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12.織田VS武田・・・と徳川も



 ~~~~~~~~~~~~~~


 1574年5月


 織田家は新生武田家と戦を行った。四か月に及ぶこの東美濃での攻防は織田家周囲の状況も、勘九郎様配下の状況も大きく変化した結果となった。そしてこの年より毎年武田家と交戦し、そして徐々に国力を弱めていき、家臣の裏切りにもあって滅亡となった。


 私は史実は知ってはいたが、この世界でそれがどのように進んでいくのかを最も身近に感じた。なぜなら…武田家を追い込んだのは我が御主君なのだから。


 ~~~~~~~~~~~~~~


 武田軍は第一陣を苗木城北部に位置するあさま山に置き、本陣は木曽川を挟んで東側の梵天山に置いた。それぞれ六千と八千という報告が上がっている。


 これに対し、織田軍は苗木城の西の尾根沿いに斎藤隊二千と森隊一千を配し、落合砦に前田隊丹羽隊の四千、中津川砦に本陣を置いて勘九郎様率いる五千と滝川軍二千が布陣した。また斥候隊として服部隊が一千を率いて周辺の調査を行っている。


 そして岩村に攻め込んだ軍に対しては、毛利隊と河尻隊二千と堀隊三千、そして神戸隊三千が水晶山に布陣して秋山信友を迎え撃った。


 苗木城、岩村城は共に落城を免れ、初戦は引き分けの装いで一旦膠着した。



 俺は水晶山の陣で三七郎様の後ろに立たされた。ややこしいので鬼面を被っての参画である。陣幕の中には堀久太郎様を上座に毛利様服部様、三七郎様に長野信包様が座っている。俺は明らかに場違い。でも、堀様が俺の姿を見てニヤニヤしている。


「九郎殿、こんな所でお会いするとは思わなんだ。」


「…此度は三七郎様に御加勢すべく参上いたしました。」


 ほんとは違うんだけどそう言わざるを得ない。三七郎様は状況が呑み込めず右往左往されている。初陣相手が武田ってなると、まあこうなるか。だが現状をどうするかをまず考えねば。岩村城の落城は何とか免れたが、孤立していることには変わりなく、なんとか織田軍を岩村城に向かわせなければならんのだが、秋山軍が張り付いているので迂闊に近付けない状況であった。


「誰ぞ意見はあるか?」


 堀様の声に一同は苦々しい表情を浮かべていた。岩村城の周辺は大軍を布陣する場所は少なく救援に来たのに、秋山軍から見て岩村城の後方に本陣を置く羽目になっており、陣取りにおいては負けているのである。そうなると打つ手はこれしかない。


「堀様、ここは“守勢”に徹すべきです。」


 俺の発言に堀様は大きく頷いた。


「だな。…俺もそれしか手はないと思う。だが念のため若殿様からの沙汰を待って動くとしよう。」


 毛利様も河尻様も堀様の意見に同意する意味で頷く。だが三七郎様はどうしていいのか分からず不安そうに俺を見つめておられた。





 苗木城の陥落を何とか防いだ織田軍は木曽川の支流である中津川の近くの丘に本陣を置いた。敵方の陣は木曽川を挟んであさま山に置いており、こちらより高所に位置する。更には東側に勝頼の本陣として兵が配置されており、陣取りにおいては出遅れる結果となった。

 勘九郎信重は小高い丘の上から対岸の敵陣を見つめる。側には伊勢から参じた滝川一益が立っていた。


「…五、六千といったところでしょうか。」


「主将が誰か分かったのか?」


「旗からして山縣昌景かと。」


「信玄時代の老臣か。…だがその武勇は聞いておる。苦戦の覚悟が必要か。」


「は。」


 一益の返事を聞くと信重は踵を返した。


「軍議を開く!諸将を集めい!」


 若き大将の声に周囲は慌ただしくなった。




「久蔵よりご報告申し上げまする!美濃より援軍として堀久太郎様二千が既に岩村に向け出発、金森五郎八様二千がこちらに進軍中であります!」


 岐阜城から帰還した坂井久蔵が大声で報告した。信重が大きく頷く。


「父上はどうされると?」


「は!大殿様は明智殿、羽柴殿の到着を待つと仰せに御座りまする!」


「であるか。父上にはこのまま岐阜にて待機されたし。この戦、勘九郎が対処すると申し伝えよ!」


 久蔵が一旦陣幕を出ると、信重は横に控える竹中半兵衛に視線を送った。半兵衛は一礼すると集まった諸将の前で地図を広げた。


「竹中半兵衛より、状況を説明致す。武田軍は二手に分かれて布陣している。一手は苗木の北部にある“あさま山”約六千で大将は山縣である。もう一手は中山道の東にある梵天山で八千の兵が構えている。大将はもちろん武田勝頼だ。我らは苗木の守備には着いたが陣形は武田側が有利、しかも武田は退路を確保した形で布陣しておる。」


 半兵衛は喋りながら地図のそこかしこを指示した。一同は半兵衛の説明にしっかりと頷き、状況を把握した。


「これに対し、我が軍は苗木の西に一隊、中津川の丘陵に一隊。兵力としては互角になっておりますが、敵を抑え込むには後一隊足りませぬ。」


 そう言って半兵衛はあさま山の更に北に位置する山を指さした。


「ここにもう一隊あれば敵の退路を襲うことが可能になる。」


 そこまで言うと半兵衛は信重に向かって一礼した。信重が頷いて言葉を続けた。


「我らのこれからの予定を言い渡す。まずは援軍到着までは“守勢”に徹する!」


 一同は頷く。


「援軍が到着し奴らの退路を防ぐよう布陣したらば……更に“守勢”に徹する!」


 思わぬ言葉で一同は信重を見上げた。信重は強かな笑みを浮かべていた。





 勘九郎様からの伝令が到着した。久蔵であった。


「申し上げます!若殿様からのご指示は…“守勢”に徹せよ!であります!」


 堀様がにやりと笑った。


「九郎殿の進言通りとなったな。ついでだ。具体的な“守勢”の方法を考えて見よ。」


 …俺はただの馬廻りだぞ。そんな奴に考えさせるなよ。…考えてはいたけど。


「恐れながら申し上げます。此度の武田軍の戦は…」


 俺は作戦を説明した。


 武田軍の進軍の目的。それは大きく2つある。1つは先にも言った“武田家当主としての武威”である。そしてもう1つが“糧食の強奪”だ。信玄の時代からそうだったのだが、甲斐は土地の痩せた貧しい国で常に食糧難に襲われていた。武田家はこの問題の解決として“侵略”を行っている。敵を襲い、敵の糧食を奪っていたのだ。信玄はその為に極力自国の糧食を使わないように戦行動は最低限に行ってきたのだ。ある意味「出陣=相手の食料を奪う段階」と言ってもいい。信玄に上洛の意思はなくただ自国への食料調達が結果的に版図を広げることになっているのだ。


 だが信玄は死に際して過ちを犯したようだ。


 戦の目的を達成するための兵法を、後継ぎに伝授していないようだった。せっかく手に入れた駿河の海も勝頼は活用できていないようだし、此度の戦も城の奪取に失敗した時点でさっさと引き上げるべきところを無意味に居残ってしまっている。

 まあこれが信玄であればそもそも城攻めに失敗していないだろうし、城に固執せずさっさと周辺の糧食を根こそぎ奪って退却しているであろう。


 勝頼が留まることにしたのは、自分にはまだない“武威”を得んがため。我々はそれを利用させてもらうのだ。要は相手の戦意を落とさずできるだけ長くここに留まらせるように“守勢”を張る。…勘九郎様も同じ考えのはずだ。


 このことを説明すると、最初は呆気に取られていた堀様もやがて笑い出した。


「良いぞ!良いぞ!だが、その作戦には今の布陣では簡単に逃げられてしまう。退路を塞ぐには奴らの北側に回り込む兵力が必要だ。」


「あ、明智殿羽柴殿が援軍の準備をしていると聞きました!」


 久蔵の言葉に堀様はまたしても笑った。


「ははは!では、援軍の到着まで相手に逃げられぬよう隙だらけの布陣で凌ぎましょうか。」


 堀様の言葉に毛利様服部様が大きく頷いた。三七郎様は引きつった笑いになっていた。これは後でケアが必要だな。






 こうして武田家との四か月に及ぶ“睨みあいの合戦”が始まった。


 だがそこに横槍が入る。


 徳川家だった。


 奥三河の謀反に繋がった武田軍の第三の部隊。これに対処するために浜松から家康が出陣したのだが、思ったほど兵を集められず、織田家に救援を求めてきたのだ。


 使者は水野家を頼ったが清州にて援軍を求めるよう言われ、清州に向かったら城主は出払っており、已む無く最も近い戦場であるここにやってきたらしい。しかもその使者は“岡崎三郎”こと徳川信康様であった。


「堀殿!お願い致す!三河に救援の軍をお送り頂くよう貴殿からもお口添えを頂けぬであろうか!」


 信康様は必至の表情で堀様に訴えた。堀様は苦々しい表情だ。当然。堀様には権限はない。仮に救援に向かっても間に合うかどうか。間に合ったとしても織田家に何の益があるのか。織田家内では徳川家への評価は低い。いや、家康への評価が低いというのが正解か。このため堀様も…「九郎殿」…は?


「九郎殿、お主、信康殿を伴って若殿様の陣へ向かってくれぬか?」


 遠慮したいです。


「暫くは膠着だ。暇であろう。是非に頼む。」


 暇でしたけどたった今忙しくなりました。だから断りたいです。…何でしょうか三七郎様?俺の手を握って首をフルフルと振って…。


「三七様、織田家の連枝ともあろうお方がそんなお顔では困ります。九郎殿は貴方の家臣では御座りませぬぞ。」


 堀様は三七郎様の手をほどいて俺を押し出した。


「信康殿、この者が清州の若殿様の陣に案内致す。そこで懇願されたし。某が貴殿にできるのはここまでで御座る。では。」


 そう言うとかなり強引に会話を終わらされた。






「津田九郎に御座る!堀殿の言伝(ことづて)ありて此処に参らん!清州の若殿様は何処(いずこ)におわすか?」


 中津川の陣に入り俺は声を張り上げた。俺の声を聴いた庄九郎が真っ先にやってきた。


「確かに津田殿に御座る!其方の御仁は?」


「岡崎の徳川信康様にあらせられる!火急の用件故速やかに若殿様の下へ案内(あない)を求む!」


 庄九郎が側まで来て小声で聞いてきた。


「何があった?」

「徳川様が我らに救援を求めてきた。堀様が面倒臭がってこっちに投げてきた。…どうもこの御仁たらい回しにされているらしい。」

「…なるほど、それで悲壮感の漂う表情をされているのか。」


 聞きたいことを聞くと庄九郎はさっと離れた。


「暫し待たれよ!」


 そう言って庄九郎は陣の奥へと引っ込んだ。俺は後ろの御仁にも馬を降りるように促した。

 俺に伴われてここまで来たのは信康様と石川様。…そう、徳川家の重臣、石川数正様だ。そして三河内の岡崎派の筆頭に位置しているお方でもある。




苗木城・岩村城:東美濃の重要拠点として対武田戦で何度か戦火を浴びているそうです。東美濃は1574年に武田領となり、翌75年に信忠によって織田領となりました。本物語では…どうでしょうかねぇ。


秋山信友:正式な諱は「虎繁」と言われています。岩村城を落とした際に城主遠山景任の室であるおつやの方を手籠めにして信長の五男(勝長)を人質としたそうです。


織田信孝:初陣のためどうしていいかわからずおろおろされています。史実では神戸家臣によって教育され立派な武将として育てられたとあります。


徳川信康:「松平信康」が一般的ですが、家康の子として「徳川」姓を名乗っていないのは別の理由のためで本物語では家康の嫡男として徳川信康とします。


武田勝頼:信玄の急死により急遽家督を継承したと言われています。作者もいろいろと調べましたが、義信が処断された1560年代後半には信玄の後継者とされていたようです。ですが、「諏訪」姓のままだったためいろいろな説が流れているようです。


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