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ルシアン〜2人だけの物語〜(2)

 舞台初日。

 主演はルシアン・クレイ。そしてその相手役、カリナ・ノワール。


 王立劇場は華やかな花束と歓声の波に包まれていた。煌びやかなライト、緞帳の奥に広がる夢のような世界。リディアはその客席の隅に、ひっそりと座っていた。


 誰にも知らせず、そっとチケットを手配し、装いも控えめにして。


(……今日はただ彼の舞台を見に来ただけ。彼が舞台に立つ姿だけは、やっぱりこの目でみたい)


 舞台が始まると、すぐに世界が変わった。

 ルシアンが現れた瞬間、場内の空気が一変する。貴族の青年を演じる彼は、たった一歩で人々の視線を惹きつけ、その存在感で物語を支配した。


 恋の苦しみ、すれ違いの悲しさ、それでもやがて強い意志で愛を選ぶ彼——


 その場にいる観客が皆、彼に恋をしたかのような熱が劇場に漂っていた。相手役のカリナの演技に応えるように、彼の台詞にはかつてない切なさが宿っている。


 思わず手が胸元をぎゅっと掴んだ。

 気がつけば、頬に一筋の涙が流れていた。


 これは“役”だ。

 舞台の中の恋だ。

 でも、それでも。


 そのセリフの一つひとつが、まるで自分に向けられているかのように胸に響く。


(すごい……ルシアン。やっぱり、あなたはすごい俳優だよ)


 独白の場面。ルシアンの視線がふっと客席に向く。

 そして目があった……気がした。


(え……、気づいた?)


 リディアは胸を押さえた。


(今日来ることも、座席も何も伝えていないのに)

 

 彼の演技は、以前よりもずっと深く、ずっと優しく、ずっと……切ない。

 舞台の上の恋人役に向ける眼差しの、その奥に——

 誰よりも自分を見つめていてくれる、そう思えた。



 幕が下りる。カーテンコール。鳴り止まない拍手。

 役者たちか舞台に並ぶとさらにそれは大きくなった、が、突如として記者の声に遮られた。


「ルシアン様、今回の舞台では演技に非常に深みが増したお見受けします! やはり恋人役のカリナ・ノワール嬢の影響ですか?」


 場の空気が一瞬凍りついたようになった。

 記者の質問にルシアンがそれに答えようと口を開いたその瞬間——


 隣に立つカリナが妖艶な笑みを浮かべながら、その場を奪うように答えた。


「彼が誰かを本気で想ってるのは本当。でも、私じゃないわよ」


 会場がどよめく。

 それでもカリナは笑っていた。堂々と、朗らかに。


「私は、最初の頃からずっとアプローチしてたの。でも彼ったら『大切な人がいるから』って、全然なびかないのよ。……今回の舞台でも、あの愛のセリフ、全部どこか遠くを見ていたわ。まるで私を通り越して“誰か”を、見ているみたいだった」


 客席にざわめきの波が広がっていく。


 その時、1人の記者がリディアの存在に気づいた。


「アルステッド侯爵令嬢ですよね? 今のカリナ様の発言に関して、何かありますか?」


 そこから波紋が広がるように次々と好奇の視線が向けられる。


「スポンサーとして彼のプライベートにも干渉している、という話は本当ですか?」

「ルシアン様との噂に関して何かコメントを!」


 リディアは咄嗟に立ち上がったが、動けなかった。まるで夢の中にいるように、足が凍りつく。

 ざわめきの波が、彼女を飲み込もうとした、その瞬間——


「やめてくれ」


 静かに、けれど明確に。


 ルシアンの声が、空間を断ち切った。


 彼は舞台の上から、迷いなく降りてきて、リディアを記者や他の視線から守るように彼女の前に立った。


「彼女に質問をぶつけるなら、僕が答えるよ」


 その声に、一瞬で会場が静まり返る。


 ルシアンはリディアの肩にそっと手を置いた。

 そして、大きく息を吸ってはっきりと言った。


「彼女は……僕の帰る場所です」


 その声はどんな舞台よりも鮮やかに劇場内に響いた。


「彼女がいるから、僕は僕でいられる。舞台で生きられるのも、彼女が支えてくれているからです」


 彼の言葉にリディアの瞳が潤みだした。


「だから、どうか——僕たちの関係を、演目の一部として扱わないでほしい。これは……本当の物語だから」


 しばらくの沈黙。しかしその直後、どこからか拍手がわき、やがて場内全体が温かな歓声に包まれた。


「お似合いだわ!」


「彼が舞台でくれた感動を思い出せば、彼女を祝福したくなるわね」


「ルシアン様にも、幸せになってほしいわ!」


 リディアは知らなかった。

 どれだけの人々が、ルシアンからどれほどの愛情を受け取り、そして彼の幸せを願っていたかを。


 ルシアンは静かに彼女を見つめ、手を引いた。


「さあ、行こう」


***


 その後、リディアはルシアンの楽屋にいた。


 リディアを強く抱きしめたルシアンは頬を彼女の肩に埋めて深く息を吐いた。


「……今回はもうダメかと思った」


 震える声がぽつりとこぼれる。


「君に会えない日々、稽古をこなしてはいたけれど、心の半分はずっと欠けていた。手紙が届かない日は、すごく……怖かった」


「……ごめんなさい。私のほうこそ……」


 リディアはそっと彼の背に腕を回す。

 彼の香水と、ほんのりと汗の香り。それが妙に心地よくて、鼓動が早まる。



 その時、楽屋のドアがノックされた。

 慌ててルシアンから身を離したリディア。でもルシアンはその腰を抱いたまま離さない。


 顔を出したのは、カリナだった。


「わあ、彼女に会えた。ふふ、ようやくね」


 カリナは見惚れるような笑顔を浮かべながらリディアを見て言った。


「さっき、記者に言ったことは本当よ。……この人、私のこと全っ然興味ないの。稽古の間もずーっと“リディ”の話ばかり。……流石にちょっと妬けたし、割り込む気すら起きなくなったわ」


 ルシアンの目が見開かれる。カリナの言葉にリディアは思わず頭を下げた。


「えっと……す、すみません」


「ふふっ、謝らないで。私があの場でああ言ったのは、意地悪でも売名でもないわ。……彼のおかげで私の演技も本物になれた。だからそのお返し。彼の大事な人に、彼の気持ちをちゃんと届けたかっただけ」


 そう言ってウインクを一つ残すと「お邪魔ものは消えるわね」と、カリナは去っていった。その後ろ姿は大女優の風格だった。


 ルシアンはぼそっと呟いた。


「……なんでそれ、本人に言うかなぁ……」


 ふとルシアンを見上げるリディア。手で覆っているものの、その隙間から除く顔は真っ赤になっている。舞台であんなに甘い言葉を澱みなく囁く彼が、ここでは1人の恋する青年になっている。その事実にリディアの心にふわりと笑いが戻った。


「ルシアン」


 リディアはそっと指を絡めるように手を取った。


「私……ずっと不安だったの。あなたの世界に、私は相応しくないんじゃないかって」


「そんなこと、絶対にない」


 ルシアンは力強く手を握り直すと、真っ直ぐ彼女を見た。


「リディ、君がいないと、僕は……舞台の上でも現実でも、自分を保てない」


 そして彼女の腰に回した手に力を込めて、再び胸の中に彼女を収めた。


「だから、ずっとそばにいてくれ。どこにも行かないで。君に会えないの、本当にきつかったから……」


 その声音には、仮面の欠片もなかった。

 ひとりの青年の、ただ恋しい人への、真実の声だった。


「……はい、行きません。どこにも」


 リディアが微笑むと、ルシアンは彼女を抱きしめた。強く、深く、でも優しく。


 ルシアンがそっとリディアの目を覗き込んだ。


「ねえ、リディ……今夜は帰したくない」


 その囁きはまるで舞台のラブシーンさながらで、リディアの心臓が跳ねた。


 あまりに甘すぎるセリフに、リディアが俯いて頬を赤らめると、ルシアンはその髪をそっとかき上げ、首筋に唇を落とした。


「ちょ、ルシアン……!」


「リディが可愛すぎるのが悪いんだよ。今、舞台で拍手喝采を浴びているときより、ずっと幸せ」


 ルシアンがいたずらっぽく笑い、唇を今度はリディアのこめかみに、頬に、まるで確認するように、何度も落としていく。


「ルシアン、落ち着いて……あの、誰か来たら……」


「来ても大丈夫だよ。“恋人たちの逢瀬”ってことにしよう。ほら、演目にもなりそうだし」


 リディアが吹き出すと、ルシアンの腕がさらに強く彼女を抱きしめた。


「大丈夫。君が僕の隣で笑ってくれたら、僕はもう、何にもいらない」


 その一言はどんな脚本にも書けない、彼の本心。


「私もあなたの隣にいると、すごく幸せよ。どんな役のあなたより……今のあなたが、一番好き」


「やばい……そんな可愛いこと言われたら……ほんとに我慢できなくなる…」


 ふたりの距離が再び近づき、唇が重なる。

 長く、深く、そして愛おしさに満ちた口づけ。



 舞台の幕はとっくに下りている。

 でも2人だけの物語は、今まさに——甘く、とろけるように、幕が上がったばかりだった。

読んでいただき、ありがとうございました。

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