続く美しい泡を作れたお茶が最も尊ばれていたのです」

「より美しい泡……」

「青国は王朝が変わると、以前の文化を悉く否定する傾向がありますので知らないの当然かと思います。前王朝の終末期は、とかく華美なものが尊ばれていました。それはお茶にしても同じです。お茶の価値はお茶の味ではなく、見た目の美しさで競われていたのです。当時の上流階級の貴族達はこぞって、お茶の粉を少量のお湯で溶いて撃払、つまり激しくかき混ぜて泡を作り、その泡の質でもっとも出来の良いお茶を決めていました。……秀麗様はまるで闘茶のようなお方ですね」

 采夏の言葉に、秋麗は眉根を寄せた。

「それって、どういう意味? 私を馬鹿にしているの? 美しさにこだわる私が、滅び廃れた文化と重なった? 古臭い? 滑稽にでも映ったかしら? 泡でお茶の価値を決める滅びた文化が私みたいってこと?」

 秋麗の怒りを含んだ言葉に、采夏は目を丸くさせた。

「ただの泡の見た目がいいだけ? 何を言っているのですか? 秀麗妃! 見てくださいこの泡の美しさを」

 そう力強く言う采夏の勢いに、先ほどの女教官の片鱗を感じて、秋麗はビビって身をすくめた。

 その隙に采夏はさらに秋麗に顔を近づける。顔が怖い。

「はっきりと申し上げましょう! 私には、これほどの泡は作れない。この闘茶は、お茶を誰よりも愛すると自負するこの私が! 唯一淹れられないお茶なのです!」

 そう言って、采夏は右腕の袖をめくった。柔らかくて白い腕が露わになる。

「これほどの泡を作り出せるほどの筋力が、私にはないのです! 先程秀麗様は、ただ綺麗に泡を作るだけ、などと称しましたが、ただ綺麗に泡を作るだけが、どれほど大変なことなのか、ご存知ないのですか?」

「え……」

「茶筅を素早く細かく力強く振るうために、淹れ手がどれほど血のにじむ努力を行ったことか! 闘茶の美しさのその裏には、必ずその美しさを作り上げるための弛まぬ努力があるのですよ!」

「努力……」

 秋麗は、ハッとして息を呑んだ。

 ずっと秋麗は、美しさ以外の取り柄など今までにないと思っていた。実際、外見以外のところで褒められたことは一度もない。

 それは可愛がってもらっていた父親に至ってもそうだった。

 だから、美しさ以外に自分の価値などないのだと思っていた。

 だから、そのために努力を重ねてきた。

 今思えば、秋麗はずっと息苦しかった。例えるなら、つま先立ちをして、ギリギリで息継ぎができるほどの深さの池にいるような感覚。

 常につま先で立っていないと、息が吸えない。少しでも踵をつけたら、溺れて死んでしまう。

 だから、ずっと、どんな時も爪先で立ち続けた。そうでないと、生きていけないから……。

「ご自身で淹れたこの闘茶、是非召し上がってみて」

 采夏の言葉に、秋麗はハッと我に帰って顔をあげる。

 戸惑う秋麗の目の前で、采夏がにこりと微笑む。その微笑みに押される形で、秋麗は碗に口をつけた。

 唇に、ふんわりとした柔らかい泡が当たる。口の中に、その雲のような軽やかでふわふわしたものが入ってくる不思議な感覚。

 そして微かにお茶の風味がふんわりと口に広がる。

 美味しいのかどうかはよく分からない。

 だが、気づけば秋麗は海の中にいた。

 海底は深く、つま先立ちをしていないと息が吸えない。そう思っていた。

(違う。別にそんなことしなくても、いい)

 秋麗は、海の中を潜った。体が軽い。それもそのはずだ。秋麗の足は魚の鰭になっていた。

 今の秋麗は、上半身が人、下半身が魚という幻想の生き物である人魚となっていた。

 今まで息苦しい思いをしてきたのが、嘘のように自身の身が軽い。

 軽く鰭を動かし、秋麗は海に浮かび上がった。水面から顔を出し、丸い月を見上げながら深く息を吸い込むと、潮ではなく、爽やかな草の香りがした。

 秋麗は、これまでの弛まぬ努力で、誰よりも強く美しい鰭を手に入れていたのだ。

「秋麗風妃? どうしたのだ?」

 名を呼ばれた秋麗はハッと我に帰った。

 声をかけられた方を見ると、罵り合ってきた冬梅が心配そうにこちらを見ていた。

 先ほどまでどこか夢の中にいたような感覚だった秋麗は、戸惑いながらも口を開いた。

「べ、別に、大丈夫よ……」

 正直大丈夫ではなかった。今の何? 夢? と思っていた。

「そうか? どこか心あらずと言った様子だったが……」

「きっと、お茶に酔ったのでしょう」

 うんうんとどこか訳知り顔で?、采夏が満足げに頷きそう言った。

「お茶に酔う、ですか?」

 冬梅が興味を惹かれてそう問い返す。

「はい。良いお茶は酔うことが出来るのです。さすがは秋麗様」

 そう言って、采夏は秋麗の手をとった。両手でギュッと握りしめて、キラキラとした曇りなき眼差しにて見つめる。

 あまりにもまっすぐに見つめられて、秋麗は思わず赤面した。

「初めていれた闘茶で、茶酔の境地までいかれるとは……天才です」

 うっとりするようにそう言われた。何故だか急に恥ずかしくなって、秋麗はさっと目線を下げた。

「天才? 何を馬鹿なことを……。私には美しさしかないのに。他に褒められるようなことなんて」

「何を言っているのでしょうか? その美しさを極めるためにどれほどの努力をしたのか、この腕を見れば分かります。とてもしなやかで力強い腕」

 采夏は秀麗の腕に視線を向けた。

 秀麗の体は、完璧な体形を維持するために、引き締まっている。采夏がうっとりと見つめている腕にしてもそうだ。女性らしいまるさがありつつもしなやかだった。

「な、何よ、そんなジロジロ見て……」

「秋麗様はもっと誇るべきです。美しさを維持するために自らを戒め、努力していくそのひたむきな心根がどれほど美しく素晴らしいことか」

 采夏のその言葉は、秋麗の胸の中に深く入りこみ、そして胸の底に着地するとキュンっと軽やかな音がなったような感覚がした。

 きゅっと胸が締め付けられる。

 それとともに体全体が熱った。

 容姿以外のことを褒められたことがない秀麗に、采夏の言葉は魅惑の甘さだった。

 秋麗は周りを蔑み、自分の心を保ってきた。

『彼女より私が美しい』、『私の方が優れている』、『私の方が。私の方が』。

 誰を相手にしても、自分より劣るのだと思わないと気持ちを保てなかった。

 相手を蔑まなければ生きていられない卑屈な心の醜さを抱えていた。

 そんな自身の心根を嫌悪する気持ちが、なかったとは言えない。

 自分を保つために、外見を磨いているのか、それとも自分の醜い心を隠すために磨いているのか。あるいはその両方か。

 だが……。

『努力していくそのひたむきな心根がどれほど美しく素晴らしいことか』

 采夏はそう言ってくれた。

(ただ必死になって、美しさに縋りつく私の行動を努力と言ってくれるなら……)

 今までの、虚しい人生が、急に輝きだした気がした。

「秋麗妃、今度はどうした。顔が真っ赤だぞ?」

 冬梅が、訝しげに聞かれて秋麗は慌てて口を開いた。

「は、は? な、な、な何を言っているの? ひたむきな心根が美しい? な、何を言って、あ、当たり前でしょ!? 見た目も美しければ、心も美しいものなのよ」

 口からはいつもの勝気な言葉が漏れるが、目は泳いでいた。考えがまとまらない。

「そうでしょうね。それで、あの、お願いがあるのです。秋麗風妃、私にも、そのお茶を一口いただけませんか?」

「え? 私が、今のんだお茶よ?」

「ええ、無礼も承知でお願い申し上げております。でも実は先ほどから飲みたくて飲みたくて……我慢できないのです」

 そう言って、采夏は目を潤ませ掠れた声で懇願した。

 どこか熱っぽく、艶のある采夏の顔が秋麗の目の前にある。

 秋麗は戸惑いのあまり固まった。目の前の采夏から目が離せない。

 しかし、采夏の方はもう我慢の限界とばかりに茶碗を持っている秋麗の手に自身の手を重ねた。そして秋麗が何かを言う前に、そのお椀に顔を寄せ、秋麗の手に手を重ねたまま茶碗を傾ける。

 驚きで目を見開く秋麗の目の前で、采夏が先ほど秋麗が口をつけた茶碗でお茶を飲んだ。

(……え? えっ! 今、私が飲んでいたお茶に、く、口を? そんな! それってつまり……か、間接的に唇を交わしたということでは!?)

 秋麗の中で采夏の不作法を咎めるよりもまず、恥じらいがまさった。

 先ほどから心の臓が激しく鼓動している。

 あまりの出来事に深く息をする方法を忘れたのか、息使いが荒く短いものになる秋麗に、一口こくりとお茶を飲んだ采夏の唇が茶碗から離れた。

「これが、闘茶のお味。泡のような口当たり……。同じお茶なのに、普通に飲むのとは違うまろやかさ……。私では至れない前時代の茶の境地……」

 采夏は口の中で先ほど飲んだお茶を味わうようになんどもうなずきながら、そうこぼす。

「ちょっと皇后様! 流石にそれは不作法に過ぎますよ!」

 そう声を荒げたのは、侍女の玉芳だ。

「で、でも……あんなに綺麗な泡だったのよ!? 我慢できるわけがないわ」

「子供じゃないのですから我慢してください! 流石の秋麗風妃も、あまりのことに何も言えないでいるじゃないですか!」

 秋麗は、皇后とその侍女のやりとりを先ほどから黙って見ていた。

 まだ話せるような状態ではない。心臓が早鐘を打っている。

「ははは、さすがは皇后様、あの秋麗風妃を黙らせるとは」

 と笑う声は冬梅だ。

 冬梅の声も皇后の侍女の声も、秋麗の耳には遠く聞こえる。

「ごめんなさい、秋麗風妃。私ったら、本当に失礼なことをしてしまって……。お茶のことになると周りが見えなくて、いけないことだとわかってはいるのだけど」

 申し訳なさそうにそういう采夏の言葉だけが嫌に秋麗の耳に響く。

 采夏の声を聞いて、ハッと秋麗は我に返る。

「……べ、別に、そんな焦って飲まなくても、いつでもお茶ぐらい点てるわよ」

 気恥ずかしくて、まともに采夏の顔が見られない秋麗は目を逸らしながらなんとかそう言った。

「まあ、よろしいのですか?」

 嬉しそうな采夏の声に、単純にも気分が高揚していくのがわかる。

「本当にどうしたのだ、秋麗風妃。いやに素直だな」

 冬梅の憎まれ口も今はどうでもいい。

「あ、皇后様、上唇に泡が付いていますよ」

 小さく咎めるように、玉芳が采夏にそういった。先ほど闘茶を飲んだ時に浮いてしまったお茶の泡だ。

 采夏はそれを舌でぺろりと舐めとった。その子供のような仕草に、また侍女から苦言の声が響く。

「だって、もったいないではないですか。本当に良い泡ですね。お茶を泡で飲むと、空気を含むことでまろやかになるのですね。口当たりが全然違います。真っ白なお茶の見た目の美しさはもちろんですが、この口当たりの滑らかさは普通に飲むのではなかなか味わえない……」

 と、またお茶について恍惚な表情で語ろうとした采夏が固まった。

 そして何か考えるかのように眉根を寄せていると、今度は目を見開く。

「もしかして、西方の大使がおっしゃっていたお茶というのは……」

 采夏はそう呟くと、秋麗に視線を向けた。

 秋麗は、それだけで胸がどきりと鳴る。

「秋麗様、早速ですが、またお茶を点てていただけますか。秋麗様のお茶を求めている方がいらっしゃるのです」

 甘い笑みを浮かべて、そう願い出る采夏の頼みを断れるものがいるのだろうか。

 秋麗は夢見心地な気分のままにうなずいていた。


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