320.メガネ君、調査開始早々に会いたくない人と会う
――とにかくできるだけやってみろ、こちらもそれなりに準備をしてやる、と。
弱腰の俺に強く言いつけると、ヨルゴ教官は俺と一緒に部屋を出て、一人でどこかへ行ってしまった。
背中を目で追うことさえ許さないその素早さたるや、どこまでも「本気」を感じさせる。
「……迂闊」
あまりの自分の迂闊さに、迂闊が口から出た。
まさか乗り気になるなんて思わなかった。
いつも通り「勝手にしろ」と言われるどころか推奨され、逆に逃げることを許さない勢いである。
今確かなことがあるなら、俺の思い付きと愚問が、ヨルゴ教官に火を点けたということだ。
…………
考えてみれば、もう二つほど確かなことがある。
一つは、ヨルゴ教官が命に関わるような問題を無視して、何かを……今回に関しては「要人宅への潜入」などやらせるとは思えないこと。
彼自身が言っていたように、最低限の保証はしてくれるはずだ。
問題はどこまで保証してくれるかだが……
――まあ有体に言えば、大帝国軍人に見つかって斬られるような目に遭うこともあるかもしれないけど、多少斬られはしても命だけは助けてやる、と。
そんな感じだろうか。
そしてもう一つは――元から思っていたことだ。
「……まず腹ごしらえかな」
実際にやるかどうかは置いておくとして。
しかし教官の言いつけ通り、準備だけはしておこう。
――もう一つ、確かに思っていたことは、今の俺ならできるんじゃないか、ということ。
思い付きの愚案を、猫酔いによって半ば本気にしていた根拠でもある。
ヨルゴ教官から見て四割と見積もった成功率を鑑みれば、決して不可能ではなさそうだ。無謀な挑戦と断じるにはいささか成功率は高い。
戦う必要はないのだ。
隠れて逃げて忍び込めばいい。
仮に見つかったところで、正体さえ割れていなければ……逃げきれればなんとかなる。
そして俺は、物心ついた頃から、その手のことをずっとやってきた者だ。
更には、「メガネ」を手に入れてからは、望外と言えるほど取れる手段も手数も小細工も増えた。
やはり不可能ではないと思う。
今の俺なら、決して無理ではないと思う。
――まずは腹ごしらえ、そして調査だ。
知らない獲物、大物を狙う時ほど、準備に時間を掛けるものだ。
まずは必要なことを調べる。
できるできないを判断するのは、それからだ。
すっかり気に入ったソバ屋に入り、海老天ソバという至高の料理で腹を満たし、少し歩いてみた。
数日前にネルイッツの猫スポットを案内してくれたマヨイは、ついでのように街の目立つ場所……観光スポットのような場所も教えてくれた。
その中に、確かにあった。
代官の屋敷、というものが。
案内された時は「へー」と相槌を打っただけだが、今度は違う。
今度はちゃんと見るつもりだ。
十字に走る大きな街道から離れた、大きな建物ばかりが並ぶ地区……王都で言うところの貴族街のような場所の一つ。
そう、確かここが、代官の屋敷とかなんとか言っていた。
……だが、しかし、これは。
「……」
見たことのない屋根の造りからして、恐らく東洋の建物である。
門番がいる場所を避けつつ、高くそびえる白い外壁に沿って一周してみた結果、まったく中が窺えなかった。
歩いてみた感じでは、敷地は非常に広い。
そしてきっと、巨大であろう邸宅は一階建てである。
外壁の外からは屋根くらいしか見えないので、確かなことは言えないが……とにかく家屋は低そうだ。
……となると。
代官屋敷の外観が見られるような高所は、近くにあるだろうか?
それとも違う方法で中を見るか――おっとまずい。
さりげなく歩いているつもりだったが、近くの路地から不意に出てきた、通りすがりの大帝国軍人二人にいきなり目を向けられた。
場所柄からして人が少ないのもあり、俺のような小僧が歩いているだけでも目立つ区域なのだろう。
「そこの君」
素早く逃げようとしたが、目を付けられてすぐに声を掛けられた。
決して見ないようにしていたのだが、呼び止められたのでは仕方ない。
さすがに声を掛けられて逃げてしまうと、絶対に追われる。貴族街とは警戒されている場所だからね。全体的に。
仕方なく軍人二人に目を向け――心臓が止まるかと思った。
知っている顔がいたから。
それも、俺の命を取ろうとした奴だ。
顔に出てないよな?
俺は今、平静でいられているよな?
――カルシュオク・シェーラー。
馬車襲撃事件で駆け付けた、とてつもなく強い軍人だ。
現に俺は、「素養」なしでは絶対に勝てないと判断し、人前で使いたくないのを推してでも「素養」を使い対処した。
ここが幽玄の谷に近い街であることから、奴がいることも一応頭の片隅には置いていたが。
本当に遭遇するとは思いもよらなかった。
そんなカルシュオクは後ろに控え、じっと俺を見ていた。
何も言わない、反応も示さないところを見るに、俺はちゃんと平静でいられているようだ。
そして前にいる軍人が言う。呼び止めたのも彼である。
「ここらはお偉いさん方の家しかない。あまりうろうろしているといいことはないぞ」
……よかった、ただの注意で済んだか。
俺は軽く「すいません迷いました」と告げ、本気で目を付けられる前に貴族街から離れることにした。
――カルシュオクとの遭遇はさておき、屋敷周辺で得られることは少ないみたいだ。今後はこの辺をうろつくことはないだろう。
カルシュオクと会うのも、これっきりにしたいものだ。
……さて、次はどこから情報を探るかな。
「でよぉ! これがまたべっぴんでよぉ!」
貴族街から一転して、次は貧民街へと向かった。
屋根続きの長い平屋が軒を連ね、平屋にある一つ一つの部屋に一世帯ずつが住んでいるという、まあかなり俺向きな狭い住処が並んでいる。
率直に言うと、着ている物が粗末で寒そうな人たちが住んでいる区画である。
その近くにある小さな飲み屋に入り、昼間っからべろんべろんなおっさんに酒をおごり、代官周りの情報を聞き出してみた。
ちなみに「メガネ」は掛けていない。まあ簡単な変装代わりである。
昨日の夜、アロファから聞き出した情報と、べろんべろんのおっさんの情報を合わせてまとめると。
代官は、大帝国皇帝よりこの街を預かる華族で、いわばネルイッツの責任者であり、支配者だ。
それも建国のきっかけになった、始まりの武士「シュウスイ・カルベ」の血を引く子孫で、家柄が確かな華族であるという。
ただ大帝国の国柄上、強い者が尊ばれる。
今代の代官は非常に強い武芸者だが、その娘である召喚魔法の使い手は、そうではないそうだ。
代官には息子もいるにはいるらしいが、どこにいるかはわからないとか。
なんでも家出同然に消えた、という噂もあるとかないとか。
大帝国の要職に世襲はない。
消息不明の息子は省くとして、少なくとも武道関係の才を持たなかった代官の娘は、代官職を継ぐことはないだろう、とのことだ。
要するに、代官の娘は弱いってことだね。
俺にとっては好都合だ。
寝室に忍び込めれば、あとは簡単かもしれない。
ちなみに、関係あるかどうかはわからないが、華族について。
これは始まりの武士「シュウスイ・カルベ」の息子が、ストイックすぎる父親に似ず、絵に描いたようなわかりやすい英雄色を好む性格をしていたらしい。
そのおかげで、かなり無責任に「カルベ」の血が広まった。
要するに、華族とは「カルベ」の血を引く人たちのことである。
ただ、特殊な国柄であるため、華族という肩書きにはあまり意味がないとか。
強い者がいる家は皇帝に気に入られて要職に就けるし、そうじゃなければ多少家が大きいだけの一般家庭となんら変わらない。
華族だからといって横暴が許されるだなんてことも一切ないし、悪いことをすれば普通に軍人に斬られることもある。
弱い家だと、ほかの華族は当然として、一般人にさえ哀れまれるという。
むしろ華族というだけで、強く実力主義を押し付けられる結果となっているとか。
簡単に言えば、強ければいいけど、弱ければ最悪って感じである。
ナスティアラなんかと違って、貴族なのに大した権力も持たないとか。というか強いかどうかでしか権力も生まれないとか。
本当に変わった国である。
でもまあ、この辺の情報は俺には必要ないかな。
――この街の代官の名前は「エイトク・カルベ」、俺が狙う代官の娘の名前は「アヤ」というらしい。
アヤ・カルベ。
今年十四になり、来年の末……ちょうど一年後くらいに許嫁の家に嫁ぐ予定という、いわゆる箱入り娘。
滅多に表に出ないそうだが、少ない目撃談を考えるに、かなりの美女であるとかないとか。
武芸全般の才はなかったものの、代わりに健常な身体と魔術師の才を宿す。
特に召喚魔法に関しては、稀に見るほどの才覚に恵まれているとか。
軽々しく表に出られない身分の彼女が、代官の娘として街を守るための一助にと配置したのが、例の召喚獣たちである。
あの動物たちは独立して動いている。
が、かすかにアヤと繋がっており、動物たちの警戒心や、危害を加えられたという事実を、術者たるアヤに知らせるとか。
――気になっていた召喚獣の情報が得られたのは助かったな。
あの獣たちがどの程度の監視をしていて、どの程度術者と繋がっているか。
これはずっと気になっていたことである。
たとえば、召喚獣が見たものをそのまま術者も知ることができる、なんてシステムになっていたら、忍び込むのは困難を極めただろう。
とりあえず、一般人から聞き出せる情報は、こんなものだろう。
歩き回ったり聞き込みしたりしていると、すっかり辺りが暗くなってきた。
もう夕方だ。
ここ最近はすっきりしない天気が続いていて、今日も相変わらずの曇り空だ。
この寒さだと、今夜はまた雪が降るかもしれない。
だいぶ遠目になるが、代官屋敷を上から覗けそうな高い建物をチェックしつつ、一旦宿に戻ることにした。
上から代官屋敷を覗くのであれば、夜の行動が望ましい。
しかしこの格好のままでは動けない。
一度宿に戻って変装しなければ。
服装をなんとかして、女装はいらないだろう。そもそも女装の準備もしてないし。荷物に持ってきてないし。
となると「マスク型メガネ」で頭を覆い隠すのが得策か。
夜、軍人に見つかったら、問答無用で捕まりそうだし。素顔のままで動くのはまずいだろう。
――なんてことを考えて粉雪亭に戻る、と。
「伝言だ」
建物に入ろうとドアに手を伸ばしたところで、いきなり誰かに背後を取られた。
予想もしない、どころか、気配さえ感じなかった。
というか今も感じない。
本当に誰かいるのかどうか、疑いたくなるほどに。
凍り付く俺に、背後の人物は囁く。
「このままヨルゴの部屋まで行け。振り返るな、そのまま進むんだ」
声を聞く限りでは、そこそこ歳のいった男性のようだが……
…………
「もしかして監視の人?」
「話は後だ。早く行け」
よかった。
一緒にヨルゴ教官の部屋に行くなら、この人は味方……というか、暗殺者側の人だろう。




