ジーク〜青の共鳴〜(2)
リディアが気がついたとき、そこはどこかの貴族の館の庭だった。ジークの姿はない。
(アルステッド邸、ではないわよね。ここは……? ジークはどこに……)
静かな風が草木を揺らす。リディアはゆっくりと歩き出す。
ふと視線の先の木陰に小さな影が揺れた。
一人の少年が大きな本を覗き込んで座っていた。
黒髪、淡い青目。年齢は10歳くらいか。幼いながらも整った容姿、だがその瞳は氷のような冷たさがあった。
(もしかして……、幼い頃のジーク?)
だが、近寄って声をかけようとしても自身の声は音にならず空中に溶けていった。歩いても足元に靴音は響かず、周りの草木に触れようとしても何も感じられない。
(……私、幽霊にでもなっちゃった?)
と、背後から声が聞こえた。目の前のジークと同じくらいの年ごろの貴族の令息令嬢だろうか。ひそひそと囁き合う幻影が見えた。
『あの子でしょう? 国一の魔力を持つって子……』
『いつも何考えてるかわかんないよね。自分は特別って思ってるんじゃないの?』
『近づかない方がいい。何されるかわからないよ』
小さなジークは無表情のまま背筋を伸ばし、本の文字を追っていた。
その姿が痛いほど、胸に刺さった。
(圧倒的な魔力に選ばれた代償。それが孤独。誰にも触れられず、誰も触れようとしない。そんな日々を、この人はどれほどの時間、一人で耐えてきたのだろう)
リディアは思わず唇を噛んだ。
真っ直ぐに幼いジークを見つめ、歩み寄る。足音のない世界で、自身の心臓の鼓動だけが響く。
彼の前で立ち止まると、俯いている彼にそっと手を伸ばした。
指先がその頬に触れてもすり抜けていく。それでも彼女はそのまま彼を抱きしめた。
「ジーク様……あなたの魔力は、寂しがり屋なんですね」
ぽつりとこぼれた言葉は、空間に波紋を広げた。
少年の幻が微かに揺らぎ、初めてその瞳がリディアを見上げる。
そこに宿るのは、涙でも怒りでもない。あるのは氷のような静けさ。その奥にひたむきな寂しさが見えた。
「大丈夫。もう、あなたを一人にしませんから」
その言葉と共に、周囲は柔らかい光に溶け始めた。庭の木々も、囁き合う子どもたちの幻影も消え、次第に腕の中の幼いジークの姿も淡い光となっていく。
その光は花びらのように舞い、リディアの胸の奥へと吸い込まれていった。
温かさと安らぎ。
まるで長い冬の終わりに差し込む陽光のようだった。
***
一方その頃、ジークもまた、別の場所で目を覚ましていた。
空も地も存在せず、ただ圧倒的な魔力が渦巻く場所。
(リディ……どこにいる……?)
彼女を見つけようと魔力探知を試みる。が、周囲には自分とリディアの魔力が混ざり合い、溢れかえっていた。言うなれば、そこら中に彼女の魔力がある状態。
焦燥が胸を焼いた。
そのとき、目の前に現れた小さな影。
薄青の氷のような瞳で虚空を見つめる少年——かつての自身の姿があった。
その瞳が静かに問いかける。
『……近づくから失うんだよ』
それは頭の中に直接響いてくるような自身の声。
『今まで通り、人と深く交わらず、ただ魔術に向き合えばいい。これまでもそうして来たのだから』
胸の奥が軋んだ。
(確かに、これまでの私はそうだった……。でも私は知ってしまったんだ。リディの優しさも温かさを。それを手放すことなど……)
その思考に呼応するように目の前の自分がさらに問う。
『人と関わるから感情が生まれる。感情は暴走を生む。今回も、そうなんだろう?』
(私は……リディを守りたかった。しかし怒りと恐れで魔力は暴走した。彼女を守るはずの力で、彼女を傷つけてしまったのか……?)
なぜ、自分にこの力があるのか。何よりも愛する者さえ、壊してしまうのかもしれないのに——
すべてが、重苦しい沈黙に飲み込まれていく。
その時だった。
「大丈夫。もう、あなたを一人にしませんから」
静かに、けれど確かな響きで、声が届いた。
闇を割くような温かく、柔らかい声。
(この声……)
振り返るより早く光が射した。
少年の姿も、孤独の影も、すべてが光に溶けていく。
現れたのはただ一つの輪郭。
ストロベリーブロンドの髪が揺れていた。その瞳には恐れも、迷いもない。彼女はただ優しく彼を見ていた。
「リディ……!」
ジークは彼女へ手を伸ばした。
二人が触れ合った瞬間、光が爆ぜ、周囲に円環状の魔力が広がった。
蒼と薄紅が混ざり合い、ゆっくりと世界を満たしていく。
リディアの頬にジークが手を添えた。彼女の温もりを感じると、ほっとしたような顔をする。そして目を伏せた。
「すまない……。私のせいで、君を巻き込むことになってしまって……」
その言葉にリディアは首を振った。頬に触れるジークの手に自身の手を重ねてゆっくりと答える。
「あなたの魔力は、私を守ろうとしていただけ。なら、今度は私が包み込みます。あなたの孤独も寂しさも、全部」
その言葉にジークは目を丸くした。そしてふっと表情を崩した。
「本当に君にはかなわないな。……ありがとう」
その声はかすかに震えていた。
二人の顔がゆっくりと近づく。
その唇が重なった瞬間——二人の魔力が静かに脈打ち、やがて溶け合っていった。しかし今までのように増幅し、溢れることはない。ジークの強大で研ぎ澄まされた魔力の傍らに、リディアの柔らかな魔力がそっと寄り添っている。
そして二人の姿は光に包まれた。
現実の世界。
魔術師塔を包んでいた渦が、静かに消えていく。
暴風が止み、いつもの澄み切った蒼天が広がった。
眩い光の中から、二つの影がゆっくりと降り立った。それを見たアルステッド侯爵が駆け寄り、娘を優しく抱きしめる。
「……戻ったか。まったく、お前たちは……」
侯爵が安堵のため息をついた。
だがリディアは疲労ですぐに眠りにつき、ジークもまた魔力の揺り返しに膝をつく。
「今日は医務室で様子を見てもらおう。君もだ、ジーク卿」
自身を気遣う侯爵の言葉に、ジークは小さく頷いた。
***
その夜。
静まり返った医務室のベッドで、ジークはゆっくりと目を開けた。
窓の外は満月。白銀の光が静かに流れている。
ふと、自身の魔力の波を探る。
そこに確かに、リディアの波長が溶け込んでいた。
同じ呼吸のように、同じ鼓動のように、二人の魔力が共鳴している。優しく穏やかなその魔力は暴走する気配など微塵もない。
静かに立ち上がり、外へ出た。
月光の下、庭園のベンチに腰を下ろす。
風が柔らかく髪を揺らした。
「ジーク様……?」
振り向くと、リディアが庭園に続く回廊から顔をのぞかせていた。
まだ頬は少し赤く、夢の余韻を残している。
「体調は大丈夫なのですか?」
そう尋ねる彼女に目を細めて返す。
「問題ない。君は?」
「私も……特には。少し眠いくらいで」
並んでベンチに座った二人。
月明かりが照らす中、静かな夜が流れる。
「私の魔力と君の魔力が、完全に溶け合ったようだ」
ジークは月を見上げたまま、穏やかに言った。
「私の魔力は……君を探すために生まれたのかもしれないな」
月が雲に隠れ、あたりがふっと暗くなる。
その薄闇の中で、ジークの笑みがわずかに妖しく揺れた。
「だから——もう君がどこにいようと、すぐにわかるから。覚悟、しておいてね」
リディアはぱちりと瞬き、ふわっと無邪気に笑った。
「ふふっ。だったら私、どこにいても迷子になりませんね。ジーク様が見つけてくださるから」
その返答に、ジークは少し拍子抜けしたように目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
彼女の髪を撫でながら、囁く。
「見つけるよ。どこにいても。君は私の全てだから」
リディアはゆっくりとその肩にもたれた。二人の間に流れる穏やかな時間。触れ合っているところから温かい何かが広がり、身体中を優しく巡る。
月が再び顔を出し、銀色の光が二人を包んだ。ふと、リディアの重みが増した。目をやると彼女は小さな寝息を立て始めていた。
ジークはその寝顔を見つめながら、一つ息を吐くと呟いた。
「もう少し、私の執着に怯えてもよかったんじゃないかな……」
魔力探知、波長解析——
それらは本来、“圧”だ。“束縛”と言ってもいいだろう。
だが彼女はそれを、まるで“迷子札”のように笑って受け入れた。
自分を縛るものではなく、“見つけてくれる証”だと。
「……これだから、君には一生、敵わない」
風が柔らかく吹き抜ける。
リディアの寝顔が、いっそう幸福そうに見えた。
空には、青い薔薇を思わせる淡い光が、静かに咲いていた。
このエピソードをもって、『転生悪役令嬢は縛りプレイで破滅エンドを回避する』を完結といたします。
攻略対象全員とのエンディングを書けて、とても満足しています。リディアの奮闘と恋愛をここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
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