ルシアン〜2人だけの物語〜(1)
リディア・アルステッドは今、幸せだった。
王立演劇場の若き看板俳優、ルシアン・クレイ。
学園を卒業し、想いが通じ合った彼と過ごす時間は、まるで物語のワンシーンのように、特別で、鮮やかで、愛おしかった。
舞台の合間に2人で甘味屋を訪れたり、手を繋いで街路樹の下を歩いたり。ふとした休日の時間に何でもない会話を交わすだけで、心が満たされていくのを感じた。
そしてリディアが彼の舞台を観劇することは、もはや日常の一部だった。
舞台の途中、ふと目線を上げた彼が客席にいる自分を見つけ、ほんの一瞬、口元を緩める。あの微笑みは誰にも見せない、彼だけの「リディアへの合図」。
舞台が終われば、彼の楽屋を訪ねるのが定番だった。優しい笑顔で彼を労うリディア。
「ルシアン、今日も素晴らしかったわ。特にあの、会えない恋人を思う独白のシーン、あそこで何人の観客がハンカチを濡らしたと思う?」
「ふふ、あのシーンはね……リディに会えない寂しさを、そのままセリフに込めたんだ。実感、こもっていただろう?」
「えっ! そうなの……?」
「そんな寂しい思いを乗り越えて稽古、頑張ったんだから。ご褒美、もらってもいい?」
そう軽やかに言った後、リディアを抱きしめて唇を重ねてくるルシアン。
それはまるで、舞台の余韻にとけるような儀式のようであり、2人の距離を確かめる静かな時間でもあった。
リディアが顔を見せない日は、ルシアンの機嫌が悪くなる、と舞台関係者の間で冗談めかして語られるほどに。
もちろん、彼は主演俳優として忙しい日々を過ごしているし、リディアも侯爵家令嬢としての責務に加え、自分の歩む道を模索し始めていた。
しかしどれほど忙しくても2人は手紙のやり取りを欠かすことはなかった。
ルシアンからの手紙にいつも添えられていたのは、“ハートローズ”で彼を表していたものとよく似たオレンジ色の薔薇。
彼の明るさをそのまま切り取ったような鮮やかなその色は、見るたびにリディアの心を明るくしてくれた。
ある日彼から届いた手紙には、こんなことが書かれていた。
⸻
親愛なるリディへ
舞台の稽古が佳境に入ってきて、思うように時間が取れなくなってきたけれど、それでも君の声が、笑顔が、僕の毎日を支えてくれているよ。
この前の舞台が終わったあとに君は言ってくれたよね。
「あのセリフ、まるで私に言ってるみたいだった」と。
……君に言っていたんだよ。
どんな拍手よりも、君の笑顔が、僕の原動力だから。
次に会えたときはたくさん君を抱きしめて、君の話を聞きたいよ。
舞台の上でも下でも、僕は君のものだから。
愛をこめて ルシアン
⸻
何度読み返しても頬がゆるみそうになる。彼の気遣いも、言葉の選び方も、すべてが優しくて、愛おしかった。
そんな柔らかな愛情に包まれ、幸せを感じながらも——不意に感じる不安。胸の奥のどこかに、小さな“とげ”のようなものが残り続けていた。
舞台上で見せる、堂々たる姿。ファンに囲まれ、称賛を浴びる彼。彼の存在はどこまでも“唯一”で“特別”だ。
(私は……彼の隣に立てる人間なんだろうか)
その問いに、はっきりした答えは出なかった。
そんなある日、侍女のアーニャがそっと一冊の雑誌を差し出してきた。
「……隠しておくのも、違うと思いまして」
それは、貴族社会のゴシップ誌。目立つ写真、煽情的な見出し、そんなよくある構成。
しかし、その一文を見た瞬間、リディアの心は凍りついた。
『華麗なる恋の主役は誰? 人気俳優ルシアン・クレイの傍らに立つのは——』
ページには、街角でルシアンと並んで歩く自分の姿が写っていた。
『スポンサー侯爵令嬢の“わがまま”に合わせる彼の姿が目撃される。その笑顔の裏にある本音とは?』
リディアは思わず唇を噛みしめた。
(わがまま……。そっか、世間からはそう見られちゃうんだね)
自分がルシアンの舞台のスポンサーとなっているのは事実だった。彼との交際も、公の場に出る以上、噂にならないはずがない。
けれど、それがルシアンの自由を奪っていたとしたら? 彼の舞台に影響を与えていたとしたら?
(私は、彼の傍にいていいのかな……)
喉の奥がきゅっと締めつけられる。自分の存在が、彼を縛る鎖になっているのではないか。
ルシアンはそれでも変わらず、甘い言葉を乗せた手紙をくれた。けれどリディアはそれに返す言葉も慎重になり、気がつけば文が短くなっていった。
***
それに追い打ちをかけたのが、新しい舞台の情報だった。
「ルシアン様の次の舞台は恋愛ものですって。しかも相手役は、カリナ・ノワールらしいわよ」
社交界の噂話はあっという間に広がって行く。その話を聞いた時、リディアの顔から表情が一瞬消えた。
カリナ・ノワール
若手女優の中で最も注目されている存在。情熱的な演技に加え、美貌と気品を兼ね備え、貴族層からの支持も高い。
彼女がルシアンと恋人役で共演すると知った社交界では“お似合い”という声がすぐに飛び交いはじめた。意地の悪い噂では「カリナがルシアンの本命なのではないか」と語られるほどに。
(カリナ様なら……ルシアンと同じ世界で、同じ目線で立てる。苦労も共有できる。私よりも……彼にふさわしいのかもしれない)
リディアの心はざわめいた。
「僕が一番大事なのは君だよ。それは変わらない。だから、何も心配しなくていい」
稽古と舞台の合間をぬった短い逢瀬で。
ルシアンはリディアの不安気な様子に気づいたようで、優しく目を細めた。
「君を好きなことと、舞台の演技は別だからね」
と言って、柔らかく誠実な声で優しくキスをくれた。
けれど――。
そう思おうとすればするほど、不安は膨らんでいく。
稽古が本格的に始まると、忙しさに追われ、手紙の頻度も減っていった。
(……大丈夫、私たちは大丈夫)
そう言い聞かせても、ルシアンの不在が日常になっていく。それはリディアにとって少しずつ寂しさとなり、そして不安に変わっていった。
***
一方その頃、ルシアンもまた、焦燥を抱えていた。
(リディからの手紙が……今日も届いていない)
多忙な日々の中でも、彼女の手紙が届いていれば一気に疲れが吹き飛んだ。
けれど、ここ数日は手紙が届かない。
舞台の成功を望んでくれる彼女のことだ。きっと配慮しているのだろうと、頭では分かっている。
けれど、舞台の稽古にどれだけ没頭していても、ふとしたときに彼女の文字が恋しくなる。そして会いたくなる。
カリナは舞台の上では完璧なパートナーだった。プロとしては申し分ない。だがどんなに演じても、彼女にはリディアのような温もりがなかった。
「ねえ、ルシアン。最終幕で、恋人を見つめて抱きしめるシーン。あそこ、すごく情感こもってるわよね。それって……私が相手だからかしら?」
カリナが笑って誘うように言った。だが、ルシアンはどこか遠くを見て答えた。
「……リディだったら、こうしたら喜ぶかな、なんて思ってた」
そんなルシアンの回答にカリナは苦笑する。
「なにそれ……ズルいわね。あなた、本気で誰かに恋してると、演技にも色気が増すのね。その眼差し、こっちにも向けてくれないかしら」
彼女の冗談にルシアンは微笑むしかなかった。
リディアが黙って耐えている時こそが、一番危ういとルシアンは知っていた。
誰よりも聡明で、そして愛に不器用な彼女は、傷ついても「大丈夫」と微笑むことができてしまう。
(君のことを考えるだけで演技が自然と熱を帯びる。君が見ていてくれるから、僕は何にでもなれるし、自分を見失わないんだ。なのに、君にそれを伝える時間すらないなんて……)
ルシアンは額を押さえ、吐息をついた。
そして——舞台の初日がやってきた。
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