第12話 開店前夜
スタッフの教育は多少の課題はあるが、着実に進んでいた。
飲食店のアルバイトの仕事は、ホールとキッチンに分かれている。
特にホールは順調だ。
基本的に飲食で働いた経験のある人間を優先して採用している。
時給を高めに設定しているので、ある程度、納得のいく人選ができた。
その様子を見て、横にいた遥香ちゃんが感嘆した。
「凄い、テキパキ動いていて何人来ても問題なさそうだね」
「ホールスタッフは、ほぼ完璧なんですよ」
他の飲食店と違うのは、食券機を導入している点だ。
奮発して食券制を導入した。
この時代の食券機は一台五十万円程度。
冗長性を考えて二台購入したので、百万円だ。
この時代、飲食店に食券制はまだ馴染みが薄いが、母の反対を押し切って導入した。
やはりバイトがお金を扱うというのは隠れたコストになるし、横領のリスクも無視できない。
カウンター席には一から二十番までの番号が振ってある。
ホールの仕事は、注文をとり、食券を所定の場所に貼り付けるだけだ。
今日はオープン前の最終確認として、実際の営業を想定して動かしている。
昼時を想定して動かしてみたが、非常にスムーズだった。
行列ができ、負荷がかかった場合の対応はまだ訓練中だが、数人規模ならオペレーションに問題はない。
ホールは非常に順調だ。
そう、ホールは。
問題はキッチンスタッフだった。
一方、こちらは基本的に二人で回す想定だ。
「あぁ、ケンジくん、そんなにガラに強く棒を当てたらダメだよ」
バイトとして雇った近所の青年、ケンジくんは一瞬手を止め、こちらを見てから慌ててエンマ棒を引っ込めた。
ちなみにエンマ棒というのは、スープを混ぜるための棒だ。
ラーメン屋の必需品である。
少し前まで素人だった人間にラーメンを作らせるというのは、難しい。
ラーメンは単純に見えて、実際はかなり難しい料理だ。
特にスープとガラの扱いが厄介だ。
俺みたいに半セントラルキッチン方式で手順をかなり簡略化しても、素人教育は簡単じゃない。
スープを作る時に、鶏ガラを何度もエンマ棒で強く当て続けてはいけない。
骨と棒が当たると、骨が砕けて雑味が出る。
寸胴の中で小さく当たる音が増えるほど、味は確実に濁っていく。
それを無視してさらに骨を砕くと、最終的には苦みが出てくる。
今は、スープについてはケンジくんに基本的に任せている。
「すみません。前に言われたこと、気をつけているんですけど……」
声は真剣だった。
春先だというのに、額にはうっすら汗が浮いている。
「うーん……でも、まぁいいか。ここまでできてりゃ上等かな」
彼は家でもスープの撹拌を練習してくれているらしい。
鍋を振る動作だけは、最初に比べてかなり安定してきた。
多少の雑味はあるが、その真面目さを見込んだ判断だ。
一旦、彼を中心に開店する。
本当は、炊いたスープを『調整』したい。
理由は単純だ。スープは炊き続けると劣化する。
朝炊いたスープを保温したまま夜に味見すれば、まったく別物になっていることに気づくだろう。
多くのラーメン屋が昼と夜で営業時間を分けている理由は、スープにある。
昼営業と夜営業で、スープを分けているのだ。
家系などでは、常に新しい豚骨や鶏ガラ、丸鶏を足しながらスープを『調整』している。
これは本当に難しい作業だ。
温度管理はシビアだし、どうしても雑味が出やすい。
家系で店舗内でスープを作っている店は、かなり高度なことをやっている。
その代償として、家系は開店中に休憩するなんて器用な真似はできない。
なぜなら、スープを作り続けているからだ。
提供し続けなければ、スープが死んでしまう。
「ケンジくん。作って三時間経ったスープは廃棄して。
ロスを抑えるためにも、最初は少なめの量で作ろう」
ケンジくんはメモしながら、強く頷いた。
スープの劣化問題は、完成したスープに賞味期限を設定することで解決した。
これで家系よりも、ずっと柔軟な運用ができる。
最初は夜営業のみ。火曜と水曜は定休日。
カレンダーを指でなぞりながら、無理のない配置を確認する。
いわゆるスモールスタートだ。
最初から手を広げすぎると、必ずどこかに無理が出る。
週に二日の休みがあるだけで、シフトはかなり回しやすい。
いずれバイトが集まったら、年中無休、場合によっては二十四時間営業も視野に入れたい。
それができるスキームは、すでに作ってある。
「はい!」
ラーメン屋の技術といえば、麺の湯切りが有名だ。
だが正直、これは少し練習すれば誰でもできる。
本当に難しいのは、スープを丼に注ぐ作業だ。
寸胴を覗き込むと、表面の脂がゆっくり揺れている。
寸胴の中のスープは均一ではない。
表層には脂、中央には乳化層、その下に半乳化層がある。
「あぁ、スープを掬う時は表面だけじゃダメ。
底の方まで、しっかりお玉を入れて」
ただし、底だけを掬えばいいわけでもない。
表層のスープも必要だ。
そこには香りがあり、重さがあり、コクがある。
スープを掬う作業は、本当に難しい。
プロでも難しい。
それを、あえてバイトに任せている。
ケンジくんはスープを濾しながら、慎重に丼へ注いでいた。
特注した丼には、スープ量の目安線を入れてある。
入れすぎるミスは、基本的に起きない。
誰でも同じものを作れるよう、マニュアル化している。
作ってもらったスープを味見する。
「まぁ……こんなもんか。
最後まで同じ味を維持できれば、上出来だ」
とはいえ、動作はまだ危なっかしい。
しばらくは俺も付き添う必要がありそうだ。
いきなりバイトだけで回すのは無理だ。
今日は最終チェックとして、関係者に試食してもらっている。
スープも無駄にしたくないしな。
ご近所のマダム達にも、無料で振る舞った。
「豚骨なのに、意外と匂いがしないのね」
「鶏のいい匂いがして、食欲が湧くわ」
「私はちょっと、濃すぎて苦手かしら」
近隣住民による臭いチェックも、なんとか乗り越えた。
店舗で鶏骨を煮込む以上、多少の匂いは避けられない。
それでも、この時代としては高性能な脱臭設備で、なんとか許容されているようだ。
鶏を煮る匂いに慣れている地域性も、あるのかもしれない。
今後も行列などで迷惑をかけるだろうから、近隣にはしっかり挨拶しておく。
ラーメン屋経営で何より重要なのは、近隣との関係だ。
交番にも菓子折りを持って何度も挨拶し、顔を覚えてもらっている。
路駐や行列で、確実に仕事を増やすことになるからだ。
昭和の時代、これくらいの賄賂は普通だった。
父が倒れ、休業してから三ヶ月。
明日から、ようやくオープンだ。
最後に関係者を集め、気合を入れる。
「では、明日からよろしくお願いします。
これからが本番です」




