16.裏年賀の儀
久々の投稿です。よろしくお願いいたします。
1574年11月、清州城。
清州四奉行より、“申し上げたき儀是有り”と呼び出され、勘九郎様は下座に平伏する林佐渡守様、平手久秀様、塩川長満様、島田秀満様の前に座られた。中座にはご意見番の道意様(松永久秀)が座られる。俺は部屋の入口に膝をついて様子を伺った。
「…四人揃ってとは珍しいな。諫言か?」
勘九郎様は笑顔で聞いた。四人を代表して平手様が顔を上げて口上を述べる。
「若殿様におかれましては、清州の全てを我らにお任せ頂きこれまでやってこられました。」
「うむ。」
「我らも清州…いえ尾張については隈なく調べ上げ知らぬ事無しと自負しておりまする。」
「どうした?急に?」
何が言いたいのかわからず勘九郎様が質問を投げかけた。そこでそれまで平伏していた島田様が顔を上げられた。俺はそのお顔を見てぎょっとした。勘九郎様も驚かれた。
「……若殿もお気づきの通り、我は病に侵され申しました。既に若殿様のために励むこともままなりませぬ。…つきましては佐渡と共に隠居を願い出たく…。」
「…爺、詳しく申せ。」
島田様の言葉で表情を切り替え、真剣な顔で林様を促した。
林様は経緯を全て説明した。今年に入り島田様は体調を崩されることが多くなり、その日の体調を薬師に頼ることが多くなったそうだ。
清州では林様を総奉行として、島田様、平手様、塩川様で尾張の内務および周辺諸豪族との外務を取り仕切っていた。だが島田様の病を機に奉行職の次代の担い手を育てる必要性を感じたそうで、島田様と林様は隠居し、一気に若手を登用したいという話であった。四人の真剣な表情に勘九郎様はため息をついた。
「よきにはからえ、と言っても無駄であろう。ならば私より沙汰を言い渡す。秀満は本日をもって隠居せよ。佐渡の爺はダメだ。三河の件が片付くまでは奉公せよ。…秀満、その顔色では養生せよと言っても無駄であろうな。」
「恐らく年は越せないものと思うております。…で我の後継を担える人物をご紹介させて頂きたく…。」
島田様がそう言うと障子を開いて二人の壮年の男が一礼して中に入ってきた。二人は部屋の隅に座り深々と頭を下げると一人ずつ名乗った。
「増田仁右衛門長盛に御座ります。」
「酒井松之助忠尚に御座ります。」
一人は知ってるぞ。豊臣五奉行の一人だ。…え?この人って尾張の国人だったっけ?…もう一人は誰だ?名前からして三河国人の人っぽいが。
島田様は苦しそうにせき込みながらも二人のことを説明した。増田長盛は尾張中島の国人で、織田伊勢守家に仕えていたそうだが、没落後は平手家が面倒見ていたらしい。酒井忠尚は三河一向一揆のあと、尾張に逃げてきたところを島田様が匿っていたそうだ。二人とも数字には強いようで、島田様が自分の後継者にと近々は仕事をさせていたことを説明した。
勘九郎様は二人の仕官を認め、塩川様にお二人の面倒を見るよう指示された。
半月後、島田様は息を引き取った。勘九郎様は島田様の二人の子を近習に取り立て、彼の忠義に報いた。
1575年元日。
岐阜に新たな年を祝うため、各地の諸将が集まった。今年は柴田様も参賀され、筆頭としての役目を務められる。三好様、十河様は重臣の席へと移動となり、諸将の席には越後、相模、安芸、土佐からの使者が列席された。去年よりやや賓客も増えている。そして今年も明智様の仕切りによる催しで、信長様はご機嫌な表情で配下の様子を眺めていた。
一番の催しは、長曾我部家の御嫡男の元服の儀である。信長様が自ら烏帽子親となられて、長曾我部元親様の御子の弥三郎様が皆様の前にて元服なされた。諱を「信親」とされた。信長様より「信」を与えられ、長曾我部様は大変満足されていた。
年賀の儀も滞りなく終わり、公家衆、寺社衆が出て行った。その後を続くように諸豪族の使者が出ていく。この後は“裏年賀の儀”が行われる予定だ。俺は隣に佇む忠三郎様を見た。昨年初陣を飾られ、より精悍な顔つきになられた。そして俺をより一層意識されている。どうやら昨年の東美濃の戦いでの俺の活躍を聞いて悔しがっていたらしい。…忠三郎様は俺をライバル視しておられるようだが、俺と忠三郎様ではそもそも出自に差がありすぎるから俺のことなど意識する必要はないと思うのだが。
…と考えていたのだが、忠三郎様を煽っているのは藤八様であることが発覚した。忠三郎様が信長様に俺の過去を聞こうとして事が発覚したらしい。佐脇様は信長様の逆鱗に触れ謹慎を申し渡された。
何もそこまで…と思ったのだが、俺のあることないことをかなり触れ回っていたようで、山口様、長谷川様、加藤様も一緒に罰を受けた。俺の記憶が正しければ、この人たちは史実では織田家を出奔して徳川家に仕官するはずだが、今の徳川家は武田派、家康派、岡崎派の三つ巴状態。彼らを受け入れる余裕なんてないように思う。そこで、堀様に謹慎となった方々を監視するよう進言申し上げると、思うところがあったようで了承された。
そんなことがあったので、奥の間に集まった重臣一同は不機嫌すぎる大殿へどうお声がけすべきか誰がお声がけすべきか萎縮するほどの状況であり、勘九郎様でさえ黙り込んでしまっていた。今宵は、御台様は体調を崩され年賀の儀にも出席されていない。
「…御台様はお身体がすぐれぬとお伺いいたしました。」
俺はできるだけ平身低頭のしぐさで話しかけた。信長様がぶすっとした表情のまま答える。
「気にせんで良い。それよりも始めるぞ、勘九郎、武田に対する方針を言え。」
促されて勘九郎様が武田への方針を説明した。
「田植えの時期を見計らって東美濃を奪還します。」
「その後は?」
「……甲州の情報が不足しております。未だ見込みがたてら…「馬鹿者!何のために尾張の商人衆を貴様に付けているのだ!?こちらが後手に回ればどうなるかわかっておろう!?」はい!」
勘九郎様が平伏する。一番手である勘九郎様が怒られたとなると誰もしゃべろうとしなくなる。信長様もそれを理解されているようで、キッと帯刀様を睨みつけた。
「越前の状況を報告せよ。」
「は!田植えを始める前に権六殿が北上を開始する予定に御座います!」
「いつまでに越前を統一するつもりだ?」
「え…と…「早急に権六に考えさせろ!」ははっ!」
二番手もアウト。次のターゲットは丹羽様であった。
「五郎左!儂の城はどうなった?」
「は…見取り図の作成を急がせて「資材の調達具合、落成の時期を聞いておる!」はは!申し訳ございません!今しばらくご猶予を!」
丹羽様まで土下座モード。次の犠牲者は原田様(塙様の新しい姓)であった。当然本願寺の件に関してであり、坊官達の内部抗争を更に激化させよとか、根来衆の動向を抑えるのが貴様の役目だとか、言われたい放題で説明をする暇を与えられなかった。
そして俺を見た。
嫌な予感。
「無吉!」
「…きちじゅうろ「んなことはわかっとるわ!!」……ははっ!」
「藤八の件は聞いた。貴様の存念を聞こう。」
「私も含め、忠三郎様、堀様、池田様や原田様など、嘗ては自分と同じ小姓だったものが一軍を率いて活躍しております。…されど自分たちは未だに小姓の身分と変わらず大殿様から何の感状もお褒めも頂いておりませぬ。」
「あ奴らは何もしておらぬ。」
「当人たちはそうは思うておりませぬ。…そしてこうも思われているでしょう。もはや織田家に仕えていても報われぬ…と。」
信長様は扇子を俺に投げつけた。扇子は俺の顔に当たる。
「………あ奴らは儂のことを全く理解しておらなんだ。儂の配下に必要なのは、忠義や出世欲ではないのに…。」
信長様は一瞬だけ寂しそうな表情を見せた。だがすぐに怒気を漲らせると俺を睨みつけた。
「無吉!貴様の言いたいことはわかった。あ奴らが無断で岐阜を出た場合は、速やかに処分する!左兵衛大夫(蒲生賢秀の官位名)西野衆に指示を出しておけ!」
蒲生様が無言で頭を下げた。
藤八様は信長様の小姓衆のお一人だ。そんなお方が織田家を抜けて他家に仕官などあってはならない。これでいいはず。…だがもう一人。
「大殿様、摂津守様は如何いたしますか?」
丹羽様の表情が強張った。原田様が目を見張って俺を見た。信長様がニヤリと笑った。
「無吉はどうすべきだと思う?」
……聞くんじゃなかった。また俺試されている。忠三郎様が俺を睨みつけるように見てるし。
「摂津は古来より独立気質の高い国人衆が根を張っております。これまで摂津守様はうまく抑えられておりました。ですが、これを評価されないことに不満をお持ちなのではないでしょうか。」
俺はそこまで戦国史に詳しくない。生前の知識では、突然反旗を翻した…としか理解していなかった。だがこの時代で育ち近年畿内で活動するにつれて実情を知った。畿内の国人は昔から朝廷や公家衆と独自に繋がりをもって来た。彼らは自衛の手段として畿内の国人と太い関係を築いてきた経緯がある。つまり守護大名の影響を受けずに生きてきた者たちだ。そう簡単に織田家に臣従するわけはない。
これをうまく抑えてきたのが摂津池田家で強い影響力をもっていた荒木村重様だ。信長様は摂津を治めるために荒木様を利用した。
しかし信長様と荒木様では摂津に対しての考えが異なっていた。信長様は何かにつけて公家衆に影響を与える国人集団は排除したかった。故に淡休斎様や明智様は山城に居を構える武家には公家衆への接触を徹底して禁じさせてきた。ところが、荒木様は摂津衆をまとめ上げ、秩序ある集団に仕立て上げて公家衆や旧幕臣たちへ一定の影響力を保たせていた。信長様はそれが気に食わず昨年から荒木様からの進言などを無視していたのだ。
「このまま行けば、我らは摂津全体を一度燃え上がらせねばならないと考えまする。」
「“燃え上がらせる”とはうまい表現だな。儂の思い描く日の本に今の摂津衆は要らぬ。もちろん摂津守もだ。」
一同は分かっていたことだったが信長様の口からそのことを聞いて表情を失っていた。俺もいい顔はしていない。だが、それが摂津の実情だ。既に生駒様と村井様が暗躍されていて、荒木様の不満が憎悪に変わるように仕向けて行っているそうだ。
今年の“裏年賀の儀”は深い闇の中を引っ掻き回すような、決して表には出ない陰謀を孕んだ内容となった。勘九郎様は表情こそ引き締められておられるが内心は心苦しいと思われる。全員が仲良く手を取り合って天下統一などできるわけがない。誰を生かし誰を殺すかを見極めて天下を駆け上っていかなくてはならないのだ。
そして“その役目は儂だ”と信長様は言われる。 勘九郎様には駆け上った後をやらせるのだと言う。
息子には王道を歩ませ、自分は覇道を歩まれる。そしてその覇道に危惧を持つもの、ついて来れぬものが織田家に立ち向かってはつぶされていく。
美濃斎藤家、近江六角家、越前朝倉家、北近江浅井家など信長様によって滅ぼされた武家は数多い。…これから先も信長様によってその命脈を失う武家はまだまだ増えるであろう。今まさに摂津荒木家が加わろうとしているのだ。
島田秀満:土田生駒出身の武将で、信忠の吏僚として仕えております。1574年くらいからその名が見えなくなったので病死したのではと言われています。
増田長盛:史実では豊臣五奉行として権勢をふるう官僚系の武将です。出身は諸説あったのですが、尾張中島郡の出身といたしました。
酒井忠尚:三河出身の武将で松平元康に仕えることを良しとせずに挙兵しております。その後の行方は分かっておりません。
長曾我部信親:元親の嫡男で史実でも信長より「信」の字を与えられています。(実際には直接会ってはいないようですが)
佐脇良之:前田利家の弟で佐脇家の養子となって信長に仕えました。小姓衆として、岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎と共に桶狭間にも参戦しております。その後は信長の勘気を被って追放を受け徳川家に身を寄せ、三方ヶ原の戦いで討死しました。本物語では無吉嫌いの筆頭です。
原田直政:旧姓は塙。朝廷より九州の名家「原田」の姓を与えられ、武家として格を高められました。
荒木村重:摂津の国人で代々池田家の重臣として仕えてきた。信長の上洛後は三好家と織田家の間を渡り歩き主家を乗っ取ったそうです。当初は信長からも気に入られていたそうですが、1576年に突如謀反を起こします。その理由は諸説あるようですが本物語ではそのうちの1つを採用しています。




