9.異形の吸血鬼の正体
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やっとのことでアパートに帰ったおれだった。
ここに来てどっと疲れが出て、気分が滅入った。部屋で座り込み、頭を抱えるほどだった。
成り行き上、長阪さんみたいなネガティブ思考の人と関わってしまったとはいえ、これで見ず知らずの、ましてや自分よりずっと年上の人間との付き合いは、もっと慎重になるべきだと猛省したのだった。
シャワーを浴びてさっぱりしたかったものの、早く横になりたい気持ちが勝った。
着替え、軽く芋焼酎のロックを流し込んだ。そのあと雨戸を閉め、部屋の灯りを消し、ベッドについた。
じっさいに長阪さんに噛みつかれ、若さを吸い取られたわけでもあるまいし、彼と付き合うようになってから、とりわけ今日1日は、それこそ30歳は年を取ったかのように足腰にこたえ、形容しがたい倦怠感がのしかかっていた。
1分としないうちに寝息を立てていた。
――まただ。
また、おれは夢とも現とも知れない境界線のなかで、部屋に誰かの気配がいることに気づいた。
玄関に足を向ける形で横になっていた。錠をかけたはずなのに、誰かが忍び込み、足もとに佇んでいたのだ。
まさか長阪さんは、荒川病院の個室を抜け出し、ここまで来たというのか?
長阪さん自身の老いた身体と、19歳のおれの肉体とを入れ替えるために?
このあいだの悪夢と同じ内容だった。
ベッドに横になったおれに覆いかぶさる形で、巨大な頭をした長阪さんがしがみついている。
身体つきはまちがいない。元気だったころのあの人らしく、きっちりジャケットを着こなし、折り目正しい恰好をしている。特徴的なネクタイピンで、ひと目で長阪さんだとわかった。
照明が暗すぎて、どんな表情をしているのかわからない。わからないからこそ怖いのだ。
例のごとく、ワシャワシャと、耳障りな音がした。あたかもセロファンを揉みしだいているかのような不快な異音。
その巨大な頭はシルエットと化し、なにがどうなっているのか判別できない。少なくともかつての、整髪料で白髪を撫でつけた人間の頭部とは明らかにちがうのだ。
扁平な形状をして、あまりに大きすぎた。
人間の肩から上に、四角い頭部と、なにやら丸い突起物が左右についているのがわかった。髭のようなアンテナのような長い棒が、これまた二本、飛び出ていた。
なぜ長阪さんは奇怪な仮面をつけて、おれの部屋に忍び込んでいるのか。ましてや身体にのしかかって、どんないかがわしいことをしでかすのか?
悪夢に魘され、跳ねのけようとするのだが、相手の力が強すぎてどうにもならない。
ワシャワシャワシャ……と、不気味な頭部はささやいた。ますますおれの顔に近づく。
おれはようやく理解した。
人は闇のなかで恐ろしいものを目撃してしまったとき、脊髄反射で悲鳴をあげるとはかぎらない。
おれの身体にまたがっていたものの頭部――それは見なれた、一見すると教養のありそうに見えてその実、人の顔色を窺ってばかりの気難しそうな男の顔ではなかった。
グロテスクでロボットじみた面相。子どものころ夢中になって観た、ウルトラマンの敵役、バルタン星人を彷彿とさせた。
いやバルタン星人はモデルをかなり簡略化したものだ。
正確には蝉そのものだ。夏場になるとどこにでもいて、やかましく鳴き、人知れず死んでいく哀れな昆虫――。
長阪さんの頭部だけが巨大な蝉と化していた。
口とおぼしい部位には、口吻と呼ばれるストロー状の棒がついていた。
その鋭く、斜めにカットされた先端をおれの首に近づけてくる!
さながら極太の注射針だった。
樹液を吸い取るための嘴でブスリとやられた。
痛いのなんの!
とたんに、んぐんぐと、赤ん坊が母親から授乳するときのうめき声をあげて、なにか生命の源となるものが奪い取られていく!
ストローは半透明だった。色のついた体液が吸いあげられているのがわかる。ゼリー状の塊が蝉の頭部に運ばれていく。
おれはやめろ、と言ったつもりだったが、声にならない。
無機質の蝉人間は、ここぞとばかりに体液を飲み続ける。
片手を差しのべた。
その腕が、見る見るうちに干からびていく。布団圧縮機で袋のなかが真空になってペシャンコになっていくのとそっくりだ。たちまちおれの腕は骨と皮だけになった。手の甲など団扇の骨組みみたいだ。
本当におれの若さを吸い取っていやがるのだ。
早くこの異形の吸血鬼を引きはがさないと、おれはカスッカスになり、代わりに相手が若くなっていくだろう……。
生まれてこの方、19年しか生きていないおれから若さを奪い、逆に老いを植え付けられるなんて、こんな人権侵害が許されていいはずがない。
と、そのときだった。
蝉人間の背後で、おれとは異なる甲高い悲鳴があがった。次いで、
「里中君になにすんのよ、あんたは!」
美伽の声がした。
まぎれもない、美伽こそリアル・バルタン星人を退治するヒーローに思えた。
バコン!と蝉人間の頭部が鳴り、すぐに羽交い絞めにされ、うしろへとのけ反った。
その拍子におれの首に埋められていた極太の注射針がはずれた。
ぼんやりとした視界のなかで、蝉人間と美伽が取っ組み合いをしている姿が見える。
四角い頭部の左右に飛び出た丸い突起は蝉特有の眼だ。ワシャワシャと抗議の声を出しているが、戦闘モードの美伽にとっちゃ、怯むまでもない。
彼女は部屋の片隅に転がっていた鉄アレイを手にし、ふりかぶった。
ふたたび、バコン!と蝉の頭に炸裂させたのだから恐れ入る。5kg鋳鉄製のパンチだ。
化け物は衝撃でよろめいた。
こんな昆虫と合成したとしても長阪さんは痛覚があるのだろう。鉄アレイで殴られた痕を手で押さえ、よろめいた。
ベッドに横たわったままのおれにはなす術がない。体液を奪われ、てんで力が入らないのだ。
やがて蝉人間は獲物であるおれをあきらめ、部屋を出ていこうとする。
この狭い8畳間だ。ましてや棚やらローテーブルやら障害物が多すぎる。
美伽は逃がすまいと、両腕を広げ、腰を落とし立ちふさがった。さながらレスリングの選手のようだ。
右へ行くと見せかけて、蝉人間は左へとまわり込んだ。
そのフェイントは美伽には通じなかった。
容赦なく鉄アレイの餌食にした。
蝉人間は口吻をへし折られ、顔を反らした。
「ええい、これでも食らえ!」
なんと美伽のまわし蹴り。みごとに化け物の腹にめり込ませた。
蝉人間は身体をくの時に折り曲げ、機械じみた声でうめいたあと、ローテーブルの角で向う脛をぶつけ、地べたに突っ伏した。
美伽は薄明りのなかで、真っ先におれを気づかってくれた。
「里中君、ね、しっかり! 大丈夫なの?」
ぐったりしたおれの身体を揺さぶった。
そのうち埒が明かないと判断したのだろう、壁に走り寄り、照明のスイッチを入れた。
あまりのまぶしさに、おれはうめいた。
ベッドの傍らには、白日の下にさらされた蝉人間が横たわっているはずだ。
なのに、忽然と姿を消していた。
……いや、正確にはなにもなかったわけではない。
カーペットには小さな黒い塊が落ちていた。
美伽がしゃがんで、それを手にした。
「なによ、これ。蝉の死骸じゃない。なんで?」
「蝉だって」
「あ。口、利けるの、里中君?」
おれはどうにか首だけまわして美伽を見あげた。あいにく身体を起こす力は残されていなかった。搾乳され尽くしたホルスタインでも、こんな気分ではあるまい。
「……なあ、美伽さん。おれの顔や身体、おかしくないか? ガリガリに痩せて骨と皮だけになってるんじゃ?」
美伽は床に落ちていた手鏡を向けてくれた。
そこに映ったおれの顔は、顔色こそ悪かったし、寝不足のせいで眼も充血していたとはいえ、正常の膨らみを保ったままだった。
首には注射針を打ち込まれた痕が残っていたが、出血もしておらず、すでに塞がりかけていた。
美伽は試しにおれの上のスウェットをまくった。
腹が丸見えになった。ちょっぴり贅肉のついたそこを、鼓でも鳴らすように叩いた。
幸い、げっそり痩せ細り、あばら骨が浮き出た様子はない。
二人同時に、安堵のため息が洩れた。
「きっとこれね。いくら2階だからって、不用心」と、美伽はおれの頭の先を指さした。窓の方向だ。「10センチ開いてた。きっとここから、蝉が入り込んだんだ」
「……まさか、あの人が蝉に化けて部屋に入り、マジで吸い取ろうとしたのかな、おれの若さを」
「おおこわ。世の中、なにが起きるかわかんない」
「長阪さんは足掻いてた。追いつめられて、ついにこんな力を発揮したとしたら」
「どっちにしたって、すんでのところで命拾いしたわけじゃない。タイミングよく私が様子見にきてよかった。朝っぱらからLINEが入ったから、こりゃただごとじゃないと思ったの」
「だな。美伽さんのおかげで助かった。来てくれなきゃ、いまごろ――」
「泥棒が入り込んで、金目のものだけ盗られるならまだしも、ヨボヨボのおじいさんに代えられてたら大変だったね。それこそ取り返しのつかないことになってた」
「もし、おれがヨボヨボの、老い先短い男になってたら――美伽さん、見限ったか?」
「……わかんない。とにかく、里中君を助けるので必死だったの。撃退できてよかった。もし、とか、たらればの話はしないでくれる? 少なくともいまの君は若いまま」
「だったら記念にキスしてくれよ」
「キスぐらいで、里中君が起きあがってくれるんなら」
というわけで、おれたちは朝っぱらからラブシーンをくり広げ、おかげで立ち直ることができた。




