黒瑛、疲れる
全てが足りない。足りないものがわからないほどにどこもかしこも足りない。
黒瑛は書類に目を通しながら、無意識に頭を抱えていた。
財を圧迫していた後宮は解散したが、妃達の任を解く際には、それなりの退職金のようなものを渡している。何も渡さずに解散となれば、人徳のない皇帝とみなされてせっかく秦漱石を追い出して得ることができた人心を手放してしまうからだ。
故に、後宮の解散は国の利ではあったが、一時的に出払った金は莫大なものとなり、青国の財は今なお厳しいものとなっている。
しかも、必要品の数が足りないと、各省から催促が来ている有様だ。
秦漱石は絹製品や外国の装飾品などの贅沢品を自分の懐に収めることにばかり注力し、国として必要な物資を揃えるという考えはなかったらしい。
秦漱石が国をめちゃくちゃにした後始末を片付けるためにどれほどの労力を割かねばならないのか。
黒瑛には先が見えなかった。
秦漱石を追い出し、兄の復讐を果たした。そこまでするにも大変だったというのに、まだまだ秦漱石というのは黒瑛を苦しめてくる。
本当なら、今頃、采夏とともにのんびりと茶を飲んで……。
そう思って、最後に采夏にあった時のことを思い出した。
采夏のほかに四大妃を迎えることの許しを貰うために会いに行った。
本当はあのまま一緒に過ごしたかったのに、それすらも叶わない己の立場を思い出してまた腹が立ってくる。憎らしい。
一区切りついたら采夏のもとに行くのだと、そう思い続けて仕事をし続けているが、仕事がひと段落すると、別の仕事がやってくる。
仕事を持ってくるのは陸翔で、彼に当たり散らしたい気持ちになることもあるが、陸翔も陸翔で働き詰めなことを黒瑛は誰よりも知っている。
革命を起こしたばかりの今の宮中に、黒瑛の味方は少ない。少な過ぎる。己の手となり足となり動いてくれる者がとにかく欲しい。いや、人だけでなく物でもいい。本当に何もかもが足りないのだ。
黒瑛は、何度目かわからない大きなため息を落とすと、ふと、鼻腔につんと爽やかな香りが刺激した。
思わず顔を上げると、執務室に誰かいる。
(先ほど、食事を持ってきた宦官か……? しかし戻るようにいったはずだが)
目を酷使し過ぎて霞む目をどうにかして凝らすと、宦官が一人で火に鍋をかけているのだとわかった。ふつふつと湯の沸く音が聞こえる。
(鍋……? なぜこんなところで、火にかけて……?)
ぼーっとする頭でどうにか状況を見てとったが、しかし、ふわふわとした頭ではどうにも飲み込めない。
しかし先ほど感じたこの爽やかな独特の香ばしい香りには覚えがあった。
茶の香だ。
「な、何をしているんだ?」
思わずそう声をかけると、ぶくぶくと音のする鍋を一新に見つめていた宦官が顔を
上げた。
「陛下、お気づきになりましたか」
その柔らかな声には聞き覚えがあった。
ハッとしてその宦官に目をこらす。穏やかな輝きを放つ栗色の瞳が目に入る。
白い頬をかすかに赤らめて、形の良い唇が弧を描いていた。
宦官の格好をしてはいるが、間違いない。
青国の皇后、采夏だ。
(采夏が、なぜここに? 夢でも見てるのか……?)
「采夏、何故ここに……?」
と尋ねながらも黒瑛は彼女が執務室に来た経緯に思い当たった。
おそらく、母、皇太后の差金だろうと。
普段後宮にいるはずの彼女が宦官の格好をしてまでここにきたということは、誰かの手引きがあってのこと。
多少化粧を加えられていることから察するに礫も手を貸している。
たびたび、何か食べろ、睡眠を取れと口酸っぱくいってくる皇太后を適当にあしらい過ぎて、采夏を巻き込むことにしたのだろう。
(全く、母上も余計な気を回して……)
思わずため息がこぼれそうになる。
自分が少し無理をしていることは自覚している。だが、多少の無理は覚悟の上。
放っておいてほしい気持ちだった。
「昼餉を持ってまいりました。まずは何か口にしてください」
そう言って示す場所には食事が並んだ円卓が見えた。
麵麭に、鶏肉の焼いたもの、干し鮑の煮付け、キクラゲの羹に、棗やクコの実など。
黒瑛が日頃好んで食べているものだ。
しかし、今はあまり食べる気にならない。それよりも目の前の仕事を片付けてしまいたくなる。
先ほどから働いても働いても仕事が片付かないのだ。一秒も無駄にしたくない。気持ちばかりが焦る。
「ああ、そうだな。また後で食べるからそこに置いておいてくれ」
黒瑛は目頭を揉み込んだ。
疲れのためか、また視界がぼやけてきた。
采夏に対して少しそっけない態度になってしまったのは分かっている。だが、今は余裕がない。周りへの気配りが持てそうにない。
「ここに置いたら、食べてくださいますか? 朝餉にも手をつけてないようですが」
采夏の声色は今まで聞いたことがないほど冷たく黒瑛の耳に響いた。
先ほどまで、皇太后に対して余計なことをしてと、ぐちぐちとした思いでいた黒瑛の背中にスーッと嫌な汗が流れる。
恐る恐る采夏の顔を見れば、笑顔ではあった。だが、目が笑っていない。
「陛下はお気づきでないかもしれませんが、先ほどから同じ書簡を何度もみているようですよ」
「……え? 同じ書簡を……? そんなこと」
と思って手元の書簡を見れば、そういえば先ほどからずっと同じ文を読み続けている気がする。
(何故か、何度読んでも意味が理解できなくて、それで何度も読むことになって……)
どうやら疲労が進みすぎて、書簡に書かれた内容を読むことさえ厳しくなっていたようだ。
そのことに改めて気づかされた黒瑛は、大きなため息を吐いた。
「陛下はお疲れなのです。お食事も召し上がったほうがよいです」
「ああ、そうだな……」
と、黒瑛は疲れた顔で頷いてはみたものの、乗り気にはなれなかった。
食欲がわかないのだ。しばらく食事らしい食事をとっていなかった黒瑛の胃袋は、何も与えられない事に慣れ始めてるようだった。
だから、黒瑛はそうだと、別の書簡を手に取った。
「この書簡が読めないなら、一旦別の書簡と片付けるか。この仕事を終えたら食事を取ろうと思う」
どうせお腹は空いていないのだからと思って何も考えなしにそう呟いた。
「この仕事を終えたら、ですか?」
再び、背筋が凍った。
采夏の顔を見れば、先ほどまで申し訳程度に貼り付けられていたはずの笑顔さえ消え去っていた。
あ、これはやばいと黒瑛は察した。
疲れた頭でも、采夏が怒っていることがわかった。
「ここは空気が悪いですね。少し窓をあけても?」
蛇に睨まれた蛙のように固まっている黒瑛に采夏はそう言うと、ツカツカと机のすぐ近くにある窓の側へと進む。
そして、透し彫りの繊細な木の窓を勢いよくあけ放った。
窓の仕切りの薄布から入る淡い光とはまったく違う、直接部屋に差し込む光の眩しさに、黒瑛は思わず目を瞑る。
次いで、ブワリと黒瑛の長い髪が靡いた。風だ。初夏の風が黒瑛の肌を撫でる。そして何かが散らばったような、バサバサという音が耳に届く。
室内のどこか淀んだような空気が、一気に風によって洗われていく感覚がした。
そして先ほど聞こえたバサバサと何かが飛んだような音の正体が気になって、黒瑛は目を開けた。すると、ひらひらと紙が舞うのが目に入る。
床には、紙類の他に竹でできた書簡も散らばっている。
唐突に吹き込んだ突風に、黒瑛の机に置かれていたものが飛ばされて落ちたのだ。黒瑛はあっけに取られて呆然と見やった。
書簡まみれになったその部屋で、采夏がくるりと黒瑛を振り返った。
満面の笑みを浮かべている。
「陛下、大変もうしわけありません。風でお部屋が散らかってしまいました。私が責任を持って整理いたしますので、陛下はその間、どうぞ食事を召し上がりくださいませ」
強制的に黒瑛が仕事をしないように風を呼び込んだ張本人は、有無は言わせぬと強い瞳で語りかけていた。









