4.夢の中の疑似体験
そのまま昼すぎまで、飯も喉に通さず眠り続けた。
ようやく立ちあがって、昨日ワックスをつけてベタベタになった頭を洗い流すことにした。
熱いシャワーで汗を流し、人心地がついたときには、窓からオレンジ色の西日が差し込んでいる時間帯だった。
冷蔵庫にあったコンビニの冷やし中華をたいらげた。
ポテチを肴に、芋焼酎をロックで流し込んだ。愛媛から東京に来て以来、酒に強くなった気がする。
壁の向こうからはテレビの音声がした。
相撲の中継らしい。長阪さんはすでに夕飯を終えたらしく、身じろぎする音すら聞こえない。もしかしたら一杯ひっかけ、座椅子に腰かけたまま、うつらうつらしているのかもしれない。
おれも20時にならないうちにすっかりできあがり、絶海の孤島にたどり着くようにベッドにあがると、そのままひっくり返った。
◆◆◆◆◆
暗い深海へ沈んでいくような眠りに落ち込んだあと、おかしな夢を見た。
おかしな夢?――じきにそれは、身悶えるような悪夢となる。
黄昏の色が差し込むアパート。見なれた8畳間でおれは壁にもたれ、あぐらをかいたままスマートフォンをいじっている。
いま思い起こせば、夢の中でおれはもう一人の自分を疑似体験していた。
部屋の真ん中にローテーブルがある。
テレビやエアコン、ミニコンポのリモコンやら、目覚まし時計、部屋の鍵、マグカップ、芳香剤、爪切り、折り畳みナイフが置かれている。
いつもならスナック菓子の袋のひとつでもこれに加わっているのだが、このときばかりは存在しない。
むしょうに口寂しくなった。
――そうだ。買い物に行かなくちゃ。
おれはスマホをタッチするのをやめ、立ちあがろうとした。
おかしい。やけに身体の節々が痛み、動きも鈍い。もともと頭の回転はよろしくなかったのに、ますます緩慢になった気がする。
外へ買い物に行くのはかったるい。ましてや人と顔を合わせると思うと憂鬱だ。口を利くのも勘弁してくれだ。
もう一度、ローテーブルの品々を見た。
焦点がぼやけ、なにもかもが霞んでいる。
身体が異様に重い。まるで全身に無数の分銅をぶらさげているかのようなだるさを感じた。
こんなはずじゃなかった。
昨日までバイト仲間と馬鹿騒ぎしていたときは、身体は羽毛のように軽く、心も生まれたてのトイプードルみたいに弾んでいた。
やけにリアルな違和感だった。夢なのに、節々の痛みを訴えるとはこれいかに?
おれはこの異変を確かめるべく、ユニットバスの洗面台に取り付けられた鏡に向かった。
たった8畳間を横切り、そこへたどり着くまでなのに時間がいった。
よろよろしながら狭い個室に飛び込み、鏡と対峙した。
思わず眼を剥いた。
なんとお労しや、その姿!
えらく背中の曲がった身体に驚いた。暗すぎるので灯りをつけた。
「……嘘だろ!」
骨ばった首筋は養鶏場に押し込められた鶏とそっくり。髪の毛はすっかり白くなり、頭頂部などフランシスコ・ザビエルみたいに禿げているのには打ちのめされた。
目尻や口の横の皺が目立ち、ほうれい線がはっきり出ていた。全体的にシミが点在するようになった。老人斑にちがいあるまい。以前は洗顔すれば水を弾いた肌も、べったりと吸収するかのようだ。
四肢はしなびていた。細すぎる脚など、ぬか床に漬けたたくあんのようだ。
あまりの変容ぶりに、おれは言葉すら見つからず鏡から後ずさりし、ユニットバスから出た。
出るとすぐ左が玄関だった。
いつの間にかドアが開けられ、オレンジ色に満たされた戸口に、何者かのシルエットが佇んでいた。
おれは壁を背にし、そちらを見た。
戸口に立つ人影は進み、玄関の三和土に踏み込んできた。
気配で誰かわかる。――長阪さんにちがいない。
しかしながらその面差しと、ジャケットを着た身体は、吹けば飛ぶような以前の老体ではなかった。
いまでは背筋がしゃんとし、素肌は皺ひとつなく、若々しい姿なのだ。なにより生気に満ち満ちた顔つき。歯は白く、ピンク色の健康的な歯ぐきが強烈すぎた。
「やあ里中君、元気そうでなにより。わかったかい、年を取るってことはこんなにも醜くなり、思いどおりにならないことなんだ!」
自信にあふれた長阪さんは三和土から土足であがり、おれの顔を真っ向からのぞき込んだ。
眼鏡の奥の眼には軽蔑の色が広がっている。
おれは臆して身を引くと、若返った長阪さんは口を開け、甲高く哄笑を放った。
自分の悲鳴でおれは夢から醒めた。
たっぷり嫌な汗をかいていた。いつの間にかタイマー設定していたエアコンが切れたせいもあった。
それ以上におれがカッパ禿げとなり、貧相に老いさらばえ、反対に長阪さんが若者に変じた異様な構図には慄然とさせるものがあった。
心底、夢でよかったと安堵した。
きっと長阪さんを邪険にしたために、少なからず良心を痛めたにちがいない。おれの潜在意識がこんな夢を作り出したのだろう。
そもそも薄い壁一枚隔てた向こうに、傷つけた相手が暮らしているのだ。変に気をまわして、こちらも物音を立てるのさえ控えるようになるし、蟠りを引きずったままだから影響したかもしれない。
たしかにここしばらく、アパート外の出来事に熱中し、お隣さんとの付き合いを疎かにしてしまった。
せっかくのアパートの隣人同士。あいにくかわいい女の子か年上の美人さんでもなかったが、世代はちがえど、袖振り合うも他生の縁って奴だ。
罪滅ぼしってわけでもあるまいが、おれは次の日曜、彼と一緒にすごすことにした。




