369.朱蜻蛉突破録 直前
「――というわけで、我々はどうしても竜人族の里に行きたいんですが」
いまいち年齢が掴みづらい、恐らく二十半ばであろう優男・サジータの言葉をまとめるなら、こうである。
「つまり、今すぐにでも朱蜻蛉の群れを突破して竜人族の里に行きたいってわけですかね」
相対するのは、「夜明けの黒鳥」の派遣メンバーの中でリーダーを努めるグロックである。
丸一日の休日を兼ねていた、本日の終わりが近づいてきた夜。
大衆酒場で待ち合わせした依頼人サジータと、護衛の責任者グロックは、片隅のテーブルで仕事の話をしていた。
いくつもあるテーブルはほぼ埋まっている。
ほとんどが地元の客だが、隣のテーブルだけは違うようである。
サジータの意向にグロックは不満を隠そうともせず、まずい酒でも飲んだようなしかめっ面である。
なお、仕事の話をしているので、さすがに今は飲んでいない。
「俺たちはおたくらの護衛なんでね、一緒に行く義務はありますけど。でも一緒に死ぬのは勘弁だ。ましてやこれだけ警告してるのにそれでも行くとなれば尚のことです」
何度か獣人の国に来ているグロックは、朱蜻蛉の脅威を知っている。
平素であれば、多くても十匹くらいの規模でのんびり飛んでいるような魔物である。
十匹くらいなら、襲われたところでグロック一人でもなんとでもなる。
仲間がいるなら、更に楽に勝てる相手だ。
桁が違うほど多くなければ、だが。
「――ねーねーアインー。朱蜻蛉って食えるのー?」
「――朱蜻蛉は虫型でね、肉はないんだよ。硬い甲殻を持つトンボって感じで、中身は肉じゃなくて体液だって聞いてるよ。
ただ、羽は素揚げするとパリパリの食感で結構おいしいんだって。砕いてサラダに掛けると面白い食感になるらしいよ」
横のテーブルで食ったり飲んだりして待機している「黒鳥」メンバーの中、一番食い意地が張っているホルンがアインリーセに話を振っているのを脇目に、グロックは続ける。
「その辺の事情を汲んでもらわねえと、さすがに同行はできかねます」
「――へー。羽かぁ」
「――採ってきたら売れますかね?」
「――おー、安いけど売れる売れる。何? レクストンはアレ? リーダーの剣を買い取る資金作り?」
「――そっす。あれだけの業物が破格っすからね。絶対欲しいっす」
ライラ、レクストンも混じり、交渉事がぶつかっている隣の席とは別次元の、なかなか平和なやり取りが続いている。
「もちろん、現段階で無策のまま行くのは自殺行為。我々も死にに行くつもりはありません」
そりゃそうだろう。
この依頼は、「黒鳥」のリーダーであるリックスタインが請け負うと決めたのだ。
グロックには詳しい説明はなかったが、背後関係や依頼者に怪しいところがあれば、まず引き受けることはない。
つまり――何らかの裏はあるかもしれないが、グロックたちを騙して護衛以上の仕事をさせよう、なんて魂胆はないだろう。
多少きな臭い、あるいは胡散臭い点もなくはないが……
たとえば、このサジータの言いようのない曲者感だとか、向こう側にいるメガネの少女がどこかで会ったような気がすることだとか。
あまり観察すると、探っていると勘繰られてそれを嫌がる依頼人も多いので、極力見ないようにはしているが。
それでも気になるものは気になるのだ。
だが、それはあくまでもグロック個人の感想だ。
グロックはリックスタインと、依頼に関して口出しする権利のある副リーダー・アネモアの判断を信じる。
「黒鳥」は冒険者であるが、言い方を変えれば武力集団だ。
依頼人によっては、使い捨て同然の扱いをされ、挙句には犯罪者にさえ仕立て上げられることもある。
だがそれでも、個人的な感想より、この依頼を受けた彼らの判断を信じる。
いつも通りに。
彼らは本当に、竜人族の里に行きたいだけ。
目的はそれだけのはずだ。
「――そういえばさー、依頼人の中にいるベルジュおじさんだけどさー」
「――おじさんじゃねえ。あの人ホルンと同い年だぞ」
「――えっうそっ!? あの大きな人、十代なの!?」
「――マジだ。ライラの一つ年上だな」
「――たった一つ違い!?」
「――いいんだよ細かいことは。それよりベルジュおじさんのシチュー食べた? めっちゃくちゃおいしかったやつ」
「――食った食った! めちゃくちゃうまかったな!」
「――あたしも食べました、お姉さま!」
「――私は食べてなーい! ……おいガキども、あんたらが私の分も食ったってことでいいんだよな?」
隣の席でアインリーセが怒りだした。ちなみにグロックも食べていない。
「――まあまあいいじゃん、また作ってもらえば。アインは怒りっぽいなー」
「――あ? ……ちなみにホルンは何杯食べた?」
「――六、か、七杯? トカゲ肉は全部探して食べたけど」
「――よーしいい度胸だ。レクストン、ホルンを抑えろ。今日こそその生意気なおっぱいもいでやる」
「――や、やめろよー! あれ痛いんだからー!」
…………
「うちのがうるさくてすみません」
「いえ。仲がよろしくて結構なことです」
サジータが帰るのを見届けると、グロックは隣のテーブルに移った。大皿に盛られた果物を一つ口に放り込む。
「おまえらちょっとは気を遣えよ。横でやってんだろうが」
仕事の話をしている横で、酒飲んでいい感じに酔っぱらって戯れているとは何事だ。交渉しているグロックは飲めないのに。
場所が大衆酒場だけに、ほかのテーブルが空いていなかったのだから仕方ない。
とは言え、楽しく飲んで食って騒げとは言っていない。
場所が場所だけに控えたが、場所が場所なら確実に、グロックは「うるさい散れ」と叱り飛ばしているところだ。
「ホルンが悪い」
「ホルンが悪いっす」
「ちょっとだけお姉さまが悪いです」
「――言われなくても知ってるよ」
ホルンを慕うライラにまで見捨てられるくらいホルンが悪いことくらい、もはや事情を聞くまでもなくわかっている。
「……いたいー……いたいー……」
公言通り乳をもがれそうになったようで、ホルンは泣きながら胸を押さえている。――まあその痛みもすぐに忘れ去ることだろう。いつものことだ。
「話はどうなりました? なんだか揉めていたようですが」
――騒ぎに便乗せず、静かにカップを傾けていた巨漢オールドブルーが視線を向けてくる。
「おう、連中はどうしても早く竜人族の里に行きたいらしい。だからこっちとしては当然反対してきたぜ」
「ほう。なんとも平行線を辿りそうな話ですね」
その通りだ。
朱蜻蛉が大量発生しているならば、当然、危険に近づくべきではない。
グロックとしては、護衛としても、朱蜻蛉の脅威を知っている一冒険者としても、「行く」という判断は下せない。
あまりにも危険すぎるからだ。
というか、無謀とさえ思える。
なのに、依頼人はそれでも行きたいと言うのだ。
朱蜻蛉が発生している向こう側にある、深い森の奥へ。
命が懸かっているだけにグロックは譲るつもりはないが、それは向こうも同じく、強固な意志で行きたいと言っているのだ。
ならば互いの主張は交わることなく、平行線を辿ることになる、のだが。
「進展はありましたか?」
「――あった。というか、サジータさんはその妥協点を伝えに来たんだろうな」
自然と仕事の話になっているので、全員が酒を飲み物を食うのを止め、グロックの言葉に耳を傾けている。――いや、一人だけ痛い痛いと泣いている女もいるが。まあ彼女のことは放っておいていい。いつものことだから。
「向こうで作戦を考える。その作戦に納得できたら一緒に行こうってよ」
「ああ……なるほど。つまり行く行かないの決定権をこちらに渡すと」
「そうだ。――つーわけでしばらくは自由行動だな」
この時点で、グロックは頭っから思っていた。
――どんな作戦を持ってきても頷くつもりはない、と。
要するに、朱蜻蛉がいなくなるまで待機か、護衛依頼を解除して彼らだけで行くか。
今後ありうる道は、その二択に絞られることになる。
「日帰りできそうな仕事なら請け負って構わねえし、観光してもいいし遊んできてもいいぜ。ただし夜は必ず宿に戻れ。いいな? あとホルンは絶対に単独行動させるなよ」
そう指示を出し、「黒鳥」はハルハの街で待機する構えを取ることになる。
――後日、依頼人たちが持ってきた作戦に乗り出すことになるのだが、この時はそんな可能性は微塵も抱いていなかった。




