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第3章 煙る雨 3

 2025年8月26日

 細かい修正を行いました。

 現在の異人街の衛兵詰め所は約20年前の大火で一度焼け落ちた後に再建されたもので、再建されて以来、建物の前を通った事は何度もあるが中に入ったのはこの時が初めてだった。

 3階建ての衛兵詰め所は周囲の5階建ての集合住宅に比べて高さだけでなく、横幅も狭い印象を受ける。

 入口を入ってすぐの場所はあまり広くないホールになっていて、カウンターによって手前と奥に仕切られ、ホールの3分の2以上を占める奥の空間には10名前後の衛兵が忙しそうに仕事をしていた。

 取り敢えず一番近くにいた衛兵にワイアットに会いたいと告げると、胡散臭そうに用件を尋ねられたが、ダリルの名を出すとすぐに取り次いでくれた。

 2階に通じる狭い階段を降りてきたワイアットは、あたしの顔を見るなり失礼にも露骨に嫌そうな顔をする。

 「何の用だ、ゾラ?」

 警戒心を隠そうともしないワイアットに、あたしは務めて愛想よく笑いかけながら言う。

 「ダリルが倒れた事は聞いている?倒れたダリルに依頼されて、彼女の代わりに今日の通り魔事件の詳細を聞きに来たんだけど。」

 あたしがそう言うとワイアットの表情が変わり、心配そうに訊いてくる。

 「ダリルが倒れたのは聞いていたが、大丈夫なのか?詳しい事はまだ全然知らないんだが?」

 「自分が妊娠しているのに気づかずに無茶したのが原因みたい。取り敢えず今の所は大事ないみたいだけど、しばらくは安静にしている必要があるみたいね。」

 あたしがそう言うと、ワイアットはホッとした表情になる。

 言動が一々小役人っぽいワイアットだが、こういう所を見ると根は善良な男なんだな、と思う。

 「まあ何にせよ、そりゃめでたい話だな。実はウチのカミさんもまた身籠ってな。」

 立派というよりは大袈裟といった印象の、整えられた口髭を生やしたオッサンがニヤけ出したので、あたしはちょっと引きつつ尋ねる。

 「へえ。何人目?」

 「4人目だよ。」

 「それはそれは。」

 どうリアクションすべきかよく分からなかったので、愛想笑いを浮かべながら適当に相槌を打つ。

 「そういう訳で、今クビになる訳にはいかないからな。お前も厄介事を持ち込んだりするなよ。」

 「品行方正を絵に描いたようなあたしがそんな事する訳ないでしょ?」

 あたしの言葉にワイアットはジトっとした視線を向けたが、それ以上は突っ込まずに話題を変えてきた。

 「こんな所で立ち話もなんだし、執務室に来い。」

 「分かった。」

 あたしは頷き、ノエルとジーヴァを引き連れてワイアットに続いて狭い階段を登っていく。

 ワイアットの執務室もやはり狭かったが、意外と綺麗に整頓されていた。

 「悪いな、こんな冷めたのしかなくて。」

 あたしが外套掛けにマントを掛けている間にワイアットはポットからお茶を注いでくれた。

 ワイアットの言う通りお茶からは全く湯気が立っておらず、飲まずとも冷めているのが分かった。

 「いえ、お気遣いなく。」

 あたしがそう言うと、何故かワイアットは珍獣でも見るようにあたしを見たが、特に何も言わず余程喉が乾いていたのか自分の分のお茶を一気に飲み干す。

 お茶って、そういう飲み方をするものではないと思うのだが。

 ワイアットが執務机の向こうの自分の椅子に座ったので、とりあえずあたしも彼の執務机を挟んで手前にある適当な椅子に座る。

 「それで、今朝の通り魔の話だったな。」

 「そうそう。もう捕まえた?」

 あたしが尋ねると、ワイアットはわざとらしく咳払いをする。

 「いや、まだだな。今回は特に難しそうだ。」

 ワイアットの言葉に、今度はあたしがジトっとした目で彼を見る。

 あたしの視線に気付いたワイアットが、慌てたように言う。

 「だって、仕方ねえだろ?今朝は雨のせいで皆マントにフード姿で、犯人の顔をきちんと見た奴も居ねえんだ。」

 「まあ、それは……。仕方ないかもね。」

 「しかも、被害者が3人もいるのにあっという間の犯行だったらしい。被害者や周囲の人の話を聞くに、被害者が刺された事を自覚した時には既に犯人は現場を離れていた可能性すらある。」

 あたしは眉をひそめる。

 「通り魔って聞いたから、興奮した奴が滅茶苦茶に刃物を振り回しているイメージだったけど……。」

 「そう言う感じのヤマじゃねえな。手口に限って言えばプロの殺し屋の犯行と言った方がしっくりくるくらいだ。だがプロの殺し屋が、こんな無差別な犯行をするとも思えないんだよな。」

 大きくため息をつくワイアット。

 どうやら、彼にとっても訳の分からない事件らしい。

 「被害者の容態は?」

 「幸い、重傷者はいなかったな。いや、幸いというのは違うかも。」

 「どういう事?」

 「手口は、被害者が3人共短剣のような武器で一刺しって事だったんだが、急所を敢えて外して刺した可能性があるんだよな。治療をした神殿のボルクの話だと、派手に血が流た割にはどの傷も内蔵や太い血管から外れていたらしい。治療が遅れれば失血死する可能性もあったらしいけど、犯行現場自体神殿のすぐ傍で、実際被害者もすぐに神殿に担ぎ込まれたし、余程の事がない限り手遅れにはならない状況ときたもんだ。」

 「なんでそんな事を?」

 「さあな、想像もつかねえな。」

 「愉快犯って線は?」

 少し考えてからあたしは言ってみたが、ワイアットは首を振った。

 「被害者の方だって皆、雨降ってたからブカブカのフード付きマントを羽織っていたんだぞ。そのブカブカのマント越しでも正確に急所を外せる腕を持った奴が、愉快犯的な動機だけで犯行を行ったとは俺には思えないんだが。」

 「敢えて急所を外せるって事は、その気になれば急所を一突きってのも出来るって事か。」

 「その通りだよ。どうも犯人は明確な目的を持っていたように思う。ただその目的が皆目見当がつかない。」

 そこまで言ってからワイアットは大きくため息を吐き、あたしに語りかけるというよりは独り言のように呟く。

 「単に治安が悪いってだけの話じゃなくなってきた気がするな。」

 そう呟くと、ワイアットは再びポットからカップにお茶を注ぎ、一気飲みする。

 その様子を見てから、あたしはちょっと突っ込んだ質問を試す事にする。

 「事件が起こった時の、衛兵の巡回ってどうだったの?」

 「ああ、それは……。」

 ワイアットは軽い調子で答えかけたが、ふと何かに気づいた様子で口を閉じるとジロッとあたしを見た。

 「ダリルから何か吹き込まれたのか?」

 別にやましい事はないはずだが、あたしは誤魔化すように笑う。

 「何の話かな?」

 ついでに落ち着こうと、カップに手を伸ばしてお茶をすする。

 冷めたというより生温いお茶は、予想通りあまり美味しくはなかった。

 あたしがカップをソーサーの上に戻すのを見届けてから、ワイアットはため息を吐き、あたしから視線を逸らしつつ言う。

 「お前らの想像の通りだよ。」

 「そう。」

 ワイアットの立場としてはそれ以上言えない事を察したあたしは、それ以上は突っ込まない事にする。

 それからあたしは、事件の具体的な状況や捜査の進展などを聞いたが、白昼堂々の犯行にしては不明な点が多く、捜査もほとんど進んでいないという事しか分からなかった。

 言葉の端々から、ワイアットもここ1ヶ月程の事件の多さに不自然なものを感じているのが伺えたが、ダリルに思わず口を滑らせた反省があるのか、疑念を裏付ける具体的な事柄については口が固く、上層部に対する愚痴くらいしか出てこなかった。

 今の時点でワイアットからこれ以上の情報は得られないと判断したあたしは、立ち上がった。

 「色々教えてくれてありがとうね、ワイアット。」

 あたしが左手を差し出すと、ワイアットは戸惑うような表情になる。

 それから、また1つ咳払いをした。

 「まあ、なんだ。何を企んでいるか知らんが、あまり無茶するなよ。同期のほとんどは引退するか、俺みたいな宮仕え冒険者になっちまって、お前みたいな現役はほんの少ししか残ってないからな。」

 ワイアットがあたしにそんな事を言うなんて意外過ぎて驚いたが、かつての戦友からそんな事を言われれば単純に嬉しいものだ。

 でも捻くれ者の悪い癖で、つい混ぜ返してしまう。

 「おや、柄にもなくそんな素直な事を言うなんて、自分の未来に不吉な予感でもした?」

 「うるさいな。不吉な予感っていうなら、この前お前と再会してからずっとしているよ。」

 あたしの憎まれ口に、ワイアットは嬉しそうに悪態で返してくる。

 やっぱり、あたし達にはこういうやり取りが合ってるかもしれない。

 「まあ、精々ロジーナに逃げられないように頑張って稼ぎなさいよ。」

 「本当にお前は口が減らねえな。いいか、口では色々言ってるが、ロジーナの奴は今でも俺にべた惚れなんだよ。」

 「へえ、そうなんだ。じゃあ確認する為にもロジーナに会わせてよ。」

 「それだけは本当に止めろ。」

 あたしとワイアットが懲りもせずに悪態の応酬を楽しんていると、執務室の扉をノックする音がする。

 「誰だ?」

 「ロニーであります。」

 「入れ。」

 大きな悪ガキの顔から、瞬時に役人の顔に変わったワイアットをちょっと感心しつつ眺めながら、あたしは狭い執務室の端の方に移動する。

 入ってきたのはまだニキビの残る若い衛兵で、大袈裟にビシッと敬礼する。

 ワイアットの方は少し顔をしかめつつ、緩い敬礼を返す。

 「で、どうした、ロニー?」

 ロニーという若い衛兵は一瞬だけあたしに訝し気な視線を向けたが、すぐにワイアットに視線を戻した。

 「はい、チーフ。今度新しいエリア長になられたと仰る方が参られまして、チーフに会わせろと。」

 「ああ、そうか。確かにエリア長が変わるとかいう話があったな。クソッ、忙しくて忘れてたよ。」

 ワイアットは忌々し気に呟いてから、ロニーの方を向く。

 「エリア長殿は、今1階ホールか?」

 「はい。」

 「では今すぐ、新しいエリア長殿をここに案内しろ。」

 「いえ、それが、衛兵全員に対しての訓示をまず行うから、チーフも含めて全員1階ホールに集合するように、との事です。」

 「ああ、新しいエリア長は面倒臭いタイプか。」

 ワイアットはロニーに聞こえないよう小声で呟くと、小さくため息をつく。

 「分かった、すぐ行くよ。」

 「はっ!」

 ロニーはまた大袈裟な敬礼をすると、退室した。

 「ねえ、エリア長って?」

 ロニーにまた緩過ぎる敬礼を返したワイアットに、あたしは尋ねる。

 「この街に散在する衛兵詰め所は大まかに4つのエリアに分かれていてな。そのエリア1つを統括するのがエリア長だ。因みにここはDエリア。この詰め所の正式名称はD-7詰め所だ。まあ、俺の直属の上司だな。」

 ワイアットは立ち上がり、鏡の前で大袈裟な口髭や服装を正しつつ言う。

 「じゃあ、次にワイアットが目指すべき地位って事?」

 「どうだかな。」

 鏡に映る自分の顔を凝視し、ちょっと薄くなりかけた髪を神経質そうな手つきで櫛で梳きつつ、ワイアットは言う。

 「俺が新入りの頃は、余程派手な手柄を立てない限り叩き上げがチーフになるのも難しかった。実際長い間、現場の事を何も分かっていない豪商の子息とか、本土の貴族のご子息様達ばかりがチーフに就くって事が常態化していたものだ。ソニア様がギルド長になってからそういった中でも酷過ぎる連中が一掃され、その結果中堅幹部に人手が足りなくなって俺みたいな奴でもチーフになれたんだが、最近はどうも昔に逆戻りしている感じがしてな……。」

 長々と語ってから、ワイアットはあたしを見て困ったように笑う。

 「そういう訳で、俺がエリア長になれる可能性はほぼ無いな。さて、そろそろ行かないと。新しいエリア長殿はどうも口煩いタイプっぽいからな。」

 その言葉を聞いて、あたしは少し不安になる。

 「あたしは裏口から帰った方がいい?」

 あたしの言葉にワイアットはあからさまに顔をしかめる。

 「よしてくれ。コソコソした方があらぬ噂を立てられてしまう。お前は異人街の顔役の代理として堂々と新エリア長殿に挨拶してから帰ればいい。」

 「分かった。」

 ワイアットの言葉に頷くとあたしはマントを羽織ったが、敢えてフードは被らずに顔が見える状態にする。

 ワイアットの後に続いて狭くて急な階段を降りると、1階ホールに10人以上の衛兵達がビシッと整列していた。

 衛兵とはいえ、常備軍や正式な治安部隊を保有できないハーケンブルクでは長期雇用の冒険者という建前なので、こうしてきちんと整列しているイメージがあまりなく、少し驚く。

 まあ、あたしが知らないだけで、お偉いさんが訪問してきた時には普通の光景なのかもしれないが。

 「遅かったな、ワイアット。チーフがそんなのだから平の衛兵達の規律が弛んでしまうのだ。」

 ワイアットの後から階段を降りてきたのでまだ死角になって見えないが、整列している衛兵達の正面方向、ホールの奥から偉そうな若い女の声がした。

 何だか聞いたことのあるような声だ。

 「来客中だったので、申し訳ありません。」

 ワイアットが階段の登り口の所で足を止めて頭を下げたので、あたしはそれ以上前に進めずにその場に留まる。

 何だか、ワイアットの声も戸惑っているように聞こえるが、気のせいだろうか?

 「まあ、よい。こちらに来い。いくつか連絡事項がある。」

 「はい、では失礼します。」

 ワイアットはもう一度頭を下げてから奥に向かう。

 結構ガタイの良いワイアットが目の前から移動した事で、整列している衛兵達の横顔がよく見えるようになったが、その内の何人かの頬にミミズ腫れがある事に気づく。

 仕事柄生傷が絶えないとはいえ、さっき詰め所に入った時には全く気づかなかったし、そのミミズ腫れ自体出来たばかりのように見えた。

 不信感を抱きつつ階段を降りてホールの奥を見た瞬間、あたしは凍りついた。

 ホールの奥に陣取った3人に見覚えがあったからだ。

 あたしが1回だけ関係を持ち、その後故郷に帰った女シーフ、リザの所属していたパーティ『レイ・オブ・グローリー』の残り3人がそこにいた。

 高慢な貴族のお嬢様のイザベラを中央に、彼女の斜め後ろにリザの元彼のベクターと、現在のベクターの彼女という噂のある鳥の獣人のシェールが控えていた。

 更にその背後に、いかにも戦士といった装備に身を固めた中年男が2人いたが、その2人には見覚えがなかった。

 驚き固まっているあたしとは対照的に、イザベラもベクターもあたしの顔を見ても特に驚いた様子もなく、イザベラに至ってはあからさまに嘲笑を浮かべさえした。

 この前と同様に使い魔である極彩色の小さな蛇をネックレスのように首周りに巻いたシェールもあたしの顔を見たが、特に興味を示す様子もなく、すぐに視線を落としていつもの枝毛チェックを始める。

 イザベラは明らかにあたしを見て嘲笑を浮かべたにもかかわらず、近寄ってきたワイアットに白々しく尋ねる。

 「部外者のようだが、彼女は?」

 「担当区域の顔役が病で倒れたので、その代理で来た者です。担当区域の住民との意思疎通は治安維持の観点からも重要と思われますので。」

 あたしとイザベラ達との関わりを知らないワイアットは、何の疑いもなく淡々と答える。

 「最近の犯罪件数の増加、及び検挙率の著しい低下を鑑みると、その効果も薄いようだな。」

 イザベラはワイアットの言葉をザックリと斬り捨て、ワイアットは黙り込む。

 「しかしまあ、ワイアットチーフの意見にも一理ある。代理殿には後で挨拶するから、しばらく待っていて欲しい。」

 再び嘲笑を浮かべつつあたしを直視したイザベラから、ピシピシと音がする事に今更ながら気づく。

 よく見ると、彼女は右手に乗馬用の鞭を持っており、黒革の手袋をはめた自分の左掌をそれでリズミカルに軽く叩いていた。

 その乗馬用鞭が、衛兵達の頬のミミズ腫れの原因なのは明らかだった。

 相変わらず胸糞の悪い女だ。

 言葉を失って返事も出来ないあたしを無視して、イザベラは衛兵達に向き直る。

 「では、改めて自己紹介させてもらおう。私は、イザベラ・ホーエンツォレルン。このD地区の新しいエリア長だ。」

 イザベラが高らかに宣言すると、ベクターが前に進み出て、手に持った高級そうな紙を掲げて衛兵達に向けて広げてみせた。

 距離があったので何が書かれているのかは読み取れなかったが、エリア長就任の辞令か、それに類する物なのは容易に想像がついた。

 衛兵達に向けてその紙を掲げてみせてから、今度はワイアットの前に行き、その紙を手渡す。

 あたしはその茶番としか思えない儀式を冷めた目で眺めながら、かつてリザがイザベラの姓について、聞いた事はあるが長すぎて覚えられなかったと言っていたのを思い出す。

 確かに、長すぎる上に舌まで噛みそうな姓だ。

 (ホーエンツォレルン家って、自治都市になる前のハーケンブルクの領主だったブランズウィック侯爵家の親戚筋で、ブランズウィック家と共に反動貴族の中心的存在だよ。)

 ノエルが念話で語りかけてくるが、その内容については相変わらず物知りだな、程度にしか思わなかった。

 ただ念話が終わった直後、それまで枝毛チェックに余念がなかったシェールが、あたしの顔をジッと見ている事に気づいた。

 あたしと目が合うとシェールはヘラっと笑い、すぐに枝毛チェックに戻ったが、あたしは背中に冷たいものが走るのを感じた。

 一方、書類を確認したワイアットはそれをベクターに返す。

 「間違い無いようですな。」

 書類を受け取ったベクターは、それを丸めて腰に吊った筒の中に入れると、懐からそれとは別に封筒を取り出しワイアットに差し出す。

 「これは?」

 ワイアットはどちらに質問して良いのか判断がつかない様子で、イザベラとベクターを交互に見る。

 「新しい辞令だ。お前にとって悪い話ではない。」

 イザベラはそう言いつつも、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 あたしも嫌な予感がしたが、ワイアットも同じように感じたのか遠目にも彼の顔が引きつっているのが見えた。

 封筒から紙切れを取り出したワイアットは、それを一目見て小さくため息を吐く。

 「ワイアットチーフは3日後、A−3衛兵詰め所に転属となる。」

 ワイアットが紙切れに目を通したのを確認してから、イザベラはよく通る声で衛兵達に向って言う。

 衛兵達から動揺したようなざわめきが起こるが、イザベラはそれを無視して再びワイアットに向き直る。

 「3日間は新しいチーフへの引き継ぎや、移動の準備等で引き続きこちらに詰めてもらおう。なに、A−3詰め所の管轄区域は高級住宅街だ。ここと違って治安は格段に良い。栄転だよ。」

 イザベラの言葉に、ワイアットは力のない愛想笑いを浮かべた。

 「それは有り難い事ですな。」

 もしかしたら多少の皮肉を込めたのかもしれないが、声に力がなさ過ぎたせいでお追従にしか聞こえなかった。

 「それで、新しいチーフだが。」

 イザベラに目配せされ、ベクターが嫌味の感じられないいかにも好青年然とした微笑みを浮かべながら前に進み出る。

 好青年ぽい笑顔が自然と浮かぶのは、色々と彼に対して思う所があるあたしでさえ、流石と思わざるを得ない。

 「この度、このD−7詰め所のチーフに就任したベクターです。長年、冒険者として活動してきましたが、諸事情により衛兵隊配属となりました。慣れない事も多く、最初の頃は皆さんに迷惑をかける事も多いかと思いますが、宜しくお願いします。」

 ベクターは相変わらずの好青年っぽい微笑みと穏やかな口調で挨拶をするが、衛兵達は戸惑いの表情を浮かべただけで、ほぼリアクションはなかった。

 それもそうだろう。

 衛兵達から見れば、ベクターは暴君然としたイザベラの手下にしか見えない。いくら腰が低そうな好青年に見えても、すぐに信用出来る相手でもないだろう。

 ベクター自身はうっすらとした笑みを口元に浮かべ、微妙な反応も気にしていない様子だった。

 2週間前に会った時より随分と図太くなった気がする。

 「それから、最近の当該区域の犯罪件数の急激な増加、及び犯罪検挙率の著しい低下を鑑み、サブチーフも配属される。」

 イザベラから目配せされて枝毛チェックに余念がなかったシェールが、慌ててその顔に取って付けた様な笑顔を浮かべた。

 「シェールです。皆さん、よろしくね。」

 シェールのいかにも頭が弱そうで媚びるような話し方は、彼女を警戒しているあたしでさえとても演技とは思えない代物だった。

 まあ、本当は頭の回転が早いのに馬鹿な振りをして男を手玉に取る女なんて珍しくないし、高レベルのメイジという時点で本当に頭が悪いという事はまずあり得ないので、シェールもそのタイプだと考えるのが普通だろう。

 でも一方で、天才の中には特定の分野にだけ秀でているがそれ以外は残念という人もいるし、シェールの態度を見ているとどうしても魔術関係以外は全然ダメな奴にも見えてしまう。

 いかにも高慢なイザベラに反感を募らせていた衛兵達も、好青年然としたベクターだけでなく、頭の弱そうに見えるシェールの登場に更に戸惑っている様子がありありと見て取れた。

 「それでは改めて言っておく。」

 シェールの挨拶で弛緩しかけた空気を引き締めるように、イザベラがよく通る声で言う。

 「今のD−7地区の治安の悪化は危機的状況だ。私が新しいエリア長に任命された理由もそこにある。任命されたからには全力を尽くすし、早々に結果を出すつもりだ。その為にはありとあらゆる手段を尽くすつもりでいる。もし、これまで通りのぬるま湯から出るつもりのない者がいるなら、早々に別の職を探す事を勧めるぞ。

 では、3日後に改めて来る。それまでに皆、衛兵らしい態度を身につけておくことだな。」

 イザベラの最後の言葉に、顔にミミズ腫れができた数名の衛兵がギリッと歯ぎしりをしたが、イザベラは全く気に留める様子もなく、2人の中年戦士を伴って詰め所の出口に向かう。

 しかし、あたしの前に来た所で歩みを止めると踵をキュッと鳴らしつつ身体の向きを変え、あたしを正面から見据えるとお馴染みの嘲笑を浮かべた。

 「代理殿には申し訳ないが、私はこれでも忙しい身だ。挨拶は新チーフの方からさせてもらう事にするよ。」

 「お忙しい方をわざわざ引き留めたりはしませんよ。では、ごきげんよう。」

 あたしは精一杯、声と表情を作って一礼した。

 イザベラは小馬鹿にしたように鼻を鳴らすとそれ以上は何も言わず、2人の中年戦士を伴って颯爽と詰め所から出て行った。

 あたしは一つため息を吐くと、可能ならワイアットに挨拶だけしてから帰ろうと彼の方を見たが、ワイアットではなくベクターが近付いてきた。

 つい2週間程前にあたしにやり込められたにもかかわらず、ベクターはその事はまるで気にしてないよ、とでも主張するかのように爽やかな笑顔を浮かべている。

 「やあ、ゾラ、君がここの顔役の代理をしてるなんて知らなかったよ。色々と手広くやっているんだね。」

 あまりにも爽やか過ぎて、逆に胡散臭さしか感じないのはあたしが捻くれ過ぎているせいだろうか。

 「顔役の古い友人だから、お使いを頼まれただけよ。あなたこそつい先日まで冒険者だったのにいきなり衛兵隊のチーフとは、そっちの方が驚きだわ。」

 この詰め所のチーフになればダリルと顔を合わせる機会も増えるだろうし、無駄にヘイトを稼ぐのは良くないと思い、あたしは極力愛想よく言おうとしたが、未熟なあたしはどうしても皮肉っぽい口調になってしまう。

 「うん、まあ、冒険者なんて若い内だけの商売だからね。いい話があれば受けるのが普通だろう?」

 正論をもっともらしく言うベクターにあたしは少しイラッときて、わざとらしい笑顔を浮かべつつ彼の言葉を少し皮肉を込めて繰り返す。

 「いい話、ね。」

 「そう、いい話だよ。」

 ベクターはあたしの皮肉が通じていないのか、通じていてもあたしの皮肉など屁とも思っていないのか、相変わらずの爽やかな笑顔で言う。

 「ともかく、顔役の友人だという君とは長い付き合いになりそうだ。これからもよろしく頼むよ。」

 そう言って、ベクターは右手を差し出す。

 あたしはその右手を一瞥してから、いつものように右手の義肢をアピールしてから左手で握手し直す茶番はせず、敢えて右手の金属製の義肢でベクターの右手を握った。

 触覚の機能の無い義肢で握手をしつつ、彼に問いかける。

 「そう言えば、リザが故郷に帰ったのは知ってる?」

 ベクターは相変わらず爽やかな笑顔を浮かべていたが、その笑顔が初めてほんの少し引き攣ったように見えた。

 「彼女がパーティを抜ける時に、そういう話はされた。」

 そう言ってから、ベクターは少し早口になって後を続ける。

 「彼女も僕も、冒険者を長く続け過ぎたんだよ。本来なら他の連中と同じく、彼女の弟が亡くなった時点で引退すべきだった。でもどちらにしても、もう終わった話だ。」

 早口で言い終えた時には、彼の爽やかな笑顔は自然なものに戻っていた。

 「そう。」

 「そうだよ、ゾラ。それじゃあ、ワイアット先輩との引き継ぎもあるから僕はこれで失礼するね。」

 そう言うと、ベクターは振り向いてワイアットを見る。

 「先に執務室に行ってくれ。3階だ。俺もすぐに行く。」

 ワイアットがぎこちない笑顔を浮かべつつそう言うと、ベクターは頷く。

 「分かりました。行こう、シェール。」

 「は〜い。」

 間の抜けた声で返事をしたシェールを伴い、ベクターは狭い階段を登っていく。

 この前も少し思ったが、ベクターとシェールってあまり男女の関係には見えない気がする。

 ベクターはともかく、噂を聞く限りではかなり恋愛脳であるはずのシェールの、ベクターを見る目が妙に冷めている気がするのだ。

 でもまあ、リザの言っていた浮気自体はあって、男女の関係になったもののあっという間に破局した、というのも有り得そうな話ではある。

 「すまんな、こんな事になって。」

 あたしが2人の後ろ姿を見ながら根拠の乏しいゴシップに考えを巡らせていると、ワイアットが話しかけてきた。

 「あんたが謝る事じゃないでしょ?宮仕えならよくある事じゃないの?」

 あたしは努めて明るい声で言ったが、ワイアットは渋い顔のままだった。

 「それはそうだが、ここが大変な時に俺だけ仕事を丸投げして逃げるような気がしてな。」

 そう言ってワイアットは、早くも新しい上司達への不満や不安を囁き合っている部下達に視線を向ける。

 そうか、普通の移動ならともかく、癖の強そうな新しい上司の元に部下を置いていくのが心残りなのか。

 「そこはあんたが気にする事じゃないよ。」

 とはいえ、宮仕えの経験のないあたしにはこんな月並みな事しか言えない。

 もうすぐ4人目の子供が産まれるワイアットに、嫌なら辞めちまえ、なんて事も言えないし。

 「ところでゾラ、お前、ここの新しいチーフと知り合いなのか?」

 ワイアットは、既に2人の姿が見えなくなった狭い階段を見上げつつ言う。

 「そんなに詳しくは知らないよ。せいぜい、知り合いの知り合いレベル。」

 「どんな奴だ?」

 あたしの返答を意に介さず、ワイアットはグイグイ来る。

 まあ、部下思いのワイアットさんは気になるんだろうな。

 「昔は面倒見の良い兄貴分って感じの奴だったらしいけどね。」

 「今は?」

 更に突っ込まれて、あたしは躊躇しつつ言う。

 「あたしの個人的な印象って事で、話半分で聞いて欲しいんだけど。」

 「分かってる。」

 「……新しいエリア長の忠犬。」

 あたしの言葉を聞いて、ワイアットは大きく息を吐くと、痛々しい笑みを浮かべつつあたしの肩を叩いた。

 「色々と世話になったな。お互い生きていればまた会う機会もあるだろう。」

 「そうね。その時こそ、ロジーナに会わせてよ。」

 「やなこった。」

 ワイアットはあたしの言葉に苦笑すると、背中を丸めつつ狭い階段を昇っていった。

 「何だか、面倒臭そうな事になってきたね。」

 新旧チーフと知り合いらしいあたしを、詮索したそうな目で見る衛兵達の視線から逃れるように詰め所を出ると、右肩のノエルが話しかけてきた。

 「まあね。これもガーラさんの失脚とは無関係じゃないんだろうなぁ。」

 あたしはため息混じりに言ってから、ふと思い出してノエルに言う。

 「そういや、ノエル。イザベラがフルネーム名乗った時、念話であの女の家柄について教えてくれたわよね?」

 「ああ、ホーエンツォレルン家ね。」

 いつものように知識が披露できる時には嬉しそうになるノエル君。

 「あの念話は多分、シェールに盗み聞きされてたわよ。」

 「ええっ?!」

 ノエルは驚いたが、すぐにブツブツと独り言を始める。

 「でも確かに、高レベルメイジならそんなの簡単にできるよな。ああっ、立ち振舞が馬鹿っぽいから油断してたよっ!」

 珍しく、反論とか言い訳とかせずに素直に反省するノエルを見て、あたしの口調も自然と柔らかくなる。

 「まあ、今回は大した内容じゃなかったから良かったけど、次からは気をつけて。」

 「うん、分かったよ。でも、盗み聞きに気づいてない振りをすれば、逆にあの女を引っ掛ける事も……。」

 ノエルは楽しそうにブツブツ言い出すが、あたしはそんな彼の姿を見ても『策士、策に溺れる』という言葉しか思い浮かんでこなかった。

 「それで、これからどうするのさ?」

 あたしの失礼な考えはノエルには伝わっていなかったらしく、彼は少し真面目な口調に戻って尋ねてくる。

 「おそらくこれからは、詰め所の衛兵達からの協力は望めそうにないからね。なら、別の伝手を頼るしかないわね。」

 「別の伝手、ねえ。」

 ノエルはあたしの言わんとする事に勘づいたらしく、あまり同意しがたいけど仕方ない、とでも言いたげな渋い口調で言う。

 まあ、ノエルの想像は当たってるだろう。あたしもあまり頼りたい伝手ではないが、他に心当たりが思いつかない以上仕方がない。

 あたしは定宿の『トネリコ亭』に一度戻り、自分の部屋に入ると、フード付きマントを脱いで外套掛けにかけ、まず雨に濡れたジーヴァとノエルを乾いた布で拭く。

 「何だか、珍しく優しいね。怪しいなあ。」

 あたし以上に捻くれているノエルが全く素直じゃない事を言うが、彼の言う事に心当たりがない訳でもないあたしは、わざとらしい笑みを浮かべる。

 「あたしはいつも優しいじゃない。」

 「確かにジーヴァにはいつも優しいけど、僕には結構キツく当たるじゃん。最近は特に。」

 あんたはいつも一言多いからだ、という言葉は飲み込み、あたしは白々しい事を言う。

 「人の善意を疑ってばかりいると、幸せが逃げるよ。」

 「……ゾラ。何か、悪いものでも食べた?」

 しばらく考えた後にノエルが言った言葉は、まったくもって失礼な代物だったが、寛容なあたしは額の血管をピクピクさせつつも、何も言わず愛想笑いを続けた。

 それから魔法で温風を出して彼らを乾かしたが、その間ノエルは何も言わなかった。

 彼らを乾かし終えると、あたしはサイドテーブルの上にいつも伏せてある鏡を立てて、その前に座ってメイクを始める。

 正確にはメイクというよりは変装だ。

 あたしは時間をかけ、付け髭を付けたりして冴えないヒューマンの中年男の顔に、自分の顔を変えていく。

 これから行く場所は治安がかなり悪いので、女の姿だと余計なトラブルを招き易いからだ。

 「楽しそうだね。」

 後からメイクの様子を眺めていたノエルが呆れたように言う。

 「そんな事ないよ。仕事だからやってるだけだし。」

 ノエルにそんな言い訳しつつも、実の所変装作業は結構楽しい。

 まとめた銀髪の上に薄汚れたターバンを巻き、髪とハーフエルフの特徴的な耳を隠す。

 どうしても目立ってしまう右腕の義肢にもボロい手袋をはめ、一応偽装する。

 いつもはベルトポーチに入れてる貨幣の類も、ブーツやズボン、上着や肌着のあちこちに作られた隠しポケットに分けて収納する。

 あたしは再びマントを羽織ると、ノエルとジーヴァに語りかけた。

 「あなた達はここで留守番していて。」

 「そんな事だと思ったよ。気をつけてよ。」

 ノエルだけでなく、ジーヴァからも不満の感情が伝わるが、こればかりは仕方がない。

 これから行く場所では、極力目立ちたくないからだ。

 「そんなに時間はかからないとは思うけど、一応、サンドラに断っておくから、何かあったら彼女に相談するのよ。」

 あたしはそう言うと、ノエルにはナッツを、ジーヴァには干し肉をオヤツ代わりにあげる。

 「こんなんじゃ、騙されないからね。」

 文句を言いつつ、ちゃんと完食する安定のノエル君。

 あたしはフードを被ってから部屋を出ると、フロントに座ったまま事務仕事をしているサンドラに近づく。

 「サンドラ。」

 「なんだい、ゾラ?」

 帳簿らしきノートを睨んで低い声で唸っていたサンドラは、こちらを見ようともせずに尋ねる。

 「あたし、これから出かけるけど、ノエルとジーヴァを部屋に残していくから、もし帰りが遅くなるようだったらあの子達の世話をお願い。」

 あたしがチップ代わりに銀貨1枚をカウンターの上に置くと、ようやくサンドラが顔を上げ、あたしを睨みつける。

 「あんた、またあの子達を放って遊び呆けて……。」

 語気強く言いかけたサンドラだったが、フードの奥の中年男の変装をしたあたしを見て、フェードアウト気味に口を閉じる。

 とはいえ、彼女は別にあたしの男装メイクに驚いていた訳でもない。

 「なんだい、仕事の都合かい。なら、あの子達の世話はあたしに任せて、しっかり稼いできな。」

 ぶっきらぼうに言うと、サンドラは手に持ったペンで頭をカリカリ掻きながら、再び帳簿らしきノートを睨み始める。

 「ありがとう。助かるわ。」

 あたしのお礼の言葉に、サンドラはペンを持ったままの手をぞんざいに振って応えた。

 外に出ると、まだ雨が降っていた。

 まだ雨季には早いはずだが、この降り方からして今年は雨季が例年より早く始まったのかもしれない。

 西方でもかなり南に位置するハーケンブルクにも一応四季らしきものは存在するが、夏と冬の気温差はさほど大きくはなく、基本的に一年中温暖だ。

 その代わり、1年に2回ずつある乾季と雨季の差が大きい。

 乾季といっても全く雨が降らない訳ではなく、時には大雨も降る。

 しかし、年に数回やってくる台風を除けば、乾季の雨は大抵数時間、長くても半日で止む。

 だが、雨季に入ると、強くなったり弱くなったりを繰り返し、時には短い晴れ間を挟みつつも基本的には1ヶ月半から時には2ヶ月以上雨が振り続く。

 あたしの経験則からして、今日の雨はどうも雨季の振り方っぽい。

 これからは2ヶ月弱の間、雨の日が続きそうだ。

 あたしは小さく息を吐くと、いつもより猫背になりつつ道路の端を選んで目立たないように歩き始めた。

 


 読んで下さり、ありがとうございます。

 次回の投稿は8月上旬を予定しています。

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