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水底呼声  作者: 宣芳まゆり
第2章 決意
26/227

2-10

洞くつの中に,すっと手を伸ばす.

みゆの手はすり抜けたが,少年二人の手は見えざる壁にはばまれた.

存在するはずの壁が,みゆにのみ存在しない.

その理由は……,

「ミユちゃんが異世界の人だからだよ.」

硬い声で,ウィルが説明した.

「この世界のことわりが,君にだけ通用しないんだ.」

みゆは自分の手をじっと見る.

自分が異邦人であることが,こんな風に証明されるとは思っていなかった.

洞くつを抜けると神聖公国である.

洞くつに入ることができるのは,異世界の人間のみゆだけである.

つまりみゆだけならば,簡単に神聖公国へ行けるのだ.

何も言えずに,みゆは押し黙る.

このような事態は,まったく想定していなかった.

スミはうかがうように,みゆとウィルの顔を交互に見ている.

少し離れた場所では,大きな木に縄で縛りつけられた追っ手の男たちが,かすかにうめき声を上げていた.

彼らにも予想外だっただろう,みゆが洞くつの中に入ったのは.

「ウィル,」

考えがまとまらないまま,少年に呼びかける.

「駄目だよ.」

黒の少年は,苦しそうに顔をゆがめていた.

「僕から離れないで.」

この手の届かない場所に行かないで,と.

行かない,と言葉がのどまでせり上がった.

少年の顔は日に焼けて健康そうなのに,黒の瞳には闇が宿っている.

みゆがほんの少しでも離れるそぶりを見せたなら,狂気に陥りそうな危うさがある.

けれど,

「何を言っているのですか,先輩!?」

二人の間に割りこむようにして,スミが口をはさむ.

「神聖公国へ行けるのですよ.この方法しかありません!」

スミのせりふが,みゆの胸に深く突き刺さった.

――神聖公国へは行けません.あの山は越えられないのです.

スミは去年,山を越えられなかった.

何か月もの間,森の中をさまよい歩いたと言ったではないか!

「スミ君,」

ウィルの腕をぎゅっとつかんで,みゆはスミの方を向いた.

「ウィルと二人で話すから.」

ウィルの身体の震えが,恐怖が伝わる.

「え!? でも,」

反論しかけて,スミは口を閉ざした.

こげ茶色の瞳に,苦渋が満ちる.

「先輩,」

何かを覚悟した顔で,スミは言った.

「ばかなことは考えないでくださいね.」

ウィルの顔をにらみつけると,スミは森の奥へ走り去る.

スミの背中を見送った後で,みゆはウィルと顔を合わせた.

「行くの,ミユちゃん?」

ゆがんだ顔で問いかける.

この顔は,王城でも見た.

――明日で,お別れね.

ささやいて,別れの口づけを交わした.

あのとき少年は,日に焼けていない白い肌をしていた.

今はだいぶ黒くなっている,国境への旅路で.

少年が城から飛び出して日焼けをしたのは,みゆのためだ.

震える指がみゆのほおをなぞり,首筋まで降りてくる.

「行かせない,」

ゆらゆらと揺れる瞳,水面に映る月の影のように頼りない.

「離さない,けっして!」

のどがぐっと締めつけられた.

なのに,抵抗する気が起きない.

両手をだらんと下げて,みゆは恋人に身を任せた.

視界が暗くなっていく.

手の先から,足の先から力が抜けていく.

冷静に体の変化を感じながら,心がただ悲しんでいた.

少年の顔があまりにもつらそうで,それ以外のことはどうでもいい.

自分の生死さえも――.

あぁ,好きなのだ.

いまわのときに,ウィルのことしか考えられないほどに.

――ミユ!

土の洞くつに,それ以上にみゆの心に響いた声.

あんな声を出させて,ごめんね.

泣き出しそうな顔で,みゆの生命を絶つ少年.

こんな顔をさせて,ごめんね.

私はどれだけ,あなたの救いになった?

真っ暗闇に,意識が落ちた瞬間,

「ウィ,」

ごほっごほっとむせ返り,肺が急速に空気を取り入れる.

「……ル?」

地面に両手をつきながら,みゆは自分を殺そうとした少年の顔を見上げた.

ウィルはぼう然と立ち尽くて,みゆを見下ろしている.

闇の瞳,人の心を持たない黒の人形.

感情が吹き荒れて,からっぽになってしまった.

みゆは口もとのよだれを手の甲でぬぐって,しゃんと正座をする.

心臓の鼓動がまだ速かったが,無理やりに息を整える.

落ちていた眼鏡を拾い,しっかりと少年と目を合わせた.

「殺してもいいよ.」

本当に,心からそう思う.

また少しせきこんだが,みゆは目をそらさずにしゃべった.

「ウィルなら,何をしてもいい.」

この命は,ウィルのものだから.

ウィルがいなければ,王城で殺されていただろう.

そして,こんな国境付近まで来られなかった.

「できない,」

少年は,ひざから崩れ落ちる.

「君だけは…….」

力なくうなだれる少年に,みゆは手を伸ばして抱きしめた.

いとしさが,胸の奥からこみ上げる.

けれど,――いや,だからこそ,

「私,行くね.」

少年の体が,びくりと震えた.

ずっと一緒に,二人でいるために,

「この王国を守りに行く.」

水没などさせない.

私が守ってみせる.

姉が命がけで,私を守ったように.

「必ずウィルのところへ帰ってくるから,」

あなたの未来を守りたい.

「待っていて.」

「嫌だよ.」

のぞきこんだ少年の顔は,涙でぬれていた.

「そばにいてよ,離れないでよ.」

ろうばいして,すがりついてくる.

「そんなに神聖公国へ行くことが大事なの,僕よりも!?」

みゆは首を振って,少年の言葉を否定する.

「私はウィルが一番大事.四年後もそれからもずっと,あなたと一緒にいるために行くの.」

一瞬,今よりも男らしく成長した少年の姿が見えた.

「四年後のことなんて,」

考えられないとつぶやく少年のほおに,そっと口づけを贈る.

誰よりも優しく,少年に触れていたい.

「ひきょうだ,」

黒の瞳から,透明なしずくがぽろぽろとこぼれ落ちる.

「僕は君に従うことしかできない.」

子どものように泣き出してしまった少年を,みゆはただ抱きしめ続けた.

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