第10話 相棒
俺は、休業中のラーメン屋のカウンターに腰を下ろし、不動産情報誌をめくっていた。
親父が情熱を注いで作ったこのラーメン屋は、今ではやけに広々としている。
テーブル席をすべて取り払った状態だ。
テーブル席はもちろん、家族連れには好評だが、どうしても回転率が悪い。
今後、内装工事を入れてカウンターを増設する予定になっている。
これでカウンターは二十席。
都心のラーメン屋にしては、かなり多い部類だ。
母親は「カウンターばかり増やしてどうするんだ」と小言を言っていたが。
店内はやけに静かで、止まった換気扇を見上げると、時間だけが取り残されたように感じられる。
肘をついてページをめくるたび、紙の擦れる音がやけに大きく響いた。
「住之江区か、此花区あたり……安くて、やっぱりこの辺がいいな」
目的は一つ。
セントラルキッチンを作るための物件探しだ。
探しているのは、湾岸沿いで居抜きの賃貸物件。
人が集まらず、風が海に抜けて匂いの苦情も来ない場所。
俺が求めているのは、そんな条件を満たす土地だった。
セントラルキッチンといっても、正直なところ保健所には「飲食店」として届け出るつもりだった。
食品工場扱いになると、この時代でも規制は一気に厳しくなる。
排水、排気、床材、区画。
どれも初期投資が跳ね上がり、限られた初期資金でやるには現実的じゃない。
ちなみに、これを令和でやったら即アウトだ。
完全に違法になる。
今に比べれば、この時代はずいぶん寛容だった。
「この中華料理屋……悪くないな。立地が最高だ」
大阪市の人工島。
海沿いの倉庫群の外れにある、人通りのほとんどない中華料理店。
昼間でもトラックの音しかしないような場所で、前の店はかなり前に閉店しているらしい。
普通なら、最悪の立地だろう。
だが、俺にとっては理想的に見えた。
人が来ないこと。
文句を言われないこと。
その二つこそが、俺にとって最大の価値だった。
中華用の高火力コンロ。
プロパン設備。
どれも一から揃えれば金のかかるものばかりだ。
そして何より、周囲にほとんど何もない。
裏手には、設備を増設できそうな空きスペースまである。
というか、駐車場が異様に広く、設備はいくらでも増設できそうだった。
「家賃は月八万か……ちょっと高いな。もう少し下げられないか、交渉してみるか」
大規模に改造するなら、いっそ購入の話を持ちかけてもいい。
この時代なら、まだ現実的な数字で手に入る。
相場を頭の中で転がす。七百万前後といったところか。
この前作った法人に、出資という形で資金を入れて買うのもありだな。
だが、少し手間がかかる。
商社時代にずいぶんと金は動かしてきたが、土地や会計、行政が絡む話はまた別の世界だ。
自分でやれなくはないが、どうしても時間がかかる。
そんなとき、乾いた音を立てて店のドアが開いた。
思考を遮られ、俺は顔を上げる。
「すみません、今は休業してまして……って、母さんか」
慌てて声をかけたが、母がやってきただけだった。
その後ろには、なぜか遥香ちゃんの姿もある。
遥香ちゃんが俺に声をかけてきた。
「やっほー、アツシくん。今日からよろしくね」
俺が怪訝な顔をしていたのだろう。
母が、さも当然のように説明を始めた。
「遥香ちゃんも、あんたが作った会社の従業員にするから。
あんたのお目付け役ね!」
言い方は軽いが、要するに監視役というわけだ。
「いや母さん、もうバイトは二人確保してるんだよ。
まだ売上も立ってないのに、これ以上人を増やすのはきついって」
俺の正論は、母には通じない。
「大丈夫。給料は母さんの貯金から出すから」
俺がため息をつくと、母はさらに追撃してきた。
「それにね、遥香ちゃんは税理士の資格を持ってるんだよ」
一瞬、思考が止まった。
今、まさに欲しい人材だ。
税理士。それは企業にとって、喉から手が出るほど欲しい存在だ。
だが、遥香ちゃんは困ったように首を振っている。
あれ、違うのか。
「おばちゃん、さっきも言ったでしょ。
私が持ってるのは税理士じゃないの。公認会計士。
税理士は申請してないから、資格はまだないの」
母は違いがよく分かっていない顔をしている。
だが、俺の頭はフル回転していた。
公認会計士。
世間的には地味だが、企業の生殺与奪を握るプロフェッショナルだ。
制度上、手続きを踏めば無試験で税理士登録も可能。行政書士にもなれる。
今の俺にとっては、喉から手が出る存在だった。
だが、以前聞いた前職の企業名……、あそこはコンサル会社だったと思ってたけどな。
「あ……」
頭の中で思考が一本につながった。
「あぁ、あそこは元々、コンサルではなく会計事務所が本業だったか」
一人で納得して頷いている俺を見て、遥香ちゃんは目を丸くしている。
俺はそのまま彼女の袖を引き、隣に座らせた。
気づけば、もう手放す気は完全になくなっていた。
「いやぁ、母さんもいい人材を見つけてきてくれたなぁ」
母は、たぶん何も考えていない。
お気に入りの親戚の娘を義娘候補として俺のそばに置きたい、それだけだろう。
だが結果論としては、最高の一手だった。
母を半ば放置して、俺は遥香ちゃんに話を振る。
「会社に、出資金という形で一千万ほど資金を入れたいんだけど。
やり方、合ってるかな?」
「うん。第三者割当増資ね。
でも、株主総会を開いた記録は残さないとダメだよ。形式的でも」
それなりに大きな金額を口にしても、彼女は眉一つ動かさない。
事務的な口調が、逆に頼もしい。
外注でもできなくはないが、身内に専門家がいると段違いに楽だ。
母は、俺に大反対されると思って準備してきたのだろう。
俺を説得するために用意していた遥香ちゃんの長所をしばらく捲し立てていた。
そして、最後には手を上下に振る謎のジェスチャーをしてから、二階に消えていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
軽トラックを走らせ、遥香ちゃんと一緒に湾岸部へ向かう。
エンジン音が、やけに大きく響いた。
「ここが、買おうと思ってる物件だよ」
「すごい……本当に周り、何もないのね。
絶対、普通の飲食店じゃ流行らない立地だわ」
それでいい。
むしろ、それがいい。
一応、南港方面へ向かう道路はある。
フェリー客が通る可能性は……いや、車通りはほぼ皆無だな。
現地では、不動産屋が揉み手をしながら待っていた。
この表情は商社時代に何度も見てきた。
厄介な在庫を何としても捌きたい、そんな決意が透けて見える。
鍵を開けてもらい中を確認する。
残置物が多い。
古びた中華鍋に色あせたエプロン、カウンターの上にはいつのものか分からないコーヒーまで残っている。
夜逃げでもしたのだろうか。
片付ける手間が多いことも、立派な交渉材料だ。
中華料理屋を始めるための道具は一通り揃っている。
母親は暇そうだし、昼間は中華料理店でもやってもらうか。
客はほぼ来ないだろうが、ボケ防止くらいにはなるだろう。
そんな失礼なことを考えながらコンロをチェックしていると、不動産屋が揉み手のまま話しかけてきた。
「購入をご検討ということですが、どうでしょうか。
見ての通り道具も一式揃ってますし、すぐにでも開業できますよ」
「いやぁ、ウチは倉庫として欲しいんですよ。
残置物が多いのは、正直マイナスですね」
そんな嘘をさらっと言いながら内見を続ける。
二階は、ごく普通の住居だった。
置きっぱなしの新聞の日付を見ると、七年前。
この建物は長い間、時間が止まった建物だ。
「七年も在庫になってると、固定資産税も結構きついですよね?」
この建物は鉄筋コンクリート(RC)造だ。
潮風に強い反面、固定資産税は高い。
固定資産税は糞法律だ。都心でも、こんな田舎でも、建物の構造次第で同じように税金がかかる。
RC造なら、毎年の負担も相応に重いはずだ。
「いやいや、とんでもない。内見が多い人気物件でして」
そう言うしかないよな。
だが、入口に蜘蛛の巣が張っていたのを、俺は見逃していない。
「じゃあ、四百万で購入しますよ」
まずは低く投げる。
商社時代に叩き込まれた癖だ。
「それはさすがに……せめて六百万は欲しいですね」
最終的に、一時間ほど粘って四百五十万で決着した。
悪くない。いや、破格と言っていい。
海沿いだけあって、建物自体はしっかりしている。
これで四百五十万なら、十分すぎる買い物だ。
何度も建物を見上げて頷く俺を、遥香ちゃんは少し引いた目で、それでもどこか楽しそうに見ていた。




