307、モモ、目移りする~全力で楽しんだ時ほど、いい思い出になるよね~中編
桃子の鼻先にもその甘い香りは届く。
「すんごく美味しそうな匂い。これはバニラかな?」
「あちらの露店でお菓子を売っているようですよ、モモ様」
「買ってみるかい?」
「うんっ! 他に食べる人はいる?」
ジャックさんに桃子は弾むように返事をして、右手をちょこっとあげながら皆に聞いてみる。すると、ひょこっひょこと四つの手があがった。カイとジャックとリジーにバル様だ。学校の先生になったみたい。はい、この問題がわかる人―? って、授業中に先生がよく言ってたもんね。
「ここはオレの出番ですね。先にまとめて買っちゃうんで、代金はそれぞれ後払いってことでいいっすかね?」
「構わない」
「私もそれでいいよ」
「ぞろぞろ並ぶよりも、その方が早いからね」
「じゃあ、そういうことで。──よしっ、モモちゃん、値切るぞ!」
「はい、ジャック師匠!」
ジャックさんが目を悪戯っ子のように煌めかせて、手を伸ばしてくれるので、桃子は右手を伸ばす。しかし、抱っこの移動がちっとも始まらない。不思議に思いながらバル様を見上げると、無言で視線を落とされる。そこで気づいた。左手がしっかりとバル様の胸元を握りしめていたのだ。
「ごめんねっ、間違えちゃった」
慌てて左手を放すと、バル様にそっとその手を握り込まれる。桃子の小さな手は大きな手にすっぽりと隠れてしまう。さっきは寂しん坊が顔を出しちゃったけど、もう大丈夫だよ? ちょっと離れるだけだもんね。
「えっと、バル様もジャックさんの値切り技に興味あるの?」
「そうだな」
冗談のつもりで聞いたら、予想とは正反対の返事が返ってきた! けれど、桃子の左手を握るバル様は一切の表情を消している。これはもしや、五歳児の本能に保護者様のレーダーが反応しちゃった? それとも本気で興味が出たのかな? バル様の綺麗な瞳は凪いでおり、穏やかにゆっくりと瞬くばかりだ。ちっともわかんない! バル様、どっちなの!?
「旦那は表情があまり変わらないから、値切りをするのに向いてそうですね。それじゃあ、さっそく行ってみましょうか!」
バル様が興味を向けてくれたのが嬉しかったのか、ジャックさんがやる気満々で先頭をずんずんと歩き出す。桃子はバル様に抱っこされたまま運ばれていく。楽チンだけど、空中浮遊ばっかりしてると、足が歩くことを忘れちゃいそうだねぇ。
可愛いワッフルの看板をつけた屋台を出していたのはお姉さんだった。この人、どこかで会った気がするよ?
「いらっしゃいまっせー」
「はっ!?」
「ケーキ屋さんのお姉さん!」
ジャックさんがなぜかぎょっとしてるけど、三つ編みに見事なお胸のお姉さんの特徴的な挨拶に桃子はその正体を思い出す。待ち合わせ場所にしていたケーキ屋さんでウェイトレスをしていた人のはずだ。桃子がわかったように、お姉さんも桃子の顔を覚えていたようだった。
「誰かと思えば、ジャック君に、あの時の小さなお客さんじゃないですかー。これまた美形過ぎるお兄さんと一緒とは、将来有望の小悪魔ちゃんですねー」
「小悪魔!?」
笑顔でとんでもないことを言われた桃子は、ぽかんとしてしまう。しかし、バル様にはそのニュアンスが伝わらなかったようだ。
「……モモは人間だが?」
「あっはっ、お兄さん、美形なのに天然さんですかー。でも、あなたの超綺麗な顔もどぉっかで見た気がしますねー。あ、これは口説いてるわけじゃないですよ? もしかして、やんごとない貴族の箱入り子息様ですかー?」
「当たってるような、当たってないような……じゃなくて、クエンさん? ここってクエンさんの店なんですか!?」
「そうでっすー。春祭りはがっつり稼ぎ時ですから、お店はお休みしてこっちをメインにしたんです。おかげさまで儲けさせていただいてますよー」
親しげなやりとりを見て、桃子はぱちりと瞬きながら首を傾げる。
「仲良しだねぇ?」
「店員としてはお客さんの心を掴んでなんぼですからねー。ジャック君は甘いの好きな人なんで、よく裏口からこっそりお菓子を買い求めてくるんですよー。ほら、表側から入ると女性のお客さんが多いじゃないですか、だからって感じですかねー? お得意様ですし、仲良しですよ」
「違うんだモモちゃん、聞いてくれ。オレとクエンさんとは親しくさせてもらっているけど、それはけして不純な感情からじゃないから! オレはレリーナさん一筋の男!」
「う、うん、疑ってないよ?」
ジャックさんが真剣な顔でずずいっと迫ってくる。桃子は思わず身を引いてバル様にしがみついてしまった。びっくりするくらい熱い訴えだねぇ。レリーナさんが相手だと恥ずかしがり屋さんが顔を出しちゃうジャックさんだから、疑う気なんてまったくなかった。
「ジャック」
「あっ、つい。すんません」
バル様に名前を呼ばれたジャックさんは慌てて距離を戻す。クエンさんは笑いながら網に乗せたワッフルをひっくり返していた。
「味の保証はしますからモフッと三個くらい買ってくれませんかねー? 一個につき銅貨三枚なんでとってもお得なんですよー?」
「それじゃあ、五個下さい!」
ゆるいアピールを受けて、桃子はびしっと右手をパーにしてみせた。もともと買うつもりだったからねぇ。お姉さんは目を丸くして驚くと、嬉々とした表情でトングをかちかちさせる。喜びを表現してるつもりなの? お茶目なお姉さんだねぇ。
「おっ買い上げですかー、嬉しいです! そんなに買ってくれるんでしたら、ちょっとおまけしちゃいますよー。このコロコロドーナツをお二つどうぞー」
「ありがとう、クエンさん!」
クエン酸と同じだから、ばっちり覚えたよ! 桃子は自信を持ってお姉さんの名前を呼んだ。カタカナの名前は覚えにくいからね、すぐに覚えられる名前はいい名前。クエンさんはジャックさんがお金を渡すとお菓子を紙袋に入れて、桃子に差し出してくれた。
「ありがとうございまぁーす! ジャックくん、モモさん、お兄さん、またお店にもお越しくださいねー」
「うん! またねー」
紙袋を膝の上で大事に抱えると、桃子はクエンさんに小さく手を振ってバル様によって再び運ばれていく。揺れの少ない丁寧な移動です! もし、バル様が車の運転をしたらすんごく上手そう。




