皇太后はお茶を飲む 前編
「私に飲んで欲しいお茶?」
息子に言われて部屋に匿った妃から妙な提案をされ、永は少々戸惑った。
(この子、綺麗な子ではあるのだけど、ちょっと独特というか。池の水飲もうとするし。黒瑛がこういう子が好みだったなんて意外だわ。池の水飲もうとするし)
池の水を飲もうとしていたことが引っかかりまくっている永が、息子の好みについて審議しているとは知らずに采夏は口を開く。
「はい。茶葉は鳥陵殿にあるので、一度取りに戻れたらいいのですが……」
「取りに行くのも大変でしょう? この前陛下から大量にお茶を頂いたのよ。その中にあるかもしれないわ」
そう言って永が侍女に声をかけると、すぐにふすまが開き、膳を持った女性がぞろぞろと入ってきた。
火鉢やら、茶器やらを運び込む。茶葉もあった。
采夏を守るお礼にと、黒瑛からもらった茶葉だ。
もともと采夏と一緒に茶を飲もうと思って永が用意をさせていた。
(采夏妃の茶の腕前、黒瑛があそこまで言うから気になっていたのよね。向こうから言いだしてくれて丁度良かったわ。うちの息子を虜にしたお茶の腕前見せてもらおうかしら)
「この中に目当てのお茶はあるかしら?」
「ええ、この香り、間違いありません。ございます」
「あら、香りだけで分かるの? 流石ね。楽しみだわ。貴方の淹れるお茶がおいしいと陛下から聞いていたのよ」
「そうおっしゃっていただいたのは嬉しいですが、私の淹れるお茶がおいしいというよりも、陛下が茶を飲む才能に恵まれているからかもしれません。陛下は本当にすごいのです。茶を愛し茶に愛されるために生まれてきたと言っても過言ではありません」
本当に感心するように言う采夏に、永は首を傾げた。
「茶のみの才能……? 茶を飲むのに才能がいるのかしら?」
「もちろんでございます。恐れながら陛下は茶飲みとして歩き出したばかりであるにも関わらず、
すぐに茶酔の境地に達してしまいました。それは恐るべき才能です! これほどまでに茶に愛された性質をお持ちな方は初めて目にしました。流石は皇帝陛下です。皇帝の貫録を感じました!」
目をキラキラさせて、興奮したように言う采夏。
(茶の飲み方で皇帝の貫録なんて出るかしら……。というか、茶飲みとして歩き出したばかりって、黒瑛ったら茶飲みっていうのになるつもりなの? そもそもそれは職業なの?)
皇太后の頭の中は疑問でいっぱいだ。
しばらくぐるぐる茶飲みについて考えてから、皇太后は「あら、そう……」とだけ答えた。
なんとなくこの話を広げてはいけないような気がし、賢明にも相槌で済ませたのだ。
商人の娘から皇太后にまで成り上がった女の勘である。
もう少し皇帝の茶飲みの才能について話したそうな顔をしていた采夏だったが、皇太后の侍女達が采夏の目の前に茶道具を並べ始めて意識がそちらに向いた。
「それでは、さっそくお茶をお淹れしますね」
そう言って、采夏は生き生きとした顔で茶道具に手を出した。
◆
「こちらが、皇太后様に飲んでいただきたいお茶にございます」
そう言って采夏は、白い茶杯に淹れた茶を皇太后に差し出した。
色は、目が覚めるような透明な黄色。
「あら、良い香り……」
湯気と共に立ち上がってくる香りは、華やかでいて爽やか。
「これは……茉莉花かしら?」
鼻からスーッと息を吸い込み湯気から立ち上る香りも味わうように、皇太后は問うた。
「はい。こちらは茉莉花茶と言いまして茶葉に茉莉花の花弁を混ぜて香り付けをした直茶でございます」
「そう、やっぱり! 私、茉莉花の花が好きなのよ。この香り本当に素敵」
華やかで優雅な茉莉花の香りは、永にとって特別なものだった。
永の父は商人で、稼ぎは特別少ないわけではなかったが、永を含めて子供が10人いる家の生活は苦しかった。
両親に言われたわけではなかったが、長女である永は自ら女官として後宮に入った。
商人である親の手伝いで文字の読み書きや計算ができたためである。
そして、今もよく焚き染めている茉莉花のお香は後宮に入る際に、商人だった父が持たせてくれたもの。
父が取り扱う商品の中で最も高価な品だった。
辛いことがあった際も、この香りで家族を思い出して強かに生きた。
その生き生きとした姿が良かったのか、女官の身でありながら陛下の目に留まり、気づけば皇太后の地位についていた。
茉莉花の香りは、永にとって故郷の匂い、家族の匂いだ。
永は、家族の記憶に想いを馳せながら茶杯を傾けて口に流す。
しっかりとした渋みが舌を舐めた。
そしてすぐに甘味と花の華やかな香りが口いっぱいに広がってゆく。
人によってはしつこくなりがちな花の香りを緑茶の苦味が混ざることですっきりとした風味になり、飲みやすい。
喉通りも爽やかだ。
茉莉花の花の可憐な爽やかさを凝縮したような味わい。
「心陵殿で焚き染められているお香も、茉莉花の花を元にして作られたものでいらっしゃいますよね?」
永がほうと息をつき、茉莉花茶の余韻に浸っていると采夏がそう尋ねてきた。
「ええ、この花の香りが好きで。いつもこのお香ばかり。お茶にしても本当においしいわね」
「黒瑛陛下もこのお茶をお好きなようでした。一緒にこちらのお茶を飲んだ際、優しい味がすると仰って……きっと陛下は、皇太后様のことを想いだされたのだと思います」
永が侍女に二杯目の茉莉花茶を注がせていると、采夏がそう言った。
「私を……?」
茶杯を運ぶ手を止めて永は采夏を見た。
「香りは、人の記憶や本能に強く結びついております。皇太后さまはいつも茉莉花の香りを身に纏っておいでですから、茉莉花茶の香りに触れた陛下は、間違いなく皇太后さまのことを想いだされたはずです。そして、とても、優しいお顔をされてました。本当に皇太后さまのことをお嫌いになられていたら、茉莉花茶を飲んで、そのようなお顔をされるはずがございません」
「あの子が……」
先日訪れた息子の姿が胸に浮かぶ。
眉間に皺を寄せて、難しい顔をする息子。
士瑛を亡くしてから、そんな顔をすることが多くなった。
実際行き場のない憤りを抱えているのだろう。
今すぐにでも士瑛の敵を取りたい気持ちを抑え込んでいる。
そしてそれは……。
(弱い、力のない、私のせい)
「そんなはずないわ。あの子を苦しめているのは、私、なのだもの。あの子の命惜しさに、私はあの子が望まぬことばかりを口にしてきた。あの子は私を恨んでいる」
自分がいるから黒瑛は動けない。
士瑛に続きあの子まで失いたくないと願うばかりに、あの子を縛っている。
自分は、息子の足枷。
永の心の中にはいつもその想いがあった。
秦漱石や貞花妃をのさばらせているのは、自分の弱さ。
もう家族を、大事な子供を失いたくなくて、道理を貫こうとする息子の足枷になっている。
「陛下とは、何回か一緒にお茶を飲みました。
一緒にお茶を飲むと分かってくることがあります。
陛下はそっけない振る舞いをされますが、とても優しくて正直な方です。
そんな方が、嫌いな人に対してこれほどのお茶を贈るでしょうか?」
そう言って、采夏は、侍女たちが運んできた茶葉を眺めた。
つられて永も茶葉の山を見る。
「それに、こちらにある茶葉は全て、陛下がたくさんの茶を飲み比べた上で特別おいしいとおっしゃった茶葉です。私はおいしいお茶を飲んだ時、家族、友人……親しい人達を思い浮かべます。一緒にこのお茶を飲めたら、どんなに楽しいだろうと想像します。陛下も同じではないでしょうか。自分がおいしいと感じたから、皇太后さまにもそう感じてほしくてこれらの茶を贈ったのではないでしょうか」
優しい采夏の言葉がすーっと永の心に落ちてくる。
今までしこりのようになってつっかえていた気持ちが、動き出したような感じがした。









