11.新たなる危機の始まり
舞台は1578年に入ります。
史実でもこの年はいろいろな戦いが起こっており、
これらを包括的に見た筆者の解釈で物語が進んでいきます。
ただ今話と次話は説明回みたいな感じに立っていますのでご容赦を
それでは本編をどうぞ。
※2020/05/16 誤字だらけで速攻修正しました。あと、後書きも付け足しています。
1578年元日-
完成した安土城に諸将が集まった。
面子は以下の通り。
織田家臣として、
柴田修理亮勝家
惟住若狭守長秀
蒲生左兵衛大夫賢秀
惟任日向守光秀
羽柴筑前守秀吉
原田備中守直政
親族衆として、
織田秋田城介信忠
北畠侍従信意
神戸侍従信孝
長野上野介信包
村井大隅守重勝
控える側近衆として、
堀秀政
蒲生賦秀
長曾我部信親
招待された諸侯には、
徳川三河守(代理で酒井忠次が出席)
三好大和守(本人出席)
北條左京大夫(代理で板部岡江雪斎が出席)
長曾我部宮内少輔(代理で香宗我部親泰)
木曽左馬頭(本人出席)
その他にも、公家衆、寺社衆、各地の商人衆など、百人を超す人々が天守のよく見える儀礼用の大広間に集められ、城の主の登場を待っていた。
俺たちは大広間の周りを囲う廊下に等間隔で配置されすぐに立ち上がれるような態勢で待機する。帯刀が許可されており、不測の事態が起きればすぐさま対応できるよう万全にしている。
俺は自分の役目を認識しつつ注意深く中にいる人の様子を伺った。落ち着きのない様子を見せるのが、先日名を改められた信意様…まあこの方は相変わらずか…荒木村重の代理で出席の高山重友様、木曽義昌様、そして筒井順慶様。驚いたのは酒井忠次がどっしりと構えていて…もう開き直っているのであろうか。その他に怪しい動きはない。
今年の年賀の儀は昨年までとは違う。まず、ご主君が初めから列席していることだ。今までは信長様と一緒に入室されていたが、これは織田家自身も信長様の家臣であるということを強調されているのであろうか。そして饗応役が惟住様に替わられたことだ。これは信長様個人の意図的なものを感じるが…。
信長様のご登場だ。殿上人らしく、黒の衣冠に身を包み檜扇を手に持っている。後ろには太刀を持つ小姓と酒瓶を持つ小姓が付いており、その一人は蘭丸殿であった。信長様は上座中央の椅子に腰かけられると下座を一睨みして声を張り上げた。
「面をあげぇぃい!」
太く力強い声に引き付けられるように皆が一斉に頭を上げる。代表して先頭に座する柴田様が胸を反らして向上を述べた。長々と主君をたたえる言葉を並べた後張り裂けんばかりの大声で「おめでとうござりまする!」と言うと一斉に下座の面々が頭を下げた。中座の木曽様、長曾我部様、三好様が揃って頭を下げている。長曾我部様、三好様は良いとして木曽様も頭を下げているということは織田家に服属した…ということか。
「木曽左馬頭…遠路遥々ご苦労であった。儂も直接お主に会えて嬉しいぞ。」
「は!勿体なきお言葉。」
義昌様が大げさな礼をして返答すると信長様は満足げに頷いた。そして三好様を睨みつける。
「大和守…自国の内紛方付いたか?」
「は、お陰様で安全な往来が可能になりました。」
「雪が融ければ紀伊を攻める。力を貸せ。」
「仰せのままに。」
公的な場での布告。三好様は恭しく頭を下げ、寺社衆の一部が悲壮な表情を浮かべた。紀伊といえば雑賀や根来の本拠である。後で孫一殿に指示して今のうちに人材引き抜きを図ろう。
「江雪斎殿…遠路遥々ご苦労であった。」
「お言葉痛み入ります。我が主北條左京大夫も安土の城落成を殊の外喜んでおります。つきましては祝いの品として砂金、銀、太刀をお持ち致しました。」
「うむ、礼を言う。今後ともよい関係を続けられることを願う。」
北條家とは予め用意されていたかのような会話のやり取り。だが織田家と北條家とは友好関係を築いていると知らしめる内容である。…おそらく対上杉への軍事同盟的なものであろうか。
「忠次…此度は徳川殿は如何した?」
今度は徳川家へ…しかも相手の諱を読んでの会話。かなりの上から目線になっているが、酒井忠次は表情を変えず返答する。
「申し訳ござりませぬ。昨年はいろいろと御座いまして、我が主は疲労をため込んでいた由。かかる大事に参上できぬことを心から詫びておりました。」
徳川家は西三河を切り取られてから、大規模な組織再編を行った。軍編成もさることながら、重臣、側仕え、小姓の人事、更には親族の粛清まで行っている。国内での戦も続いたことから経済力もかなり落ち込んだとか。
「しかしながら、我ら忠臣一致団結し、今年は飛躍の年として活動し織田様に満足頂ける活躍をお約束致しまする。」
忠次が言いながらゆっくりと頭を下げた。信長様の表情がやや曇る。
「満足…とは?」
「は!まずは織田家から借用した銭のうち半分の八万五千貫を返済いたしまする。」
周囲がざわつく。信長様の動きも止まる。当然俺も目を見開く。そんな大金を徳川家だけで用意などできない。…い、いや本当に持ってきているのならここに到着した時の検査で報告が上がっているはずだ。だが徳川家は茶器をいくつか運び入れた程度と聞いている。
「只今、鳥居彦右衛門(鳥居元忠のこと)がお運びしている最中になります。数日のうちに到着することでしょう。どうかお納めくださりませ。」
そう言って忠次が頭を下げる。信長様も「ありがたく頂戴する」としか言えず、大広間には何とも言えない雰囲気が漂うこととなる。どうなるかと見守っていると勘九郎様と目が合った。顔がわずかに上下する。俺はご主君の合図を理解し、気づかれぬように持ち場を離れる。空いた場所にはさりげなく孫十郎が入った。俺はそのまま足音を殺して大広間を離れ別館に向かった。
別館は客人の従者などを待たせておく部屋が幾つもあるが、俺はそのうちの一つにすっと入る。中には男が三人。持参した酒をちびちび飲んでいたところであった。
「どうした吉十郎?…まだ宴の最中ではないのか?」
男の一人が俺に声をかけるが、俺が無言で三人の前に座って一礼すると只ならぬ雰囲気を感じて盃を置いた。
部屋にいた三人は斎藤様、竹中様、塩川様である。俺は手短に大広間での会話を説明した。室内は凍るように冷たくなった。この様子だと誰も徳川家の動向を把握してないか。
「これは…どこぞの誰かが徳川家に援助をしている…ということになるか。しかも我らに気づかれぬように。」
「問題は誰かということと、目的…であるか。」
「すぐにでも情報を集めたほうが良いな。」
途端に意見が交わされる。俺も話を聞きながら銭の出どころの可能性について思考した。
徳川家とは1562年の奴隷的な軍事同盟締結以降、疲弊した国力の回復と織田家への助太刀の為に毎年のように借財をしている。俺は直接かかわっていなかったのだがさっきの話からすると二十万貫近い借金があったことになる。林様の情報によれば東三河と遠江を合わせた石高は約四十万石…貨幣換算で二十万貫くらい。出せない額じゃないが、領国経営はそんなに甘くない。収入の八割~九割は運営資金にしなければならない。戦が続けば支出のほうが上回るなんてざらだ。だからこそ商人衆との結びつきが必要になる。この時代の商人衆は情報収集のプロだけではなく、資産運用にも長けている。そういった集団を支配下に置き活用することで潤沢な資金を得ることができ、織田家飛躍の原動力にもなった。
では徳川家にそのような有力商家がいるのか?
そんな情報は聞かされていない。つまり今まではいなかったはずだ。それが十万貫近い大金をポンと出す…商人衆の扱いをよく知る我らにとってはそれは脅威でしかない。
何処を拠点にして、どのくらいの商圏範囲を持っていて、どこまでの人脈を抱えているのか。早急に調べる必要がある。
「大広間には孫十郎を張り付かせて情報収集をさせていますし、他の小姓らからも話を聞いて諸将の様子を伺う必要がありましょう。」
俺の提案に塩川様が頷く。
「吉十郎はこの別館にいる者共を窺え。このことを知っている輩がおるやもしれぬ。…儂はこのまま美濃に戻る。半兵衛殿、貴公も同行願いたい。斎藤殿には小姓衆や連れて来た奉行衆の取りまとめをお願いする。」
てきぱきと指示を出す塩川様に俺も含めた三人は頷く。そしてすぐに行動に移した。
「吉十郎、銭を持っているのは商人だけとは考えるなよ。武田家はともかく、支配地域の大きな諸侯や、本願寺のような寺社も念頭に入れておくのだ。穿った眼で見定めぬよう心掛けよ。」
別れ際に半兵衛様から助言を頂く。確かにそうだ。金持ちは商人だけとは限らない。俺は半兵衛様にお礼をいうとそのまま別館内を歩き回った。
その日、裏年賀の儀は行われず信長様は天守に引きこもり、誰にもお会いすることはなかった。
~~~~~~~~~~~~~~
1578年1月-
安土城御殿の大広間にて始まった年賀の儀は、徳川家家臣、酒井忠次の投下した爆弾発言により大荒れの装いとなり、用意していた年賀を祝う演目もいくつか披露することなく、当初よりも短縮されて終了した。後日、鳥居元忠が安土に到着し、八万五千貫が織田家に返済され、徳川家の不気味な経済力が浮き彫りになる結果となった。
我ら濃尾衆、伊藤衆熱田衆津島衆が総力で銭の出どころを探ったが、その調査は三月には中断することになる。
摂津国人の反乱である。
絶妙のタイミングでの実行と言わざるを得ない。実際に荒木村重と徳川家康が本願寺の仲介で連動していたことは後になってわかったことだが、当時は畿内の補給路分断の可能性があり反乱鎮圧が最重要となりそれどころではなかったのだ。そして最大兵力を抱えていたご主君の濃尾軍が対徳川けん制のために、摂津に出張ることができなかったことは事実である。
私は、“津田九郎”として有していた淀の守備の為にまたしてもご主君と離れて活動せざるを得なかったことを今でも記憶している。
活動が下火になっていた本願寺勢力の連絡網の広さを侮っていたのも大きな要因であろう。
~~~~~~~~~~~~~~
1578年3月- 大和国多聞山城。
紀伊平定の準備を進めていた三好義継のもとに交野城からの急使が到着した。文の差出人は生駒親正で内容を読んだ義継は怒りで紙を引きちぎった。
「家臣を招集せよ!紀伊遠征は中止だ!…部隊を再編成する!」
小姓に怒鳴りつけるような指示を出すと部屋にいる一人の男に視線をやった。この男は大和仕置きの後に主家であった筒井家と縁を切り三好家に仕官した在地の国人である。軍事に明るく旧筒井家臣からの人望もあることから重臣の末席に加えていた。
「左近、城下の兵を至急まとめて交野城に向かってくれ。」
「まず、何があったかを教えてくださりませ。」
左近と呼ばれた男は落ち着いた声で返答する。
「荒木村重が京に運搬中の兵糧を襲って奪ったそうだ。」
義継の言葉に左近の眉がピクリと動いた。
「荒木殿は摂津でも有力な在地の者…これは単独での行動では御座いますまい。」
「そうだ。そしてその可能性は以前より近江の大殿より聞いており、諸将は警戒をしていた。…していたはずなのだ。故に紀伊遠征を前に丹波奪還も一時中断し後背を羽柴殿、惟任殿で固めたうえで原田殿、滝川殿との共闘で準備していたのだ。兵力が畿内に集中するこの時期に謀反を起こすと誰が思う!?」
「…摂津の兵力はいか程に御座りますか?」
「摂津衆はここ数年戦に駆り出されていない…西国街道護衛の任務しか行っておらぬから、私は分かっておらぬ。」
左近は考え込んだ。このタイミングでの挙兵…相手の意図が読めない。それにまだ村重に与する国人の数もわからぬ状況で兵を動かすのは危険が伴う。兵を動かすのであれば、周辺の軍と同調して一気に攻めるべきだが、放っておいたら西国街道だけでなく京街道までも封鎖される。
「わかりました。交野に向かいまする。但し騎馬のみ少数で先行します。大和守様に置かれましては二千ほどが整い次第、派兵をお願いします。」
義継は男の言葉を理解した。まずは状況把握と敏捷性を最優先にするということだと。義継は男の言葉を全て了承し、交野へ向かわせた。
1578年3月- 播磨国姫路城。
「な、なぁにぃ!荒木殿が!?」
湯漬けの最中にもたらされた報告は秀吉の口から飯粒をまき散らす結果となる。飯粒は報告した兵だけでなく側にいた小姓たちの顔にまで降りかかった。
「何故じゃ!?今摂津の周辺は織田軍がわんさか待機している状態だ!すぐに孤立してしまうではないか!」
秀吉はあまりの憤りにどちらの味方なのかわからない言葉を叫ぶ。使者はどう返していいのかわからず押し黙ってしまった。
「官兵衛!具申せよ!」
苛立つ秀吉は自軍の軍師的役割を担う小寺官兵衛を呼んだ。官兵衛は返事をしながら高速で頭を回転させた。
荒木村重の件は久保田吉十郎より聞かされていた。だが自身もまさかこの時期に事を起こしてくるとは思わなかった。何故今なのか。村重は何を頼って謀反を起こしたのか。村重の背後にいるのは誰なのか。
だが今の自分の知識量では何も思い浮かばなかった。
「情報が不足しております。何とも申し上げることができません。今はこれからどうするか、諸将を集め軍議を開くべきかと。」
「荒木殿…いや村重のことをバラすのか!?」
「我らが言わずともいずれバレましょうならばこちらから説明して織田陣営に留まるよう仕向けたほうが良いです。」
実弟の小一郎秀長も官兵衛の意見に同調した。弟からも言われると秀吉としても文句が言いにくいようで、不満顔をしつつも諸将を集めるよう触れを出した。二日後、対宇喜多戦線を縮小して兵力、兵糧を集中させ不測の事態に備える体制を整えた。
生駒親正からもたらされた報告は、三好義継の紀伊遠征を中断させ、羽柴秀吉の活動を停滞させ、明智光秀の動きを封じ、そして織田信忠の行動を極端にまで制限させることとなった。誰もが何故このタイミングで起こすメリットを見いだせずに混乱し、そして結果として織田家の各軍の活動がバラバラになった。
柴田勝家:越前にて上杉謙信と交戦中です。本物語では主人公の活動範囲として越前が入っていないため、あまり語られないのですが、史実でも1577年11月に手取川の合戦が行われています。
北畠信意:織田信雄のことです。伊勢国主として北畠家を継いでいますが、まだまだ若造で滝川一益のサポートを受けています。
板部岡江雪斎:北條家の外交を担当する僧侶です。
筒井順慶:大和仕置きの後、淡路に転封されており、多くの家臣を手放してしまっています。
高山重友:筆者の地元高槻では超有名な戦国武将です。城跡地には右近像が立っているくらいです。この頃は荒木村重の配下として摂津高槻城の城主をしておりました。もうキリスト教を信仰しております。
羽柴秀長:秀吉の実弟で、羽柴家を縁の下から支える名将でもあります。史実でも豊臣政権下では“大和大納言”として権勢をふるっておりました。
左近:歴史好きの方は分かると思いますが、次話でその正体を説明します。(因みに右近は大和仕置きにて処刑されています)




