8.「僕と代わってくれ!」
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荒川病院に着いたときには、空が白みはじめていた。
長阪さんは4階の個室に寝かされ、点滴を受けていた。
以前よりかは、げっそりとやつれ、不健康な黄色っぽい肌になっていた。こうしてシーツに包まれた老体は、まるで古代エジプトの猫のミイラを思わせた。
もはや紳士的な佇まいは見当たらず、ただただ死を待つばかりの男の哀れな姿でしかない。
奥さんは手早く着替えを所定の棚におさめ、貴重品を専用金庫にしまった。
ちょうどそこへ大家が現れたので、病室の外へ引っ張られていった。耳を澄ますと、先生の検査結果について、おまえも一緒に聞いてくれと洩れてきた。
奥さんは、手術の費用はどうするの?とゴネていたが、大家が小声で説得していたのが涙ぐましい。
「すまないが、里中君、しばらく部屋にいてやってくれ。すぐ戻るから」
と、大家が顔を出して言った。
というわけで、おれだけが残された。
しばらくすると、長阪さんが眼を開けた。
おれと眼が合う。
よく話にする、死相の浮いた顔を間近で見たことはなかったが、やつれた顔には、ありありと死の兆候が表れていた。青い隈が浮かび、やけに眼だけがギラギラしている。
「誰かと思えば久しぶりだね……。お隣さんこと里中君、まさか君のような若者と仲良くなれて光栄だ。わざわざ見舞いに来てくれるとは」と、弱々しい声でしゃべると、咳き込んだ。眼をそらし、天井を見あげる。「いくら老いたとはいえ、こんな姿を見られるのは恥ずかしい。思いどおりに身体が動かないのも腹立たしいが、なにより思いどおりに人生がうまくいかないのも苦痛だ。里中君、憶えておくがいい。老いれば老いるほど、この世は苦痛だらけになる」
「はっきり告知されたんでしょ。辛い気持ちはわかります。いまは安静になさってください」
「そうとも。告知された。僕の命はひと月も持たないんだと。脇のリンパにも転移している。もう手がつけられない」
「だったら、なおさら――」
「僕はね、前にもさんざん言ったが、奈緒と一緒になりたかった。なんであのとき、つまらないやせ我慢をしたのか、自分の鈍さにつくづく嫌気がさす。時間を巻き戻してやり直したい。もう一度、人生を」
――そら、はじまった!
これだからこの人は友人ができず、いつも孤立してしまうのだ。その女々しい内省を改めない限り、残りの半生がたった1カ月であろうと、独りきりのままだぞ。
とはいえ、人の性格は容易に変えられるものではない。
内装クロス貼り職人である親父がいつも言っていた受け売りだが、だいたいにおいて人間は、30歳ぐらいで固定化し、そうおいそれと改善はできないものである。
せっかく職場に入ってきた30すぎの新人も、曲がった人間性は変えられないと、陰でぼやいた。ましてやいくらスキルがあろうと、老年期に入った者がそれであった場合など、よほど本人が一念発起しないかぎり手の施しようがない。
そのたびに親父は、カー用品チェーン『イエローハット』の創業者、鍵山 秀三郎氏の名言を引き合いにする。
――『若い時に流さなかった汗は、老いてから涙となって返ってくる。』
おれにとっても、耳の痛い言葉だ。
なるほど汗は若いころにしか流せない。年を取れば取るほど、進んで汗をかこうとはしないものだ。
いくら若さがあっても、チャンスを与えられることはそう多くない。人生のなかでもビッグチャンスはほんの一瞬だったりするとされ、見逃す人も多いという。
「もう一度、やり直したい」と望んだときには、チャンスは残されていない。
「たとえ余命がひと月だとしても……。それがどうしたってんだ」突如、長阪さんは声を荒らげた。どこにそんな気力が隠されていたのだろうか、と思わせるほどの執念を見せた。「このまま、がん細胞に押しつぶされてたまるか。僕は罰を受けるっていうのか? なんでだ? あまりに理不尽すぎる!」
「長阪さん、落ち着いて!」
ベッドのなかの長阪さんは、おれにつかみかかってきた。
そして歯を食いしばり、眼を見開き、
「いっそのこと、君の若い肉体とかえて欲しい。里中君、代われるものなら代わってくれ。あるいは僕は、力づくでも――」
と、言った。
おれの腹の底で、猛烈な怒りが湧いた。
あまりにも傲慢な言い分だ。見すごすわけにはいかない。人として、年齢の上下を超越して、教え諭す必要があった。
「いやいやいや!――代われるものでも代わってあげません」おれは寝間着姿の長阪さんの胸倉をつかみ、枕に押さえつけた。杵で餅を搗くように頭を交互に揺さぶった。ぴっちり撫でつけた白髪が乱れ、都落ちする落ち武者みたいな髪型になった。「曲がりなりにも一度は人生を謳歌したんでしょ? なのに、一度も謳歌していないおれと交換してくれなんて発想、ムチャクチャです。エゴイスティックにも程がある。長阪さんの後ろ向きの考え方は時折、いかがなものかと思ってましたが、ひどすぎます。――人として」
長阪さんはカッと眼をむき、負けじと腕を伸ばしてきた。
そして鷲の爪みたいに指を開き、呪わしく迫ってきた。
おれはそれこそ、その手に捕まれば文字どおり若さを吸い取られると思い、とっさにうしろへ退いた。
「里中君! 僕と代わってくれ!」と、溺れかけの人が板子にしがみつくように口をパクパクさせた。これが文字どおりカルネアデスの舟板なら、殺人が正当化されるかもしれない。「僕はすべてをやり直したいんだ!」
「あんたは遅すぎるんです! やることなすことが!」
おれは逃げるように病室から出た。
スライドドアがゆっくり閉まる寸前、彼はベッドに横たわったままの姿勢で、声を嗄らして叫び続けていた。
呪わしく片手を差しのべ、鉤爪状にした指を折り曲げ、眼玉をむき、口の端から泡を出して、かつての紳士はどこへやら、エゴと狂気をさらけ出し、いつまでも生にしがみつこうと藻掻いていた。まるで酸欠の鯉のように口をパクパクさせながら。
「里中君、戻ってこい! おれを……奈緒とやり直させてくれ!」
勝手にしやがれだ。




