表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/142

3.敦盛

2019/08/28 誤字修正



 ~~~~~~~~~~~~~~


 私が“裏年賀の儀”と呼んだ会合は、参加者の間では「敦盛の儀」と呼ばれた。京で過ごしていた間にこの会議は年に一度では足りなくなり不定期に開催されるようになっており、会議の最後には必ず信長様が敦盛を舞われることから、そう呼ばれたのだ。


 御台様の(つづみ)に合わせて舞う信長様は…瞼を閉じると今でもそのお姿が思い出される。何度も見たからでもあろうが、それ以上の美しさがそこにはあった。

 思わず、話し合うた事を忘れてしまうほど…と言っても言い過ぎではなかろう。



 この頃から、信長様の戦略は“(みち)”を基準にして考えておられた。この時代、路は移動するための重要な“インフラ”である。この時代の統治は「面」ではなく、「点」と「線」によって行われていた。つまり、城と街道である。拠点となる城を占領しても城に繋がる道が悪ければ拠点の維持が難しく、統治も不安定になる。我らは占領した拠点を有効に活用するために街道を整備し人の往来を増やして周辺地域ごと発展させていった。攻め込まれやすいという弱点もあったが、拠点ごとに「経済力」を産ませることを基礎としていた。



 何よりも拠点を統治する者(・・・・・)を重要視された。


 ~~~~~~~~~~~~~~




 信長様は各々に街道になぞらえて命を出されていた。それらについて一人ずつ報告が行われる。若狭を拝領した丹羽様は、丹後街道と若狭街道について命じられており、越前丹波攻略と敦賀湾の整備状況について報告された。

 蒲生様は近江を任されており、東西の近江路整備と、淡海(琵琶湖)の各津について説明された。塙様は本願寺について報告され、村井様は公家衆の動向について。土田生駒様は畿内の街道全般を任されており、畿内物流の報告として熊野古道での物の流れが頻繁であることを報告すると信長様の眉が吊り上がっていた。紀伊の名族・寺社が本願寺に手を差し伸べているようで、信長様としては由々しき事と捉えられているようだ。

 確かに史実でも本願寺勢力に雑賀衆や根来衆が加勢しており、俺にも畿内が益々混乱すると予想ができる。


 話は淡海についてとなった。近江の中心にある巨大な琵琶の形をした湖は物資の運搬にも非常に有効で、信長様は湖岸に大きな津を作り、美濃尾張方面、若狭方面、京方面の物流を制御しようとしており、近江でも頻繁に楽市を開かせるようになった。周辺の港街としても若狭の小浜、尾張の津島、伊勢の安濃津、近江の大津、塩津は既に織田家の支配下にある、残るは摂津の石山本願寺、野田といった大阪湾一帯の拠点を手に入れることができれば、東西の物流経路が完全に確立できると言われた。その為の中心人物は塙様であり、先日帯刀様を養子に迎えられ、家臣の中でも“飛ぶ鳥を落とす勢い”のお人である。


「甚助殿(土田生駒親正のこと)のおかげで、本願寺に流れる物資の量もかなり減りました。あと一年もすれば奴らは飢えに苦しむことでしょう。しかし公家衆が何かと五月蠅く…どうにか抑えられぬものでしょうか。」


 塙殿は甚助様に会釈した後、村井様に顔を向けた。村井様は腕を組んで考え込まれた。


「奴らは儂らを舐めておるからのぉ。少々きつめに取り締まって本願寺に手を差し伸べぬようにせねばなるまい。」


「彼奴らは、銭さえ見せれば後先考えずに近付く。織田家に断りなく諸将と交わらぬよう脅しておけ。」


 信長様の低い声に村井様は平伏して返事した。特に畿内のことは事ある毎に公家衆がしゃしゃり出て面倒臭いようだ。…古渡様のお側にいた時も確かにそうだった。


「こちらから、諸将のことに関わっておられぬ程の奏請(そうせい)をするのはいかがでしょう?」


 俺は前世の記憶を頼りに発言をしてみた。蒲生様の目がギラリと光る。淡休斎様がにやりと笑う。そして信長様が魔王度200%で睨みつけた。


吉十郎(・・・)、面白そうな案じゃな。例えば何を奏請するのだ?」


 わ、私は今は“鬼面九郎”なんですがと言いたかったがそこには触れず、


「蘭奢待を所望されてはいかがでしょう?」


 と回答したところで、扇子がぱちりと鳴り響いた。



 鳴らしたのは御台様である。



 見ればニマニマ賛成顔で笑っていた。

 蘭奢待は俺のいた前世では「国宝」であったが今の時代でも“天皇のもの”として大事に管理されている。また曰く付きの品でもあるから、それを信長様が「欲しい」と言い出せば公家衆は大混乱になるはずだ。諸豪族からの怪しいお誘いに現を抜かしている場合じゃなくなるだろう。うまいタイミングでこのカードを切れば諸豪族の邪魔もできる。

 信長様も納得の御様子でこの案は採用となった。



 そのあとは、丹波、丹後の攻略を明智様に、播磨の攻略を羽柴様に命じることが決定し、本願寺を孤立させるために公家衆を引っ掻き回す案が採用された。そして三河の話となった。


「近い内に、徳川家は3つに分裂します。」


 勘九郎様の報告でどよめきが起こる。信長様は眉間に皺を寄せ勘九郎様を睨みつけている。


「先の内乱(1560年~64年の三河統一戦と三河一向一揆のこと)は三河衆に相当の打撃を与えております。我らから銭を借りて三河を統一した家康がなんとか取りまとめておりましたが、西三河の割譲によって分裂しかかっております。」


「…それで?」


「我らはその内の一つ、“岡崎三郎”派を支援することで、三河の分裂促進、信康一派の家臣化を進めたいと思います。」


 勘九郎様の言葉に周囲はざわついた。当然だ。徳川様は信長様の対等な同盟者としておられるお方だ。知らぬ者が聞けば暴虐の限りと思われるかもしれん。

 だが、俺はずっと違和感を感じていたのだ。織田家と徳川家の関係に。そしてようやく分かってきたのだ。両家は初めから従属的関係であったのだと。しっかりとやっていけば対等な関係にできたかもしれん。だが、家臣を御しきれずに武田家と密約して遠江侵攻を行い、信長様の逆鱗に触れた。これが致命的となり、信長様は従属的同盟者から、家臣化へと舵を切った。そしてそれは家康から信康への交代をも意味していた。


 勘九郎様の報告は詳細に渡った。各派閥の構成や兵数、家臣同士の衝突の具合など、細かく調べられていた。平手様、林様の取次役衆がこの調査で大きく貢献している。話を一通り聞いた信長様は何度も頷き結論を出した。


「今はまだ時期に非ず。暫く泳がせておけ。三河殿にはまだ利用価値がある。」


 そう言うと、不敵な笑みを浮かべる。魔王度250%な気がする。この事変は“本能寺の変”に大きく関わる。できれば俺もこれに参画したい。だが、俺は子が出来るまで休暇を取らされているため、黙って聞くしかなかった。


「で、大和は滞っていると申したな。」


 話はようやく勘九郎様の最初の報告内容に戻った。とそこで襖が開き、小柄な男が奥の間に入ってきた。


「遅くなりまして申し訳ございませぬ。」


「構わぬ、久太郎。」


「は、明智殿には徳川殿の接待を申し付けてきました。」


 そう言うと久太郎様は俺の隣に座った。そして俺がいることに驚いた表情を見せた。俺は軽く会釈をすると勘九郎様の次の話に耳を傾けた。…大和の件である。


「大和は古くから興福寺が守護する土地で寺社衆の抵抗が強く、若い順慶では“大和四家”をまとめることができませぬ。また、織田大和守家を滅ぼした我らに臣従することに抵抗するものも多く、反織田としてまとまってはおりませぬが、織田に服従することでまとまってもおりませぬ。延暦寺や神峯山寺とは訳が違いますので、余り強硬な姿勢は取りたくないと考えております。」


 勘九郎様は言い切ると、一同を見渡した。信長様が珍しく俯いていた。


 大和という地域は紀伊と並んで扱いの難しい国だそうだ。古くから天皇や藤原家などの名門氏族に連なる寺社が多く、興福寺の影響も強くて武家が手を出しにくい国である。だからこそ大和四家に名を連ねる筒井順慶様に守護を任されていたのだが、予想以上に何も出来ず信長様の怒りを買っていた。かといってここで筒井様を罰すれば余計に大和衆の反感を買い、結局根絶やしにせざるを得なくなって、公家衆や他の寺社衆に文句を言われることになる。それが分かっているから信長様も筒井様には何も言わずにいたのだ。皆も事情が分かっていたので沈黙している。


「…三好殿にやらせてはいかがです?ただそれだけでは足りぬと思いますので、式部少輔殿も添えてはどうでしょう?」


 発言したのは遅れてきた久太郎様だった。久太郎様が言われたお方とは、三好左京太夫義継様。代々細川家の守護代として幕府とも公家とも繋がりのある家柄で、出自もはっきりしている。もう一人は一色藤長様で、足利幕府の重職を任されていたが、義昭追放後は失職状態だった方である。このお方も名門出身で出自もはっきりしている。


「なるほど。よいかもしれぬな。これに伊勢貞為をつけ説得に当たれ。左京太夫も式部少輔も儂の下で手柄を欲しがっておった。ちょうどよい、左京太夫が阿波を説得したら、大和の件に取り掛かるよう進めよ。」



 なんとまあ、久太郎様の一言で一気に話が進んだわ。こういう決断の素早さは信長様らしいと思うが、久太郎様も長年信長様の小姓を務めておられた方だけに意見を言うタイミングは素晴らしいと思ってしまった。勘九郎様もご納得のようで「はは!」と言って頭を下げた。…その後ちらっと俺を見てニヤッと笑った気がしたんだが…。




 会議はまだ続いた。最期に残ったのは、越前の問題であった。朝倉家を滅ぼし織田領としたは良いが、ここでも寺社衆の反発が強く統治が思うように進んでいなかった。前田様が越前の現状を報告された。


「越前は旧朝倉の家臣と繋がる寺社衆がおります。朝倉の庇護のもと越前で勢力を拡大してきた者たちです。手に入れた権力を維持しようと柴田様を困らせております。今も日々寺社間の調停に追われており、中々進んでおりませぬ。我らも加賀からの一向宗どもの流入を防ぐので手一杯にござります。」


 この実情は中々のものだ。要は、新しい領主の下で今までと同等の、出来ればそれ以上の利権を獲得しようと国内の寺社衆が互いに蹴落とそうとしているのだ。更に隣国加賀の一向門徒が越前国内の勢力を高めようとしており、柴田様はその対応に苦慮されていた。


 だがこの問題は、俺の中で案があったので早速意見する。


「大殿様、柴田様もかなりお疲れのご様子です。ここは守護を誰か越前の者に託して岐阜に柴田様をお呼びして大殿自ら労われてはいかがでしょうか。」


 前田様が慌てて声を上げた。


「何を言う!そんなことをすれば、忽ち国内で争いが起こり収拾がつかなくなる!」


 腰を上げて声を張り上げたものの、前田様の表情が変わられた。また扇子のぱちりとなる音が聞こえた。信長様がにやりと笑った。どうやら俺の発言の意図に気付かれたようだ。俺の発言で雰囲気が変わりその理由が分からないのか忠三郎様がきょろきょろしてる。


「犬、無吉(・・)の言わんとすることが分かったようだな。明日にでも越前に戻り守護代の選定、撤退の準備を進めよ。」


「はは!」


 前田様が平伏する。忠三郎様は驚く。見れば蒲生様が不機嫌極まりない表情してる。


「まずは越前だ。乱が起これば、権六、五郎左、金柑、禿ネズミを向かわせる。左京太夫には阿波の十河に説得に向かわせよ!戻り次第海老江の惟政に福島への総攻撃を命じよ!帯刀(たちわき)は後詰じゃ!」


 前田様、堀様、塙様、帯刀様が返事をした。


「左兵衛大夫(蒲生賢秀のこと)は近江の街道整備を今以上に進めよ。それから五郎左とすり合わせて儂の新城を選定せよ!…場所が決まれば2年で築城できるよう段取りせい!」


 丹羽様、蒲生様が静かに頭を下げる。


「吉兵衛!蘭奢待の件…強引に推し進めよ!銭が必要なら甚助が用立てよ!」


 村井様、生駒様が平伏する。


「そして無吉は早う子を作れ!」


「か、勘九郎様!」


 後に続いた勘九郎様の言葉に俺は情けない返事をし、一同に笑いが起こった。


「しかし、若殿、大殿もそうでござりましたがこの者は“九郎”では?」


 久太郎様がひとしきり笑ってから質問された。勘九郎様が苦い表情をされて信長様に視線をやった。信長様もしまった!という顔をされていた。

 そうですよね。蒲生様と久太郎様、それに隣にいるちんちくりんの忠三郎様は御存じないことだったはずですよね。


「無吉、面を取れ。」


 信長様の言葉に俺は静かに鬼面を外し、その顔を久太郎様に向けた。


「あ!お主、小折生駒の!」


「山科でお会いした時は何も申し上げず素性を隠したままで申し訳ありません。」


「なるほど!古渡様のところで…あ!いやこの者は追放の身では…え?大殿は御存知?は?」


 久太郎様は大慌てで俺と信長様と視線を行き来した。忠三郎様は何が何だか分からずおろおろしている。勘九郎様はその様子がおかしかったのだろう、笑いだしてしまった。


「まあよいわ。久太郎、お前も知っての通り此奴は年に似合わず修羅場を潜っておる。見知っておけ。忠三郎、お前もだ。」


 はは!と二人は姿勢を正し返事をするが俺としては複雑な気分だ。身分的にはそんなに高くないはずなんだが…顔見知りのお偉いさんがどんどん増えていく。蒲生様もさっきから俺を品定めするような視線を送ってるし。




「さて、舞うか。」



 信長様が立ち上がると、すっと御台様が扇子を持って近寄って信長様に渡された。そして隅に置いてあった(つづみ)を手に取り、座り直した。皆が部屋の端に移動し、俺も吉兵衛様に引っ張られた。部屋の中央に信長様が移動されすっと扇子を構えた。


 静寂の間をおいて、お二人は同時に動き出した。




 ポン!トトン!と美しい音が響く。音に合わせて信長様が踊り始めた。



 人間五十年・・・

 化天のうちを比ぶれば・・・

 夢幻の如くなり


 一度生を享け・・・

 滅せぬもののあるべきか


 これを菩提の種と思ひ定めざらんは・・・

 口惜しかりき次第ぞ




 俺は見入ってしまった。



 俺には舞いの知識など全くない。

 幸若舞のあらすじなんか全然知らない。


 けれど、美しいか美しくないかは分かる。


 信長様の舞いも、

 御台様の鼓も、

 二人の間に流れる空気も


 全てが美しかった。



 ふと見ると、隣で忠三郎様も信長様の舞いに見入っていた。




 後で知ったが、この小姓が後の「蒲生氏郷」様である。



蘭奢待:正式名称は黄熟香(おうじゅくこう)といい、天下第一の名香と謳われています。記録では明治天皇も切り取られたそうです。「切り取ると不幸がある」と云われ、忌避されていたらしいです。もったいないですね。


淡海:琵琶湖のことです。昔は「淡海」または「近淡海」と呼ばれていました。(琵琶湖という名は江戸中期以降だそうです)輸送路として昔から利用され、湖賊もいたそうです。織田信長様はこの湖を物流の主経路としてだけでなく情報連絡の主軸としても琵琶湖とそこから延びる河を使おうとしている、という設定です。


大和四家:筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏のことです。


興福寺:平安の時代より大和国の荘園のほとんどを領しており、事実上の大和国主と言われておりました。比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称され朝廷内にも影響を持っていたそうです。中でも一乗院と大乗院は皇族や高位の公家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えたそうです。足利義昭も一乗院にいました。大和には興福寺以外にも天皇家や公家に縁のある寺院が多数あり、武家にとっては統治し難い国でした。


一色藤長:足利義輝、義昭に仕えた幕臣。義昭追放後は一旦は義昭と共に紀伊に下ったが不興を買って野に下った。その後は細川藤孝の客将として晩年を過ごされたそうです。


岡崎三郎:徳川家康の長子、信康の別名です。本物語では徳川家は3つの派閥に分裂しつつあり、家康派、岡崎三郎派、武田派がそれそれ主導権争いをしているという設定です。この話はまた後程出てきます。


延暦寺や神峯山寺:延暦寺は私欲に近い権力維持のために織田信長によって誅されています。本物語では語られていませんが、神峯山寺も延暦寺本願寺に加担したとして住職を含む僧侶全員が処罰されているという設定です。史実ではありません。


御台様:斎藤道三の娘で“濃”と呼ばれています。本物語では主人公の正体を知る唯一の人物で、主人公が前世の知識で活躍するのが楽しくてしょうがないようです。「介様」一筋です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ