ルシアン 〜舞台の上でも、下でも〜
外は静かに雪が降り、あたり一面を真っ白に染め上げている。
学園では3年生の卒業を祝した演劇部の最終公演の準備が粛々と進んでいた。その主演男優は——もちろん、ルシアンだ。
リディアはアイラと共に、その衣装係の一員として手伝いを依頼されていた。ドレスや装飾への感性を見込んで声がかかったのだ。
(まさか、ルシアンの卒業公演に関わることになるなんて。こんな展開、ゲームにはなかった……。もう、私の人生の一部として、物語は進んでいく)
あの秋の日から、ふたりの距離はゆるやかに近づいた。でも、それは確かめようとするとふっと逃げてしまうような、そんな曖昧な境界にある。
相変わらず彼は明るく軽い。
「リディ」と気軽に声をかけてくる日常も変わらない一方で、他の女生徒にも手を振り、ウインクを送り、その度に黄色い歓声があがる。
しかしその瞳の奥が何を語ろうとしているのか、知るものは誰もいない。
***
ある日の夕暮れ。リディアは衣装部屋に手帳を忘れていることに気がついた。
暗くなる前に、と急いで取りに戻り、帰りに講堂の前を通った時だった。
講堂の扉の隙間から、ほのかに灯りが漏れている。
(まだ、誰か残ってる……?)
そっと講堂の扉を開け、中を覗き込む。
静まり返った空間。客席は暗いが、舞台には照明がついていた。その光の中に凛と立つ、ひとりの影。
ルシアンだった。
客席にも舞台袖にも、誰もいない。
彼は舞台でひとり佇んで、台詞をつぶやいていた。それは役者としての姿でもあり、どこかそれ以上の“何か”が宿っているように見えた。
舞台照明の光に反射し、彼の茶色の髪は琥珀と金を溶かしたような輝きを放っていた。見惚れてしまうような美しさ。
「……ルシアン様?」
思わず呼びかける。その声に彼はゆっくりと顔を向けた。
「……リディ?」
そこにいたことをとがめることもなく、むしろどこか安心したような表情。
「ちょうどいい。見てくれる? 観客が君なら……一番、調子が出ると思うから」
そう宣言して、彼は“始めた”。
照明の中央で、真っ直ぐ前を見据え、深く息を吸い込む。
「……僕は、誰かを本気で好きになったことなんて、ない。皆が恋するのは僕じゃない。僕の“役”だ。舞台の上の、完璧に作られた“誰か”だ」
その声は、静かだが、鋭く講堂に響いた。
引かれるようにリディアは講堂の椅子に腰掛け、彼の独白を見つめる。
「でも……君が、台本にない言葉を投げてきた時……僕の台詞も、勝手に変わっていった。僕の中の“役”が崩れて、本当の僕が喋りだす。君は……君だけは、僕の演技の外にいる」
ルシアンの瞳が、真っ直ぐにリディアを見つめてきた。そのまま手を伸ばしてくる。舞台の上と下ではなく、同じ床の上で、同じ空気の中で——本心をさらすように。
「君には、台詞じゃなくて、“本当の僕”を知ってもらいたいって……そう思ってしまったんだ」
(これは……舞台の台詞なの? それとも……)
リディアの鼓動が高鳴る。ルシアンが一歩、こちらへ近づいた。
その瞬間——
バツン!
そう音を立てて、講堂の照明がすべて落ちた。
(えっ! 何?)
暗闇に沈む講堂。すぐに聞こえたのは、校内放送だった。
《ただいま、雪の影響により一時的に校内の電源が遮断されました。復旧までしばらくお待ちください》
お互いの姿が見えないほどの暗闇の中、2人とも動かなかった。ルシアンは舞台の上に立ち尽くしたまま、何かを察したように肩を落とす。
「……やっぱりな。僕は舞台を下りてはいけない。世界が“それ以上”を拒んでる。そんな気がしたんだよね」
しばし沈黙した後、深呼吸をして声を作るように笑う。いつもの軽薄な仮面の声が戻ってきた。
「こんなに暗くちゃ、今日はこれ以上続けられないな。むしろ今ならリディにキスしてもバレないかも?」
彼の切り替えぶりにリディアは困惑する。
「え……っと……」
「ごめん、冗談だよ」
そう言う声は少し震えていたように感じた。
ふっ、と息を吐いてルシアンは続ける。
「それよりもさ、リディ。どうだった、僕の芝居? 舞台の僕にまた惚れ直しちゃった?」
彼の表情は見えない。
それでも、きっといつものあの微笑みを浮かべているのだろうと想像できた。
軽やかでどこか浮ついた口調。それはまるで——
(否定されることを待っているみたい…)
リディアは目を伏せ、そっと唇を引き結ぶ。
(きっとここで「何言ってるんですか。そんなわけないです」と軽く返せば、ファンに逆戻り。そして、「そうです」と答えれば……きっと私はルシアンの心に触れる。彼のルートに入ってしまう。それは、できない)
リディアは知っている。
ゲームの中で彼のルートでは、大きな震災が起こる。多くの人が傷つき、光を失う。その中、ルシアンは舞台に立ち続け、絶望の中で人々に希望を灯す。そして彼の側で支える自分。深まる絆。
でもそれは犠牲の上に成り立つ未来。
(それを知っていて選ぶことは……私にはできない)
リディアは顔を上げた。
暗闇に少しだけ目が慣れてきて、ルシアンの輪郭がぼんやりと見える。
(私は、“選ばない”ことを“選ぶ”。選ばないことでしか、守れない未来があるのだから。どのルートにも進まずに。大切な人たちを守るために)
そしてそっと言った。
「舞台の上でも下でも、ルシアン様は……ルシアン様のままですよ」
舞台を否定するようにも取れる、その言葉。
それを聞いたルシアンは少しだけ目を見開いた。
彼の中で、何かが触れた。震えた。揺れた。
舞台の役でもなく、誰かの理想でもなく、彼という“人間”そのものを認める言葉だったから。
「……君ってさ、本当に……ずるいな」
ポツリと、俯きながら呟く。崩れそうな仮面の奥に、たしかな熱を宿して。
やがて照明が戻り、講堂は元の明るさを取り戻した。だが、ふたりの間には、それ以上の言葉は交わされなかった。
ルシアンは、何も言わずに、ただ軽く手を振って舞台から降りた。
リディアは手帳を胸に抱き、黙って一礼して講堂を後にした。
***
最終公演当日。
ルシアンの控え室にはリディアからの花束があった。
メッセージカードには一言
《舞台の上の貴方も、そうでない貴方も——どちらも、私は知っています》
彼は、ひとつ深く息を吐き、メッセージカードを折りたたんだ。
最終公演の幕が上がった。
役者たちの華やかな演技。歓声と拍手。笑いと啜り泣きが巻き起こる。
そしてルシアンが舞台に立った。観客席から一瞬、空気が止まるような沈黙が訪れる。
ルシアンは一礼した。
舞台の上で、初めて“演じない言葉”を投げかけた。その言葉は誰に向けられたものか、それは彼だけが知っている。
観客席からリディアは舞台を見つめていた。彼はいつにも増して、輝いているように思えた。
(舞台の上でも下でも。ルシアンは、ルシアンだよ)
ふと、思った。
(自分は、どうなのだろう。乙女ゲームの枠の中で生きているけれど、もし、この枠から出たら、私は、私のままでいられるのだろうか)
その問いに答えはでなかった。
明るく華やかな舞台を、リディアは眩しい思いで見つめていた。
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