765.胡蝶の夢
気が付くと、俺は湖にいた。
周囲には綺麗な花畑が広がっている。
意識が朦朧とする。
感覚が希薄で、思考が定まらない。
ここは夢の中か?
そこまで考えて、違うと気が付いた。
俺は世界で一番強い魔物になって……そんで、結局、神の声……アイノスの奴に、なんら一矢報いることさえできずに負けたんだ。
ここはこの世界のあの世みたいなものかもしれねえ。
いや、〚スピリット・サーヴァント〛にするため、俺の死は一時保留みたいな形で、あの世とこの世の狭間にあるのかもしれねえ。
だとすれば、俺の霊魂は、これからアイツの従順な下僕となり、地上世界を荒らし、ミリア達を苦しめることになるのか?
その果てに、俺は結局、フォーレン復活の踏み台となって死ぬことになる。
……もう、何も考えたくない。
……もう、何も感じたくない。
俺はこれまで、一体、何のために戦ってきたんだ?
俺はフラフラと歩き、湖を覗き込む。
黄色い、幼い竜の顔が映った。
頭の高さが随分と低い気がすると思ったら、ベビードラゴンの姿だった。
なんだ……この世界では俺、こっちなんだな。
ぼうっと眺めていると……そのとき、水面の中に写ったベビードラゴンが、ひとりでにぐぐっと背伸びを始めた。
「ンガァ」なんて気の抜けた声を漏らし、ぽりぽりと首の根を掻く。
なんでもアリだな、精神世界って奴は。
水面の中の竜は、水面越しに俺を見ると、ニヤリと笑った。
『よう、随分手酷くやられてたじゃねえの』
なんだよ、俺を責める気かよ。好き勝手言ってくれる。
あんなのムリゲーじゃねえか。
俺だって、せめて敵わずとも、誰にも恥じることのないよう、最後まで懸命に抗いたかった。
でもな、アイツと俺には、それさえできねえ力の差があったんだよ。
『変わんねえなァ。また言い訳ばっかじゃねえか』
随分と手厳しいじゃねえの、もう一人の俺。
もう、全部終わっちまったってのに。
いや、それもそうか。
こんな結末……俺は、認められねえ。
俺自身が、言い訳のしようがない程、俺を許せねえよな。
世界の狭間で、蹂躙される仲間を想いながら、自分を責め続ける。
それが俺に与えられた罰なのだろう。
「グ……グゥ、グオオオオ……」
俺は湖に頭を擡げ、涙を流した。
俺が皆の想いを、全てを無駄にした。
アイノスの狂気から世界を解放できなかった。
もし俺がリンボの当て方をもっと工夫していたら?
もし俺がイデアの住民を騙ってアイノスの理解者を演じていれば、奴から力を騙し取ったり、手痛い一撃を入れる隙があったんじゃねぇのか?
もし俺が、戦いではなく徹底した交渉に臨んでいれば、今より幾分マシな未来があったんじゃねぇのか?
『泣くんじゃねぇよ。オレが悪いみてぇじゃねえか。まだ何も終わってねえよ』
もう、全部が終わったんだよ。
俺に抗う術なんて、何一つ残されてねえ。
『バカヤロー、落ち着け。自分のスキルくらいしっかり見やがれ。オレだってよくわかってねえが、ここは確かに、あの世とこの世の間らしいがよ、オマエが思ってるよか幾分マシらしいぜ』
自分の……スキル?
いわれてみれば俺は、生死に関わるスキルを一つだけ有していた。
まさか……オネイロスのレベル最大祝いの、〚胡蝶の夢〛か?
『そうそう、んな名前だって、あのガキが言ってたか?』
【特性スキル〖胡蝶の夢〗】
【夢と現実を入れ替える究極の蘇生スキル。】
【このスキルの所有者のHPがゼロになった際に、夢と現実の境界が曖昧になる。】
【その際に自身の死を夢へと追いやり、完全な状態で復活する。】
【このスキルは一度使用すると消失する。】
アイノスが絶望的過ぎて、何度も死ぬ寸前まで嬲られたせいで、すっかり忘れちまっていた。
そうか、俺は一度だけ復活できんのか。
この効果なら、MPも回復できるかもしれねえ。
でも……だとしたって、俺が戻ったって、何の意味もねえ。
MPがあったって、あの実力の差を埋められるとは思えない。
そもそもアイノスはこの世界の創造主の一角だ。
反則じゃねえかよ、そんなの。
『いいか、その……ナンタラの夢、このスキルは細工されてんだよ。管理者は、最低限の建前さえあれば、好きにこの世界を弄くることができる。そんスキルは、この世界に密かに仕掛けられた罠だったんだよ』
は……?
〚胡蝶の夢〛が、罠?
『いいか、管理者って奴は、二体いるんだ。お前にずっと呼び掛けてきた、神ン声。そんでそいつに、表世界に碌な干渉ができねぇように、死の世界の隅っこに追いやられてたラプラスって奴だ。オレはそこでラプラスの接触を受けて保護され、テメェが生死の狭間に来た時に合流できるよう、ずっと待ってやってたんだよ』
なんだ、何の話をしてやがるんだ?
『〚胡蝶の夢〛自体は神の声が造ったスキルだ。だがよ、その効果自体は、ラプラスが都合よくこっそり書き換えてやがったんだ。オレを介して、テメェがラプラスの恩恵を受けられるようにな』
ス、スキルの効果を、都合よく書き換えた……?
いや、確かに心当たりがある。
〚胡蝶の夢〛を入手したとき、テキストが崩れたのだ。
だが、アレで、何の意味があったっつうんだ?
『【自身の死を夢へと追いやり、完全な状態で復活する】……この『完全な状態』ってのが、ラプラスの奴が目を盗んで書き加えた部分らしいぜ。完全ってのは、欠けたもんがねえって意味合いがあるらしい。つまり、失くしたもんを取り返せるってことだ』
な、失くしたもの……?
それで、だから何が変わるっつうんだよ?
『察しがワリィな相方、テメェはよォッ!』
湖から拳が飛んできた。
ベビードラゴンの腕は水面を突き破り、顔面に華麗なアッパーをかました。
俺の小さな体躯が宙に浮き、花畑に叩きつけられた。
俺が呆気に取られていると、もう一体のベビードラゴンは、普通に湖を抜けて、外へと這い出てきた。
そ、そんなんアリ……?
お前、なんか、幻影的なもう一人の俺的な奴じゃなかったのかよ!
いや、ここがそもそも死とか夢とかそういう感じの場所なんだろうけど!
つうか、今コイツ、相方って……。
そこまで考えた途端、俺の脳裏に急速に走馬灯が駆け巡った。
砂漠で赤蟻の巣を巡り、勇者イルシアとの戦い。
守り神としてのリトヴェアル族達との関わりと、彼らを守るための貴族の兵団との争い。
その間、俺のすぐ隣で、ずっと共に戦ってくれた奴がいたはずだ。
まさか、コイツの正体は、あのとき……王都アルバンでルインと相打ちになったはずの……!
ベビードラゴンは倒れたままの俺に歩み寄ってきたかと思えば、そのまま跨り、胸倉を掴んだ。
く、苦しい! ギブギブ! 普通に苦しいって!
『再会祝うのはまた後だ。アイツのインチキは、ラプラスが引き受けてくれるらしいぜ。へばってる理由はもうねえはずだ。やるよな、相方?』
あ、ああ……!
わかってるさ。
チャンスが、希望があるってなら、俺はもう一度……いや、何度だって立ち上がってやるよ!
そのとき、一匹の、青紫の蝶々が飛んできた。
オネイロスの鱗に似た輝きを帯びている。
俺は本能的に、その蝶々を、手で捕まえた。
森羅万象が眩いばかりに輝き、この湖が霞んでいく。
やがて景色が捻じれ、歪み、薄れ、朧げになっていく。
それとは反対に、うたかただった意識が輪郭を持ち、どんどんと鮮明になっていく。
【特性スキル〖双頭:Lv--〗を得ました。】
【特性スキル〖精神分裂:Lv--〗を得ました。】
【特性スキル〖意思疎通:Lv3〗を得ました。】
【特性スキル〖支配者の魔眼:Lv1〗を得ました。】
これは……相方を喪失してから、失ったスキル……!
相方……本当にお前は、俺と一緒にまた戦ってくれるんだな。
【神聖スキル〖天道(レプリカ):Lv--〗を得ました。】
【称号スキル〖ラプラス干渉権限〗のLvが8から9へと上がりました。】
【称号スキル〖最終進化者:Lv--〗を失いました。】
ま、ままま、待て待て待て待て!
今、さらっととんでもねぇこと起きてねぇかコレ!?
綯い交ぜになって消えていく景色の中、ベビードラゴン……いや、相方が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
『そいじゃ、行くとしようぜ相方。オレとオマエで、神様ごっこに勤しんでる、ちょっとばかし長く生きすぎたクソガキに、灸を据えてやろうぜ』
ああ!
今度こそ……これが本当に最後の戦いだ!




