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17.長篠の戦い(前編)

本日、二話目の投稿にござります。



 1575年2月-。


 正式に長曾我部家が織田家に臣従した。


 当主の元親様は正室側室、信親様を含めた御子達を岐阜へと送り、信長様からは土佐、伊予の所領について安堵され、更に讃岐が与えられた。朝廷からは従五位下宮内少輔が贈られる織田家内では三好家以上の待遇で迎えられた。

 信長様が長曾我部家に期待することは言うまでもなく対中国、九州である。とりわけ本願寺への包囲網の一翼として、毛利、雑賀、根来衆への抑えとして期待されている。信親様も信長様の近習としてお仕えするそうで、忠三郎様の良きライバルになられるであろう。


「蒲生様は、吉十郎様を意識しておられるともっぱらの噂でございますよ。」


 大きくなったお腹を大事そうにさすりながら、茜が微笑みながら俺に話しかけた。俺は頭を掻いた。


「…俺じゃないさ。津田九郎様(・・・・・)を意識されているのだ。」


「まあ!…あれもあなた様では御座いませぬか?福なんか九郎様の話は目を輝かせて聞いておりますのに。」


「だが池田吉十郎としては何の功績も挙げておらぬ。勝三郎様に申し訳ない。」


「父上はそのようなことであなた様に文句を言う人ではありませぬ。」


 そう言って怒ったそぶりを見せるのは咲殿である。彼女もお腹を大きくしていた。二人とも2月には生まれる予定である。

 庄九郎の内室の一件があって時期が遅くなったが、二人のことは勘九郎様にご報告した。ご主君は我が事のように大喜びし、俺は正式に馬廻衆として復帰することができた。今は日々奉行衆の依頼を受けて尾張国内と畿内とを走り回っている。家臣も足軽二十人を雇い、鍛錬を積ませている。

 尾張国内は清州を中心に次の戦に向けての準備の真っ最中であった。そしてその様子は他国にも知れ渡っている。東美濃奪還を計画しているのであろうと思われるであろう。そうして周りの注意を引き付け、平手様林様の取次役家が三河の臣従を進めていた。既に西三河の国人たちは岡崎三郎様がご当主になられるのであればと織田家臣従を約定している。後はどうやって当主の座を信康様に渡させるかという状況だそうだった。



 織田家に向けられた視線は更に外される。尾張国内で戦の準備が進められていると思ったが、雪解け前に越前侵攻が始まったのだ。(織田家視点で言えば越前奪還だが)柴田様を大将に丹羽様、明智様、磯野様、羽柴様、総兵力三万六千での進軍であった。

 奪還目標は四月。二か月で越前から一向門徒を追い出し、織田家に臣従しない国人衆を根絶やし、不平を言う寺社衆を黙らせねばならないのだ。相当なスピード勝負である。だがそのための下準備は前年からしてきたらしい。越前は桂田長俊を殺害した富田長繁と加賀から派遣された一向門徒との間で仲違いを発生させ各個撃破しやすい状況を作り出したそうだ。だがそれでも二か月で雪解け前の越前を平定するのは無茶だ。……何かあるかも知れぬ、と思う。




「あぎゃぁ!あぎゃぁ!」


「お生まれになりました!」


 そう言って(こう)がはしゃいだ。俺は奥の間へと向かい、生まれた赤子と対面した。


「かわいらしい女子(おなご)にございます。」


 そう言って宗舞尼殿が布に包まれた赤子を差し出した。俺は恐る恐る抱き上げる。元気よく泣きだす赤子。宗舞尼殿にそっと返すと、布団でぐったりとする茜のほほをやさしく撫でた。


「よく頑張った。」


男子(おのこ)でなくて申し訳ありません。」


「んなことはどうでもいい。最初にお前に産んでもらうのが大事なのだ。」


「はい、これで私も安心してこの子を産みまする。」


 横から咲どのが笑った。茜も笑った。何事もなく生まれてほっとした。宗舞尼殿は赤子の世話役として俺に仕えてくれることも了承してくれた。考だけでは不安だったからな。なんにせよ、ご主君に報告をして名を決めねばならぬな。


 その4日後、咲どのが男子(おのこ)を産んだ。俺は茜の子に“(そう)”、咲どの子に“百丸(ひゃくまる)”と名付けた。



 2月に入ると清州は一層慌ただしくなった。こちらも東美濃奪還計画を進めねばならぬ。戦支度は越前侵攻に合わせて一旦終了している。水面下では進行形なのだが、表面上は畿内への物資運搬を装っており、甲斐、三河などでは次の戦場は大坂だと噂された。実際に3月に入ってご主君は三千の兵を率いて清州を進発し大和路へと向かう動きを見せた。これにより、遠江の徳川家康が動き出した。…しかし、なんとまあここまで思い通りに事が進むのかと感心した。ご主君より直前になって知らされたのだが、越前侵攻に合わせた戦支度もそれにより周辺国からの噂も、各国の挙動も全て取次役家(林家・平手家)の描いた筋書き通りだそうだ。






 遠江、浜松城。


 知らせを受けた徳川家康は、家臣を集めて会議を開いた。議題は「西三河の奪還」についてである。

 前年、嫡子の信康が徳川家の危機に際し庇護を受け重臣の派兵まで行われたことで、西三河では信康派が強気な態度を見せている。こちらは、武田軍の侵攻を許し、奥三河と遠江の北部が奪われており、三河守としての権威も陰っていた。

 そこへ尾張国内が戦支度をし始めたという噂。尾張に伊賀者を放ち情報を集めてみると、近く畿内で大戦を仕掛けるという情報を手に入れた。そして信忠が兵を率いて清州を発ったという知らせが入り、家康は家臣に意見を求めた。


「好機にございます。軍を編成し、西三河へ進出いたしましょう。織田派の奴らを一掃するのです。」


 本多平八郎忠勝が武人らしい意見を述べる。


「前年のことについては不問とする故、奥平家の討伐に合力せよ、というのは如何でしょう。」


 しわがれた声で言うは酒井左衛門尉忠次である。彼の意見のやや柔軟に対応できるものではあるが、弱腰と捉えかねないと家康は首を捻った。他にも内藤正成、大久保忠世、平岩親吉、板倉勝重、戸田忠次などが意見を言うが、いずれも家康の心を動かすようなものがなかった。さりとて三河衆の意見を無視するわけにもいかずどうしたものかと思案していると、末席より一人の男が「恐れながら」と声を発した。


「ここは敢えて武田に情報を流しては如何でしょうか。あ、ついでに奥平にも流しましょう。」


 一同が凍り付いた。何言ってんだこいつ?という顔でその男への視線が集中する。だが、家康は興味深々であった。


「詳しく申せ。」


 家康の一言がざわつかせるが、男は人懐っこい表情で一礼すると話を続けた。


「我らの目的は、三郎様の身柄でもなく、奥平の首でもなく西三河の掌握。そのためには、岡崎衆に必然的にこちらに付かせるように仕向ける必要があります。…つまり、我らに泣きつかせる…ということです。」


 一同が押し黙ったまま男の言葉に耳を傾ける。


「そのためには、水野信元は邪魔でございます。ならば動けぬように、織田家から疑心を抱かせればよいかと。」


「そんなこと簡単にできるものか!」


 本多忠勝が激高するが男は平然として答えた。


「ここには信元の一族がおられるとか。」


 一同は顔を見合わせた。そしてある人物に思い当たり、渋い表情をする。確かに信元の弟、忠重がいる。彼は家康の影武者としてこれまで全ての戦に従軍しており、功績をあげて家康からも信任をえていたが、他の家臣からは煙たがられていた。


「藤十郎(水野忠重の通称)に信元の調略をさせる…と申すか?」


「いえ、織田家に寝返らせまする。」


「なんだと!?」


 何人かが立ち上がる。しかし家康がそれを制して続きを促す。


「以前より徳川家での居心地は悪かったが、思い切って兄を頼って浜松を出奔しました。しかし、頼った先は何やら奥平家と通じている様子。不審に思った藤十郎様は清州に書状を送るが、その直後に行方不明…。」


「そのような書状、清州の嫡男が見ると思うか!」


「何も織田信重…今は信忠でしたか…が見る必要はございません。書状は誰かが必ず中身を見ます。そして見たものはその真意にかかわらず、上に報告します。仲間内にも話をするでしょう。そうして疑心の噂の土壌は出来上がります。」


 男はここで言葉を切って一同を見渡した。そして家康の満足そうな表情を見て笑った。


「武田家へは武田派の家臣に吹き込んでおけば勝手に増幅されて甲斐へと伝わるでしょう。武田と織田が再び激突すれば、奥平貞勝はこれに乗じて必ず西三河を掌握しようと動きます。その時、西三河の連中が水野家を頼れる状況でなければ、必ずや三郎様を利用して殿を頼って来られるでしょう。」


 酒井忠次も本多忠勝も何も言えずじっと男を見ていた。話を聞き終え、納得のいく内容と判断した家康は立ち上がって男の前まで進み出てどかりと座った。


「…今の話、成し遂げる自信があるからこそ申したのであろう?やってみよ。」


「はは!」


 男は平伏して返事した。




 家康の意を得た献策をした男の名は、本多弥八郎正信という。



 ~~~~~~~~~~~~~~


 1575年2月-


 西三河の領有権をかけた三つ巴の戦が始まった。実際に戦で交えたのは5月に入ってからであったが、水面下で三国が動き出したのはこの月であった。だが武田勝頼の近辺には他国の情勢を調べる専属がいないせいもあり、情報収集元は武田派の徳川家臣であったため、情報が著しく偏っていた。既に信玄からの老臣との軋轢の大きくなった武田勝頼は、先代からの重臣達の諫めも聞かずに徳川家からの情報を信じて戦支度を始めた。


 1575年5月-


 甲斐の情勢を探っていた伊藤衆からすぐさま報告され、ご主君不在の我らは別に動じるわけでもなく淡々と予定通りの作業を進め、武田家が準備を終える前に、八千の兵を秋山信友が籠る岩村城を囲んだ。

 織田家の東美濃に対する防備が万全なことを知った勝頼は、軍事行動を一旦断念する。しかし、遠江の徳川家が、西三河に兵を向けようとしていることを知ってこれに乗じて遠江を南進する作戦を急遽決行した。


 何故、武田家がそこまでして戦に臨んだかは後に武田旧臣から当時の内情を聞いた。

 武田家は信玄死後に急速に影響力を弱めていた。外交などは常に後手に回っており。それを戦に勝つことで無理やり現状を維持していたのだが、戦に駆り出された家臣たちの家計は火の車になっており、崩壊寸前であったそうだ。

 信玄は銭と糧食を得る手段として戦を行い結果として領地を手に入れた。

 勝頼は戦を自らの権威を高める為のほうが色濃くなっておりこの時の戦は完全に力の誇示が目的になっており、老臣たちの士気はそもそも低かったという。


 5月16日。


 こうした背景があって、武田軍は初め東美濃に進軍を開始したものの織田軍が万全の体制で迎えていることを知る。戦が長引くことを懸念した勝頼は方針を転換し、西三河に出陣準備を進めていた徳川に対して遠江・三河領の拡大を図った遠征に変更した。


 5月21日。


 前年、設楽郡まで進出していた武田軍は設楽清政(したらきよまさ)の案内で南進を開始し、二万の大軍で周囲を固めつつ長篠城に攻撃を仕掛けた。


 5月22日。


 知らせを受けた徳川家康はすぐさま反転して長篠城救援に向かった。同時に岡崎、清州にも使者を送り、救援を求めた。


 5月25日。


 救援依頼を受けた信長様は、総兵力三万もの大軍を編成して、東美濃から奥三河を経由して長篠へ出陣した。織田軍は既に奥三河の奥平家を調略して臣従させており、徳川方の内通者からの報告もあってほぼ状況を把握しており、武田との決戦場をどこにするか検討中であったという。


 6月3日。


 設楽貞通の守る長篠城を中心に、武田軍二万二千、織田軍三万四千、徳川軍八千が布陣した。

 徳川家康に西三河奪還の献策を行ったのは本多正信であったが、その作戦を利用して家康を更に追い詰める計を考えたのは竹中半兵衛様であった。



 こうして、私の前世の記憶とは大きく異なるが武田勝頼との大合戦、“長篠の戦い”は始まったのである。


 ~~~~~~~~~~~~~~




「敵は長篠城への包囲を解き、南北に兵を分けて移動し始めました。北側の兵はおおよそ三千。退路の確保部隊と思われます。南側に展開した部隊は一万二千で本陣はこちらにあるようです。残りは鳶ヶ巣山に籠っておりまする。」


 蒲生忠三郎氏郷が物見からの報告を簡潔にまとめて扇子を仰いで涼んでいた織田信長に報告した。信長が立ち上がって遠くを眺めた。その横に息子信忠が近寄り小声で話しかけた。


「我らと直接戦うつもりのようですね。まあ背後に回った羽柴隊、丹羽隊を蹴散らすまで時間稼ぎ程度でしょうが…。」


「ふふん。ならば最悪を想定して本陣は長篠側に置くべきだろうが…勝頼の気性がそうさせなかったようだな。…無吉はどこにいる?」


「はい、丹羽隊に付けた池田勝三郎のもとに。」


「あ奴はいつも激戦の場におるな。…いや、あ奴のおる所が激戦になると言ったほうがよいか。」


「此度の戦、長篠側がどれだけ武田軍をかき回すかがその行方を左右すると我が軍師が申しておりました。。」


「その軍師は今どこにいる?」


「はい、武田の命懸けの突撃を耐えしのげるよう馬防柵を張り巡らす指示を出すため本陣を離れております。」


「…蒲生、前田、佐々の兵に手伝わせよ。そのほかは鶴翼の翼に布陣して待機。」


 氏郷はじめ、信長の小姓たちが一斉に陣幕を出て行った。その様子を確認してから信忠は南の様子をうかがった。


「家康には“別所街道を守備せよ”と命じましたが…おとなしく従いますでしょうか。」


「ふふ…お前の軍師も「動いても動かなくてもよい」と言っていたではないか。お前は無吉の心配をしておればよい。」


 そういって笑うと信長は小便をすると言って陣幕を出て行った。信忠は信長が出て行くのを見届けると北の長篠の空を見やった。



 この二刻後、羽柴隊丹羽隊と武田軍との交戦が開始される。



池田恒興:本物語ではこの時期、主人公の後見として信忠軍の与力となっております。


池田咲:恒興の娘で主人公の側室ですが年上です。


宗舞尼:嘗て吉乃様の女中として織田家に仕えておりましたが、吉乃様の死後に出家しておりました。


本多正信:三河の国人ですが、三河一向一揆にて反徳川派に付いたため、しばらく北条家に身を寄せていたそうです。その後徳川家に復帰しますが、重用されるのは武田家滅亡時期のあたりだそうで、このころはまだ家臣団の末席に佇んでいるだけだったそうです。


設楽貞通:本物語では長篠城主になっておりますが、史実では設楽郡領主設楽清広の家臣で、清広の子清政の後見になっております。


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