292.それぞれの今 4
「――こちらへ」
娼館街へ来い、という手紙を受け取ったものの、実際は娼館街に入る前に声を掛けられた。
ここで働いている女だろうか。
同性であるハイドラでも強烈な色気を感じる、冬場には寒そうな薄着の女であった。
――ちなみに元、である。しっかり金を稼いで引退して、今は小さい頃から持っていた「店をやりたい」という夢を叶え、飲食店の経営者となっている。
挨拶も確認も飛ばしている辺り、ずっと待っていたのか、それとも何人か同じ役目を担って持ち回りで見張っているだけなのか。
確認はしないものの、どれほど自分の情報が出回っているかは気になるところだ。
何にせよ、娼館街への表向きの出入り口は少ないので、見張ったところでさほど手間もないのだろう。
「中じゃないの?」
「中は密談には向かない場所だから」
娼館街の入り口で捕まったハイドラは、娼館街とは違う方向に案内される。
そして行った先は――屋根もない広場に設置された焼肉屋だった。
まだ朝も早い時間である。
準備中らしく、小間使いの小僧が数名、せっせと掃除をしたり、網を磨いたりしている。
――なるほど、と頷く。
こう開けた場所なら、返って「密談している体」には見えづらい。
というか、ただ会って飯を食って話をしている、としか見えないだろう。
「朝食は?」
「軽く食べたけれど」
「なら少し食べていくといいわ」
どうやらここで少し待て、ということらしい。
「――あら」
一席だけ用意してもらった椅子に座り、運ばれてきた肉を、せっかくなので適当に焼いて食べてみる。
おいしい。
思わず声が漏れるほど、おいしい。
こういう、自分で目の前で焼いてすぐ食べる、という食べ方は初めてだったが、なかなか良い。
クロズハイトに来てから、そしてブラインの塔でも食べ慣れている、壊王馬と魔豚の肉だ。
食べやすいように、そして焼きやすいようにカットされ、皿に広げてある。
壊王馬の脂の少ない赤身肉は、店独自のものであろう香草塩と非常に合っている。
魔豚もいい。
馬肉があっさりしている分、こちらは少し脂が強い。
熱せられて脂が溶け、火に落ちてじゅうじゅうと産声を上げて立ちのぼる香しい匂いが、さして空腹でもなかったハイドラの腹の虫を刺激する。
塔にいる料理人ベルジュの手の込んだ料理もかなりおいしいが、シンプルなこれも、これはこれでいいものだ。
「――どうぞ」
小間使いの小僧が、お茶で割った酒を持ってきた。
質の悪いガラス製のジョッキには、表面には汗が浮いている。
見るからに冷たい飲み物だ。
目の前と体内は燃えてきているが、身体は寒い外気に触れている。
こんな状況で冷たい飲み物など……
とは思うが、運ばれてきたのだから仕方ない。
どうせ誰かのオゴリだろうし、文句を言うのも憚られるし、手伝いでしかない小僧に文句を言うのも大人げない。
「ありがとう」と受け取り、口もつけずに残すのは失礼かと思い、とりあえず舐めてみる。
「……うん」
一口だけ、と思っていたのに。
ごくごくいってしまった。
口をつけた瞬間、乾いた喉にようやく入った水のごとく、するすると体内に入っていってしまった。
まるで熱い身体を冷ますかのように、ジョッキの半分は一口で飲んでしまった。
酒精は薄い。
だが柑橘系の香りと苦み、割ったお茶の渋みにほのかな甘さ、そして少しの酸味がとてもいい。
酒、と呼ぶには、口の中の脂を落とすような、すっきりした味だ。
相性が素晴らしいの一言である。
きっと焼肉用に作ったドリンクなのだろう。
肉がこの酒を、この酒が肉を求めている。
このコンビの愛称は、さながら誰もが知る世紀の大盗賊ルシェンと、その相棒ダルガリアンのようだ。
「――待たせたな。酒と肉をくれ!」
肉は二皿目。
趣向を変えて「変わった肉とかある?」と聞いた結果出てきたタレに付け込んだ肉と、色形に違和感しかない内臓系。
酒は三杯目。
酒精のおかげか、それとも体内に入れた肉が冷たい飲み物に負けじと燃えているおかげか、身体が冷えない。
そんな一人焼肉をのんびり楽しんでいると、ようやく待ち人が来た。
まだ店が始まっている時間ではないのだが、お構いなしに向かいの椅子に座り、注文を飛ばす豪気な女性。その後ろには大男が立ち控えている。
「お久しぶりです。セヴィアローさん」
「ああ。急に呼び出して悪かったな」
ハイドラが、娼館街の支配者アディーロの娘と会うのは、これが二回目である。
「お、なかなか渋いの食ってるな」
「内臓系らしいですね。あまり食べたことがないのですが、なかなかおいしい」
前にベルジュがスープ系に入れていた、何度噛んでもぐにぐにして噛み切れない、でもそれが嫌にならない弾力性の強い肉である。
野菜とも肉とも違う変わったアクセントが面白かった。
煮てもおいしかったが、こうして焼くとまた印象が違う味わいがある。
「よかったらどうぞ」と勧めたら、「じゃあ遠慮なく」とセヴィアローはまだ焼いていない肉を次々網に乗せ出した。二人の間に昇る煙が境界線のようだ。
「こちらから話すことはあまりない。うちの支配人がそっちの状況を聞きたいらしくてな」
確認。
ハイドラは、あの仕事の現状を思い出す。
「――十三点の内、七点は回収が済んでいます。残り六の内、二点は持ち主か、あるいはそこにある可能性の高い場所がわかっていますね。
あとの四点は情報なしです。
というか、恐らくもう、クロズハイトにはない可能性が高いですね」
「ほう。すごいな。半分以上は取り戻したのか」
「全部集めていたらすごいですね。私としては、まだまだ平凡な結果と言わざるを得ません」
本人的には満足できる結果とは言えない。
塔での生活もあるので、調査と回収に使える時間が限られているのも大きいだろう。
時間さえあれば、という念は拭えないが、人間誰しも事情があるものである。
言い訳していても仕方ない。
その時やるべきこととやれることを、精一杯やる。
それだけだ。
「理想が高いな」
「親があれですから」
「フッ。お互い親が立派だと苦労するな」
苦労の種類はかなり違うだろうが、確かに立場的にはハイドラとセヴィアローは同じようなものである。
「持って行きます?」
「持ってきているのか?」
――大事な物は肌身離さない主義なので、とは心の中で言う。
襲われる可能性が出るだけの余計な個人情報だ。
ここで漏らす理由のないものだから。
ハイドラはポケットから小さな革袋を三つ出し、頭に叩き込んだリストを諳んじる。
「カボット作、紅龍石の指輪と緑龍石の指輪二点。
トーチ・ブレーメン作、血赤石のペンダント一点。
タツナミ作、白銀と魔銀のペーパーナイフ一点。
それから作者不明の三点、白色水晶と金縁のブローチ一点、妖精の化石の原石一点、魔王の爪一点。
以上の七点となります」
全てが貴重品だけに一つずつ小分けしてある。
小さな革袋の中に、更に小さな革袋を詰めてある。こうすると、激しく揺らしても、堅いもの同士でぶつかり傷つくことはない。
本当はもっとちゃんと保存したいのだが。
宝石――いわゆるお宝を雑に扱うことに抵抗は強いが、ハイドラは、今回ばかりは仕方ないと諦めている。
ちゃんとすると、持ち運びに難が出るほどかさばるから。
「どれ」
小僧が肉と酒を持ってきたのを見送ってから、セヴィアローは革袋の中身を確認する。
「……確かに七点だな。私は目利きができないからわからないが、誤魔化す理由もないよな」
「ええ。もし違う物であるなら、こちらで引き取りますのでご安心を」
初動も遅かったので、取り返すのは難しいだろう。
だから、もしできなくても文句は言わない。
できなくて元々、ダメで元々、という発端からの契約である。
そして報酬は、基本契約料と歩合制。
一つでも回収できたら、向こうとしても損はないというものだ。
「違っても返さないだろうな、あの支配人は」
セヴィアローは笑いながら革袋を放り投げ、後ろの大男に渡した。――直接確かめたわけではないが、彼は目利きができることをハイドラは知っている。現に今、中を確認している。
確認されたところで痛くもかゆくもないので、まったく構わないが。




