第13話 嵐の前触れ
開店日、営業が始まる十八時になって表を見ると、すでに数人の客が並んでいた。
多分、全員がラーメンマニアだ。
行列に慣れた規則正しい並び方と服装で、それと分かる。
先頭に立っているラーメンマニアは、俺に向かって誇らしげな顔をしている。
あとで近所の人から聞いたところによると、先頭の彼は、朝から並んでいたらしい。
ラーメンマニアの中でも奇行種、新規開店の一杯目ハンターだ。
彼らがここに並んでいる理由は、だいたい察しがつく。
おそらくラーメンマニア達が並んでいるのは、記者の谷口さんの雑誌にページを一つ割いてもらったおかげだろう。
ちなみに誌面の評価はかなり辛口だ。
曰く『スープは濃く複雑で美味いが、ラーメンとしての完成度は並』。
あの人の普段の超辛口レビューを知らなければ、貶されているようにすら思えるだろう。
だが、この記事は彼にしてはかなり良い評価だ。
彼のレビューで「美味い」という言葉を使っているのを見たのは、俺にとってこれが初めてだった。
開店日にわざわざ並んでいるようなマニア達も、それは分かっているんだろう。
そして、悔しいことに彼の指摘は的確だった。
実際、あの日より麺は多少マシになっているが、まだまだだ。
理想には程遠い。スープを吸うための麺、という段階に留まっている。
そう考えて、俺は一度頭を切り替える。
今日は試食会じゃない。開店の日だ。
「じゃあ、気合い入れていきましょう!」
「「はい!」」
「ただいま開店です! いらっしゃいませー!」
客は慣れない食券機に、少し戸惑っている様子だった。
それでも何とか購入し、食券を渡してくる。
麺の硬さ、油の量、カエシの濃さ。
好みを一つずつ聞いていく。
卓上には豊富な調味料。
ラーメンには選択肢が必要だ。
まずは、最初の客達の反応を見る。
悪くはない。
マニア達はまずスープを啜り、少しだけ放心したような顔になる。
そして、もう一度スープを啜った。
このマニア達の作法には理由がある。
実はこの時代、ラーメン屋はあまり麺にこだわっていなかった。
どこの店も、製麺所から仕入れたものをそのまま使っているだけだ。
ラーメンマニアも、令和ほど麺には拘らない。
彼らの目当ては、あくまでスープだった。
「うまい、だがなんだこの複雑な味は……」
一人がぽつりと呟いた。
その感想も想定の範囲内だ。
醤油豚骨ラーメンのスープで最も重要なのは、舌に与える情報量だ。
鶏油、本体、カエシ。その三つだけではない。
本体のスープそのものも、層になっている。
上層には鶏油とレンゲの中で混ざったスープ。
半乳化した鶏からの強烈な旨み。
非乳化の豚骨出汁。
一度食べただけでは、きっと理解できない。
数回食べて、ようやくスープの設計思想が見えてくる。
マニア達は、ようやく麺を食べる。
スープを吸った低加水の麺。
麺の食感を犠牲にして、スープを運ぶための麺。
これもまた、一つの答えだと思っている。
やがてマニア達は仲間内で何やら話をしながら店を出ていった。
店内が、少しだけ静かになる。
一人だけ残っていた客に声をかける。
昔からの知り合いだ。
「荒物屋さん、俺のラーメン、口に合わないって言ってませんでしたっけ」
開店時のざわつきが落ち着き、店内に少し余裕が生まれた。
その空気の中で、荒物屋のおじちゃんは一服しながら俺の方を見ていた。
「それにしても、ラーメン八百円って、ちょっと高すぎないか?」
ガラガラの店内で言われると、なかなか説得力がある。
基本的にラーメンは五百円に抑えるもの。
それがこの時代の常識で、破ることは許されなかった。
俺は一瞬だけ言葉を選ぶ。
そして、自分に言い聞かせるように口にした。
「豚骨醤油は大阪じゃウチが初めてだからね。
俺が相場を作るんですよ」
そう口にしてはいたが、内心はかなり不安だった。
このラーメンは濃厚だ。原価率が高い。
チャーシューや麺のコストも、正直馬鹿にならない。
数字は、容赦なく現実を突きつけてくる。
この八百円という値段でも、一日に百杯売れなければ赤字になる。
店は二十席。五回転が必要だ。
五回転というのは、普通のラーメン屋なら相当な繁盛店だ。
この価格帯で、そこまで客が来るかどうか。
賭けの要素は大きい。
そもそも、この時代のラーメン屋の黒字ラインは一般的に五十〜六十杯と言われている。
この店が、どれだけスープに金をかけているか分かるだろう。
初日以降は、近所の知り合いがぽつぽつ来るだけだった。
想定していたピークは来ない。
厨房の中は、雑談で賑やかだ。
満席を想定し、人員を厚めに配置した結果、店内はかなり暇だった。
今日は寸胴一つ分、つまり百人前のスープを用意していたが、まったく客が来る気配はない。
この店は雑誌で紹介されたとはいえ、この時代はまだラーメンブームは起きていない。
谷口さんの記事が載っているような本格的なラーメン雑誌は、マニアしか読んでいないのだろう。
時間を持て余し、俺は従業員教育に回ることにした。
「寸胴のスープは表面に油が浮いてますよね。
これを掬うと、味がかなりブレるんです」
一度作ったスープは、どうせ捨てる。
そう割り切って、従業員達の練習用に回す。
俺は良い例と悪い例を実演し、彼らに試食させた。
「底からスープを取る。
そして最後に、表面の油を少しだけ足すのが良い例です」
「同じスープなのに、全然味が違いますね」
表層の油だけを掬った一杯は、不味くはないが単純な味だ。
誰でも違いが分かる。
「よし、次は湯切りの良し悪しで、味がどれだけ変わるか見せますね」
暇すぎて、色んな食べ比べ会まで開けるほどだった。
開業して数日は、ラーメンマニアがちょくちょく来たり、近所の人が顔を出したりする程度だった。
匂いや行列で迷惑をかけることになるため、オープン記念として最初の数日は近所の人に、ほぼタダ同然で振る舞った。
それが広まったのか、商店街の人達がよく来るようになる。
席が埋まることも、少しずつ増えてきた。
大赤字だ。
だが、スープを捨てるよりは食べてもらった方がいい。
しかし、ワイワイと近所の人と雑談しながら楽しく働けたのは、最初の週だけだった。
八日目。
雑談する余裕なんてなくなった。
なぜなら、その日から店の前にできた行列を捌き続ける、地獄のような日々が始まったからだ。




