采夏は走る
「今日も、貞花妃からの嫌がらせがなかったわね」
いつものように朝餉を持ってきてくれた玉芳がそう言いながら漬物をポリポリと食べる。
采夏と黒瑛が二人きりの茶会をしてから数日経過していたが。その頃から毎日のように行われていた豚の頭などが部屋に投げ込まれるなどの嫌がらせがなくなったのだ。
采夏もその言葉に頷いた。
「そうですね。先日、陛下から頂いたお茶を後宮の皆さんにお配りしたので、もしかしたらお茶の素晴らしさに気付いたのかもしれません」
采夏はおっとりとそう返したが、玉芳は呆れたような色を瞳に浮かべて首を振った。
「いや、それは絶対関係ないと思う」
「おいしいお茶を飲んで、貞花妃様は、自分が以前茶師のことをけなしたことを悔いているのでしょう」
「あんた、その件結構、引きずるよね。もっと他に怒るところあったと思うけど」
呆れたように言う玉芳との会話もいつものことだ。
そう言って玉芳は笑うと、采夏のすぐそばに置かれた籠を見た。
「そういえば、最近その籠を良く眺めてるけど、中身何が入ってるの? お茶?」
「ああ、これは生の茶の葉です。殺青をしてないので、お茶としては飲めないものです」
「さっせい……?」
「お茶を作るための工程の一つです。釜に火をかけて茶の葉を炒めます。そうすることで、香ばしい茶が出来上がるんですが、この火入れの仕方で茶の味が変わってくるほど大事な工程なんです」
「へえ、じゃあこれが、采夏が作った茶の葉っぱってことか。これ、今から青殺って言うのしたら飲めるの?」
「この生の茶葉は摘んでから時間が経っているので、今からしても遅いでしょうね。いつかは処分するつもりですけど、まだ踏ん切りがつかなくて……。玉芳にとってはただのゴミのようなものに見えるかもしれませんが、しばらくは部屋に置かせてください」
「もちろんいいし、大体ゴミだなんて思うわけないじゃん。采夏の大事なやつでしょ?」
当たり前のようにそう言われて、采夏はしばらく目を見開いた後、すっと柔らかい笑顔を浮かべる。
そう、この茶の生の葉は、人にとってはただのゴミでも、采夏の茶師としての誇りだ。
それを分かってくれる人が側にいてくれることが、嬉しい。
(私、ここに来てよかったわ。陛下に、玉芳に……出会えたのだから)
あのまま、故郷に戻っていたら、きっと今頃は結婚をしていただろう。そしてその結婚相手が、采夏の茶を認めてくれるとは限らない。
「ありがとうございます」
改まって采夏がそう言うと、玉芳は少し照れたように頬を赤らめそっぽを向いた。
「なによ、そんな改まって、あ、当り前じゃない。気持ちはわかるし。私もさ、やっぱり最初に使ってた二胡は特別だもん」
そう言って玉芳は側に置いていた自分の二胡に触れる。
多少年季が入っていて、お世辞にも質のいい高価な二胡とは言えないが、
それでも大切に手入れされたことがわかるほど綺麗にされている。
「……また、玉芳の二胡が聞きたいわ」
「今日は、午後に別の妃に二胡弾いてって言われてるから、それまでならいいわよ。いつもくれる茶のお礼ね。ちなみに今日聴かせる妃には肉団子で手を打ったの」
ニッと歯を見せて笑う玉芳はそう言うと、二胡を響かせてくれた。
◆
玉芳の二胡を楽しんだ後、彼女は約束していた妃の元へと行った。
残された采夏は、久しぶりに内庭でお茶を楽しむことにした。
思えば、黒瑛との出会いもこうやって外でお茶をしていた時だ。
(なんだか、すごく懐かしい)
あの時は春。今は夏。
日差しは強くなってきたが、木陰の中はまだまだ快適だ。
「采夏妃様! こんなところにいらしたのね! 大変なのです、玉芳妃が!」
人の足音が聞こえてきたと思ったら、慌ただしい声が続く。
声のした方へ顔を向けると、司食殿の宮女が真っ青な顔でこちらに向かって走ってきている。
その尋常ならざる様子に、采夏は広げた茶道具もそのままに立ち上がった。
「玉芳妃がどうしたのですか?」
「玉芳妃様と采夏妃様が鳥陵殿を留守にしている間に、誰かが中を荒らして物を盗ったようなのです! それで、鳥陵殿を荒らしたのが、貞花妃様の侍女だって聞いた玉芳が飛び出して行って……貞花妃様のところに!」
妃の顔は青ざめていた。
玉芳のことだから、荒らされた鳥陵殿を見て頭にきたその勢いで飛び出したのだろう。
その剣幕で貞花妃の元に行けばどうなるか。
穏便に済ませられるはずがない。
「申し訳ありません、私。貞花妃様が怖くて、何も……」
知らせてくれた宮女はそう涙を流して地面に臥せる。
「いいえ、何もできないなんてことありません。知らせてくれてありがとうございます。私が、行きます」
采夏はそう言って、走り出した。
向かうは後宮の西側。
ひと際大きな屋敷、花妃が住まう花陵殿だ。









