20.従五位下 久保田吉十郎
連続投稿の二話目です。
「内藤修理亮!討ち取ったり!」
暗闇に篝火の火の粉が舞い上がる乱戦の中で、ひと際大きな声が辺りを包んだ。
「なんだと!」
「しゅ、修理亮様が!」
「もうおしまいだ!」
そんな声が聞こえだし、武田の兵が浮足立つ。
「騙されるな!儂はここにおる!」
松明を持ち、自らの顔を周囲に照らして老将が叫び声をあげた。
…そこか。
俺は、前田慶次郎と山岡八衛門を引き連れ、老将に駆け寄った。二人は俺の露払いに徹して修理亮までの道を作ってくれた。俺はそこを走り抜け、昌豊に近づく。一閃目で松明を落とし、返す刃で胴を薙ぎ払った。だが、さすがの武田四名臣の一人。折れた刀で受け止め剛力で押し返す。鈍い音がして折れた刀は更に短く折れた。
「その大太刀、なかなかの業物たり!」
昌豊が太刀の持ち主である俺を見てニヤリと笑う。俺は返事もせずに大太刀を構えなおしてもう一閃繰り出した。昌豊の肩当が吹き飛び、血しぶきが舞う。昌豊は得物を持っておらず、素手で俺の太刀を掴んだ。指から血が滴り落ちる。
「捕まえた!」
そう叫ぶと太刀ごと俺を引っ張り、俺に殴りかかってきた。
「内藤殿!悪手にござる!」
俺はここで初めて声を発した。と同時に引っ張られた大太刀を力任せに振り払った。昌豊の指が切り落とされ、そのまま肩口から老将の左腕が空を舞った。
「がはぁ!」
昌豊が力なく膝をつく。俺は胴鎧を掴んで持ち上げ、小太刀を抜いて老将の首にあてた。
「馬場殿はまだ生きておる!内藤殿もここはおとなしく私にお命をお預けくだされ!」
内藤昌豊は大きく目を見開いた。そして周囲に目をやり、すっと目を閉じた。
「…好きにせい。」
俺は素早く昌豊の兜の尾を切って近くにいた慶次郎に投げつけた。慶次郎は俺の意図をすぐに理解し、その辺にいた雑兵の首を取って兜をかぶせた。そして高々と掲げた。
「内藤修理亮!討ち取ったり!」
武田軍は二人の勇将を失い、完全に混乱して逃走した。勝敗は決したと判断して、俺は自軍の秩序を取り戻すべく奔走した。
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1575年6月13日-
長篠城、設楽原での戦いは織田軍勝利に終わった。
この戦いで武田軍は、山縣、真田、馬場、内藤などの多くの忠臣を失う。兵数で言うと実に六千。織田方も三千という死者を出し、一度の合戦でこれほどの死者が出たのは珍しかった。
そして織田方の戦死者に、坂井久蔵尚恒の名があった。大通寺山の武田軍を抑える役目として、坂井政尚隊が務めていたが大敗し、父を救うべく勘九郎様の静止を振り切って単騎で向かい、討ち取られていた。
久蔵の死を聞いた勘九郎様は怒り狂って兜を投げつけたと聞く。
私は何とか生き残った。
しかも、馬場殿、内藤殿、二人の武田の将を捕えるという大手柄をたてた。岡崎三郎様が俺の手柄を聞いて大いに喜んでいたらしい。これ以降、私は三郎様とは懇意にすることになる。
だが当時は、また戦場で人を斬ったということに苛まれた。戦場の光景、斬首の血しぶきが目に焼き付き、暫くうなされる結果となったのだ。
この戦いで何がもたらされたのか。
この戦いは、織田軍が勝利し、武田軍が敗走し、徳川軍が領地を失う結果となり、織田家の方針も内部の組織体制も大きく変わることとなった。
そして…私の家中での地位が飛躍的に向上した戦いでもあった。
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1575年7月-
武田家に勝利した織田家は、朝廷から様々なモノが織田家臣に下賜された。
明智様や丹羽様は、九州の名族「惟任」「惟住」の姓を賜り、多くの家臣に官位が与えられた。勘九郎様も正五位下、出羽介に任官された。
同時に家中の再編も行われる。
柴田様がまだ中途ではあるが越前を与えられ、尾張の自領を含め、二万五千の兵を率いる軍司令となられた。後は切り取り次第で加賀、能登、越中も与えられるだろうと思われる。明智様も細川様を含む山城衆と荒木村重を含む摂津衆を与力として与えられ、丹波攻略を命じられる。羽柴様は、引き続き播磨衆を率いての山陽道の攻略。原田様は大和衆を与力として与えられ畿内の平定を命じられた。これまで泳がされていた本願寺がようやく討伐の対象となった。
そして、西三河、奥三河はご主君勘九郎様のものとなった。奥平家は信長様のご息女を娶られ名を“信昌”と改め、織田家への臣従を誓った。徳川信康様は父である徳川家康との縁を切り、“岡崎三郎信廉”となって勘九郎様の配下になられる。
さらに織田家本拠の移転計画が正式発表された。これに伴い、織田家中を取りまとめる奉行衆が組織編制され、丹羽様、蒲生様を柱に、土田生駒様、松井様、村井様、武井様、そして伊勢様が名を連ね、安土に巨大な城を建築するための賦役が家臣たちに課された。
8月に入ると、本格的に越前奪還が再開された。柴田様を総大将に総勢三万五千もの大軍で侵攻し、既に糧食を一向宗門徒に奪われ荒土と化した越前が再び戦乱となる。
先の戦いでは本願寺の坊官が裏から介入していたことにより、家臣間での疑心を招いてしまったが、此度は信長様自ら対策を講じて諸将に命じられていた。各武将は一千~三千の部隊を与力として柴田軍に送り、信長様から派遣された軍監を受け入れて軍事行動を行うようにされた。軍監には戦闘行動中の権限は一切ないが、各与力隊の行動内容については逐一柴田様に報告されるというシステムになっており、この仕組みを活用して、各隊への指示命令を確実化させたようだ。結果、本願寺による計略が入り込む余地が大幅に削減されたようで、越前の軍事行動は今のところうまくいっているようだ。
さらに本願寺の動きが鈍くなっているもう一つの理由は大坂周辺での軍事行動だ。原田様が一万五千の兵で大坂をぐるっと囲み、出入りができないように締め付けたのだ。これにより、本願寺はいよいよ本拠地も食糧難に陥るはずだ。
1575年10月-
越前奪還は反織田派の国人衆、反抗的な寺社衆、暗躍していた一向宗やこれに群がる百姓一万を超す死者を出して完了した。
清州軍から与力として参画していた服部小平太様は戦の詳細について、勘九郎様にご報告された。
「今年は全ての年貢と賦役を免除し、城の再建には若狭と北近江から人足を用意する必要があると考えます。」
小平太様は戦の顛末を説明後、自分の考えを言われた。勘九郎様が頷いて増田様に話しかけた。
「仁右衛門、越前再建…お主の見立てを言ってみよ。」
増田仁右衛門様がすっと一歩前に体を進め、一礼してから返答した。
「ざっと二年…それに他国の浪人や土地なし百姓を呼び寄せる必要もございます。…三万貫はくだらないでしょうな。」
「よし、お主の見立てを書にまとめよ。私の名で母上様に送り付ける。」
勘九郎様は怒っておられる。
此度の越前の戦は、理解はしているが納得はされていないようだ。だが、公然と信長様のやり方を批判することができないから、御台様経由で文句を言おうとされている。俺なら絶対やらん。…呼び出されてぼっこぼこにされるに決まってる。
言うべきことを言う。おそらく信長様の下で働く人間として最も必要なことなのであろう。怒りを買うことを恐れ単なるイエスマンになり下がった家臣はやがてフェードアウトする。現に佐久間様は遠ざけられているし、荒木様なんかガン無視だった。
皆が恐れる信長様に勘九郎様は真正面から立ち向かっておられる。俺としては日に日に将として、国主としてその器を大きくされていく様を見て、喜びと同時に悔しさと恐ろしさも感じていた。
本能寺の変は…確実に近づいているのだ。
そう感じざるを得ない。歴史は多少の違いを発生させながら俺の知っている歴史とよく似た形で進んでいく。このまま行くと、本願寺が暴発して原田様が討ち取られ、荒木様が造反されて黒田官兵衛が投獄される。道意様が再び謀反を起こされるかも知れん。そうなったときに俺はどのようにして勘九郎さ…「無吉!」
「は、はは!」
しまった、考えに耽りすぎた。慌てて一歩前に出て頭を下げた。
「岡崎三郎殿の妻子を清州に呼び寄せる。同時に私に仕える家臣の子息をしかるべき坊主に教育させる。」
周囲が色めき立った。
「若殿様!では!」
…なんだ?
「ああ、子が生まれる。…男だとよいのだがな。」
なんと!鈴様がご懐妊されたのか。…で、なんでそれで岡崎三郎様の妻子や家臣の子息を?
「若殿!ぜひとも某の息子を!」
周囲がわいわい騒ぎだした。皆が率先して子を差し出すしぐさをする。それを見て勘九郎様は笑った。
「待て待て!坊主を見つけるのが先じゃ。それから奥のことを任せる女官も必要じゃ。長満!お主に全て任せる。ついでに市姉さまも引き取る用意もしろ。」
塩川様が無言で平伏した。その目には父親としての涙があった。
「無吉!次代の当主に仕える和子の選定はお主がやれ。」
「は?私がでございますか!?」
「当然だ。お前は、来月には清州の“城代”となるのだ。それにふさわしい仕事を今から申し付けておく。」
「わ、私が…城代!?」
俺だけじゃなく、皆が一斉に驚きの声をあげた。話題が俺のことになり、騒がしさが一層増したため、勘九郎様が一旦全員を座らせた。
「ちゃんと説明する。よく聞け。」
そう言うと、勘九郎様が懐から書状を取り出し内容を読み上げた。
「此処に書かれた通り、私は次月に「秋田城介」を拝領する。位階も「正五位上」となる。それと同時に池田吉十郎忠輝に姓が与えられる。」
久保田。窪田とも書く。
九州の名族だが、直系の血は絶えて久しく、傍系の一族が戦乱を避けて土佐に下向していたところを長曾我部家が庇護し、織田家に送りつけてきた。これを淡休斎が横取りし、俺に嫁がせて名家を引継ぎ、官位を与えるよう公家衆に要求されたそうだ。……公家衆への嫌がらせとして俺が発案しておきながら、まさか実現されるとは夢にも思わなかった。俺は自分を殴りたい衝動に駆られた。
「甚助(生駒親正のこと)が珍しくお前を褒めていたそうだ。あ奴のせいで公家どもが顔を白黒させて大慌てであったと。だが、官位を得て何もせんのはちと不格好だ。そこで、久保田吉十郎にはこの清州の城代をやってもらう。もちろん相応の家臣もつける。私が出張る際は吉十郎は城を守ることを命ずる。」
半兵衛様がニヤリとする。俺もご主君の言い回しを反芻し、理解した。
つまり、“吉十郎”は清州で留守居だが、“九郎”はご主君の傍に侍れということか。
俺は恭しく頭を下げた。ご主君は自慢げに頷かれた。仲間たちは嬉しそうに笑ってくれた。
1575年11月-
俺は名を「久保田吉十郎忠輝」と改め、従五位下 兵部少輔を朝廷より賜った。
織田家中でも異例の出世である。だが俺のことが取り上げられることはなく、専ら信長様の話題が京中に溢れ返った。
信長様は従三位 権大納言、右近衛大将に就任された。畏れ多くも“殿上人”になられたのである。
それは朝廷に「武家をまとめる者」として認められたことを意味する。
これにより、織田家はようやく“守勢”が解除され“攻勢”に転じるのである。
四部:完
窪田:その昔は北九州地方でそこそこ勢力のあった武家だそうです。
本物語を書く際に主人公に名族の名を継がせるシーンを書きたくて一所懸命探し回って使えそうな名と思って使用しています。




