3.「若いってのは羨ましい」
◆◆◆◆◆
相変わらず、大学とバイト先を行き来する生活を続けた。
おれだって暇人ではない。
東京での生活はラッシュアワーそこのけに目まぐるしく、取り残されないようについていくので精一杯だった。到底のんびりなんかしていられない。
そんななか、嬉しいニュースがあった。――バイト先で知り合った女の子と、いい仲になりそうになっていたのだ。
焦らず距離をつめれば、遠からず落とせるだろう。自惚れのつもりでもないが、向こうもおれに気があるようだ。今度の歓迎会が鍵を握っていた。
そんなわけで、おれの世界は急速に広がりを見せていた。長阪さんだけにかまっている場合ではなかったのだ。
面と向かって言えるわけはないが、彼は終わった人だった。厚生労働省が今年発表した簡易生命表によると、2020年の日本人の平均寿命は男性が81・64歳だった。とうに83の彼は、いつ亡くなるか知れたもんじゃない。
その点、おれの人生は始まったばかりだった。
せっかくだから休みの日にだけ、長阪さんの部屋にお邪魔し、付き合ってやった。付き合ってやった、という時点でおれが精神的に優位に立っていた。
月末になるにつれ金欠であえぐおれにとって、手料理をふるまってくれる彼は、湿っぽい昔話を聞かされるのは玉に瑕であったが、反面強みでもあった。
彼もふだん疲れているおれに気遣ってか、さすがに平日は無理に誘いはしない。それだけが救いだった。――は、そりゃそうだ!
この先、Fランクの大学を卒業したところで、たいした箔も付かないだろう。それは認める。
おれはこれといった夢を追いかけているわけでもなく、浮雲のように流されて生きてはいたが、なにせ19歳。これから先、藻掻いていれば、いくらでも人生の目標は見つけられると思った。
若さこそ正義。前途洋々だった。
荒川区の真っ只中だというのに、蝉はよく鳴きわめいた。
がなり立てるといった方が正しい。奴らは長きにわたる幼虫から孵化すると、種の存続のために交尾する相手を見つけるまで、声を嗄らして鳴き続ける。
思えば、おれも蝉どもも、似たり寄ったりだった。
◆◆◆◆◆
じきに長阪さんの部屋へ通うのは毎週とはいかなくなった。
せいぜい3週間に一度の日曜、彼と付き合うだけにとどめた。酔うたびにネガティブな昔話を聞かされ、うんざりしていた。いくら鈍感なおれでも、毎回やられたらたまったもんじゃない。
大学へ行くのと、バイトで稼ぎ、女の子と付き合うのに忙しかった。むしろそちらにシフトしていった。
去年から数えて4度目の緊急事態宣言が発令されているにもかかわらず、バイト仲間の先輩ら4人と土曜の晩に居酒屋でどんちゃん騒ぎをし、悪びれた様子もなく、飲み屋街をハシゴした。
深夜3時に帰宅し、ベッドまでたどり着けず、畳の上でそのまま大の字になっていた。
日が昇った。窓からまぶしい光が入り込み、暑さでうめいていたところに、呼び鈴が鳴った。
遠慮がちなノックが続く。
二日酔いのだるさと頭の芯が疼くなか、おれは壁の時計を見た。
11時前だった。――きっと長阪さんだ。判で捺したかのように、こんな形で彼は誘いにくるのだった。
「はい」
「里中君、こんちは。昨夜は遅かったみたいで恐縮ですが」と、薄いベニヤ合板の向こうで長阪さんの声がした。咳払いし続けた。「君さえよければどうだい、久しぶりに飯でも食わないか。年金月でおろしたばかりだから懐は温かいんだ。うんと食材を買い込んでいる。肉もある。僕が料理をふるまってあげるからさ」
肉に釣られそうになった。ブランド肉ならなおよい。
が、それ以上におれの二日酔いはヘビーだった。なによりシャワーも浴びていないし、動くのさえ億劫だった。
「長阪さん、申し訳ありません。昨日、バイト仲間と飲み食いして、帰ってきたの明け方だったんです。めちゃめちゃ気分が悪くって。すいませんが、今回はパスさせてください」
おれは大の字になったまま、ドアの向こうに聞こえるように言った。
本音は二日酔いもピークをすぎていた。熱いシャワーを浴びる時間ぐらいあれば、たちどころに回復しただろう。ましてや肉料理が出るのであれば、処刑されて三日目に甦ったイエス・キリストみたいに復活できた。
億劫なのは、彼の部屋へ招かれるたび、ネガティブな話を聞かされるからだった。
「そうかい……。若いってのは羨ましい」と、長阪さんはドアに密着したまましゃべっているのだろう。くぐもった恨めし気な声が響いた。「わかった。またの機会にするよ。とにかくゆっくり休んで体調を整えてくれたまえ」
と言って、彼はとぼとぼ引きさがる靴音を立て、隣の部屋へ入っていった。
ガチャッ……パタン。
おれは聞き耳を立てた。なんだか心が痛んだ。
薄い壁一枚隔てて、生活音がする。
冷蔵庫を開け閉めし、堅いものをシンクに置く音。ビニール袋をがしゃがしゃ揉みしだく音。テレビをつけたらしく、しかつめらしいニュースキャスターの声が洩れてきた。盛大なため息をつき、座椅子に腰かけ、背もたれを調整するキリキリキリという歯車のまわる音がした。
お隣さんとの仲がぎくしゃくすると、とたんに住処は居心地が悪くなる。




