373.朱蜻蛉突破録 3
――なんだアレは。
それを見た瞬間、誰もが同じことを思った。
まるで闇を集めたような体躯で、悠然とした足取りで現れた。
――なんだアレは。
あまりにも禍々しい容姿というのはわかるが、はっきりしないシルエット。
どこまでも異質で異彩な異形にも拘わらず――大地を踏みしめ堂々と歩む姿を見ていると、畏怖とも畏敬とも思えるような感情が沸き起こる。
――アレはいったいなんなんだ。
それに対する答えを、誰も持ち合わせていなかった。
異変の前触れに気づいた者は多かった。
狙い通り、半分ほどが散った朱蜻蛉の群れが右往左往しているのは変わらないが、二十頭を超える四足紅竜が突然動きを止めたからである。
――なんだ?
誰かがそんな疑問を口にするのと同時に、まるでその疑問に答えるように四足紅竜が雄叫びを上げだした。
「――グォオオオオァァ!!」
「――ガアッガアッ!!」
「――キュゥウウウアアアア!!」
パッと見では大小の見た目くらいしか判断はできないが、やはり生物として声帯なども個々で違うようだ。
若き戦士のように勇ましい声。
老獪さを感じさせる濁りしゃがれた声。
向こう界隈では美声で通っていそうな女性っぽい高い声。
半数以上がいきなり雄叫びを上げる――十を超えるドラゴンが目の前にいる、というのも異常な光景だが、この現象はそれより上を行く異常な光景だった。
「子供が逃げてる」
「警戒の声かな」
リッセの冷静な分析に、リオダインも冷静に返す。
そう――四足紅竜が叫び出した辺りから、夢中で朱蜻蛉を追いかけ回していた小さな個体が、今度は引率らしき大きな個体を追い駆けて森の中に消えていった。
明らかに避難行動である。
大人が危険から子供を遠ざけるような、そんな知的な行動である。
いったい何が起きている?
いつの間にか朱蜻蛉の姿が消えていて。
四足紅竜が雄叫びを上げるのをやめて、森を見ていて。
――ソレが姿を現した。
見た目は、黒いドラゴンである。
四足紅竜と同じく四足型で、たたんだ翼らしきものがある。
一見同種の色違いかと思ったが、二回りほど大きい。
そして、見れば見るほど異形でしかない。
「――」
ゆっくりと歩み出てきた黒いドラゴンは、四足紅竜たちを見回すと、口を開いた、ように見えた。
だが、そこから出たのは稲妻のような強い音でも、同種に親愛を示す声でもなく。
ごぼりとこぼれた、黒い液体だった。
――ドラゴンを見ることさえ初めてだったエイルは、ここでようやく我に返った。
自然、生物、魔物、いずれの理由でも小さな人間には驚異を感じさせる四足紅竜の群れを見て、少しだけ呆然としていた。
そして禍々しい異形の黒いドラゴンを見て、本能の毛さえ総毛立つような、明確な恐怖を憶えた。
しかし、遠目ながら「口から黒い何かがこぼれたように見えた」瞬間、恐怖が逆に冷静さを訴えてきた。
いつもの狩りのように。
やるべきことをやれ、と。
エイルは「遠鷹の目」をセットして観察に入った。
異形だと思ったのは、陰影がおかしく形がぼやけているから。
黒いドラゴンは「黒一色」で、まるでインクで塗りつぶしたかのように立体感がないのだ。
そして焦点が合わず、ゆらゆらと陽炎のようにゆらめき、存在が希薄だ。
存在感と威圧感だけは、遠くから見ているだけでも伝わるくせに。なのに存在が不安定に見える。
生物らしくない。
ドラゴンの形だけしかない。
そもそもが生物だと言い切れないほど、色々とおかしな存在だった。
輪郭がぼやける。
風に当たるとかすかにゆらめく。
「……霧?」
黒い霧のようなものを全身にまとっている、ように見える。
――ナスティアラの王都にいた時、黒い霧を放つ猿と一戦交えたことがあるが、あれとは根本的な部分から違う気がする。
霧の濃度というか、そもそもの使用用途そのものからして。
「サジータさん、あれはちょっとまずい」
全員が油断なく観察をしている時、ベルジュが言った。――顔が真っ青だ。
「あれを見てから寒気が止まらない。たぶん死霊とか悪霊とか、そういうのだと思います」
――そうだ。ベルジュは「魔光中和」という「素養」を持つ、光属性体質だ。
恐らく、自身の持つ光属性が、この距離でも、あの黒いドラゴンに反応しているのだろう。
決して近づくべきではない脅威として。
「というか、サジータさんはアレのことは知らないの?」
リッセの疑問は、今更という感じだが、しかし誰もが忘れていたことである。
色々と初めて尽くしのことに心を奪われ、基本的な情報の連携さえまだしていなかった。
「いや、聞いたことも見たこともない。竜人族からも聞いたことはなかった」
――長年アレと同じ森に住んでいるなら、竜人族が何もアレも知らないとは思えない。
つまりサジータには情報規制をしているのだろう。
「何年かに一度、朱蜻蛉が大量発生する……本当の原因はあの黒い奴だろうね」
サジータの推測に、エイルも含めて何人かが頷いた。
普段は森の奥地にいるのだろう黒いドラゴンだが、何かの拍子で浅い場所に出てくる。
黒いドラゴンから逃げるために四足紅竜も浅い場所に出てきて。
更に四足紅竜から逃げて出てきたのが、朱蜻蛉の群れだと。
――その根拠として、圧倒的に数で勝る四足紅竜が、黒いドラゴンを威嚇するばかりで襲い掛かろうとしない。
というか贔屓目に見ても腰が引けている。
「――」
ごぼり。
黒いドラゴンが口を開くと、黒いしずくがぼたぼたと落ちる。
霧じゃない。
あれは液状の何か。よだれだろうか。よくわからない。
と――
ボン!
「「なっ……!?」」
黒いドラゴンが爆発した。
黒い霧や液体を、派手に一帯にまき散らした。
音はなかった。
だが、明らかに爆ぜた。
「――ガアアッ!? グウゥアアア!?」
うっかり黒い霧だか液体だかを食らった四足紅竜数体が、もがいて暴れ出す。
それを契機に、ほかの四足紅竜たちも子供たちのように逃げ出した。
黒く染まった一帯を回避し、森の中へ消えていく。
黒い霧だか液体を食らった個体も、もがきながら森に消えていった。
「あ、あれ、ぜんぶ、毒、だと思う……」
カロフェロンの推測は、恐らく当たっている。
黒い何かを食らった四足紅竜の反応が、まさしくそれだったからだ。
「毒の塊ということですか……あっ、見てください!」
セリエが指を差す先は、黒く染まった一帯だが――その「黒く染まった一帯」が蠢いていた。
まさか、とは、思ったが。
そのまさかだった。
まき散らした黒い物が少しずつ集まり、さっきの黒いドラゴンに戻ってしまった。
さっきのあれは爆発じゃなくて、ただの攻撃手段だったわけだ。
「――ちょっといいかい?」
黒いドラゴンが、四足紅竜が食い散らかしていた朱蜻蛉をのそのそ漁り出した頃、「黒鳥」のメンバーがやってきた。
口を開いたのはグロックで、かなり真剣な顔をしている。
――黒皇狼を狩る時に見せた、真剣な面持ちと同じだ。
「サジータさん。あいつの情報は持ってます?」
「いえ、見たことも聞いたこともありません。グロックさんは?」
「同じくです。ただ――」
グロックは、クイッと親指を立てて自分の後ろ……「黒鳥」の仲間を指差した。
「うちの奴が、あれは今の内に殺しておくべきだって言ってます。
普段はバカでアホで言うことなんざ一つも聞かねえ愚か者だが、直感だけはベテラン以上です。今までその根拠のない直感に何度も命を救われてきた。
というわけで、俺たちはここで護衛の職を辞退したい」
それはつまり――
「あれと戦うつもりですか?」
「ええ――元々俺たちはドラゴン狩りも目的で来ていたもんでね。こっちにとっては予定の内なんですよ」
「もっとも、あんな厄介そうなのを狩る予定なんてなかったですけどね」と、グロックは勝ち気に笑った。
どうやら本気のようである。
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