10.徳川家康という男
徳川家康というキャラクターは織田信長が天下を取るという架空小説においては、大きなキーパーソンになる人物と考えます。本話でこの物語でのキーパーソンの扱いについて描いております。
因みに本物語ではキーパーソンについては「〇〇という男」という副題がついております。
物語は、主人公視点の小田原と三人称視点の清洲で進んでいきます。
1571年12月。
俺は山岡八右衛門と瀬田衆10人ばかりを引き連れ、船に揺られて小田原までやって来た。
季節は冬。海は荒れまくり、凍りつく様な寒さと胃が出てくるのではないかと思うほどの船酔いの果てに辿り着いた地。
東西南北が高い土塁に覆われた超巨大な城郭に俺は思わず感嘆の声をあげると、
「ここに初めて来られた方は皆そのようなお顔をされますよ。」
とくすくす笑う若い商人。
この男は、今井兼久。かなり若い商人だが、父は今井宗久で、堺屈指の豪商の跡継ぎである。ボンボンかと内心思っていたが、しっかりとしており、大きな取引きも任されてるくらい商人としての実力もあった。
そんな男と何故小田原にまで来たのかというと、北條と武田の内情視察の為だ。10月に北條三代目の左京大夫氏康が死去し、四代目として新九郎氏政が後を継いだが、その直後、武田と北條が和睦し、武田は駿河に侵攻。北條は一応今川救援の兵を送ってはいるが、駿府を逃げ出した当主氏真を受け入れた後に引き上げている。…これは明らかに武田と北條で今川家の取り扱いについて密約が交わされていたと思うのだが、我ら織田家が知りたいのは、この二家の今後の動向である。俺達は古渡三郎五郎信広様の命で堺商人の今井宗久様に雇われた運送を生業とする荒くれ集団としてここにやって来た。
史実では信玄は西上作戦を実行し、織田家徳川家を脅かす。その途上で信玄が命を落として作戦は中断されるのだが、この世界ではどうなるかわからない。元々は宗久様から「北條より物資買付け」が来たことを古渡様に報告されて俺達が派遣されたのだが、この物資がどこへ流れるかを確認し、武田と北條の動向を探るのが俺達の(今井兼久様も含めて)役目だった。
俺達は安宅船から荷を下ろしていく。この時代、最強の船はこの安宅船であり、商人達も多くの船を所有している。海賊に襲われた時に備え、武装した兵や鉄砲を備えており、商船というより武装船団に近い雰囲気だ。
下ろした荷物を北條の役人が検品し始めたが、そこにとんでもない大物がやって来た。兼久様は見つけたとたん大慌てで走り出し腰を大きく曲げて挨拶されていた。
「よいよい。儂と今井殿の仲ではないか。」
そう言ってにこやかな表情で兼久様の挨拶を受けるご老人。
「…誰で御座いますか?」
側に居た景佐が俺に囁いた。俺はもしかしたらと思い
「…北條の長老様…かもしれぬな。」
と漏らした。景佐は老人を見てニヤリと笑った。
「ほうほう…。これは良い土産話ができるやも知れませぬなぁ。」
景佐は俺の背中をバンバン叩いて笑うと荷降ろしに戻って行った。俺は渋い表情で景佐を見送ってしまった。…俺は大人物に会いに来た訳ではない。会うことで何かのフラグが立ってしまう方が怖いのに…。
ああ…兼久様に呼ばれた。…行きたくないが仕方なく兼久様のもとに向かう。隣で杖をついて立つ老人が俺を見ている。…忙しい振りをしてさっさと戻ろう。
「何でございましょう?まだ荷降ろしの最中に「幻庵様、この者が九郎という者に御座います。近江瀬田の荷駄衆で織田家の侵攻後、堺に逃げて来たところを我らが拾い上げ、こうして働いておりまする」…はい?」
言葉を遮られた上に紹介までされた?…「幻庵」と言った?
「ほほう、中々良い体躯をしておるな。面頬を付け取るはどういう?」
話しかけられた。お知り合いになりたくなかったが仕方がない。
「初めまして、瀬田の九郎と申します。織田家によって生き場を失っておりましたが今井様に拾われ働いておりまする。…この面頬は…母のお気に入りでしたので、その…」
俺はワザと言い澱んで言葉を濁した。
「ほっほっほ。母想いの方であられるな。かまいませぬ。仕事の方はよろしく頼みますよ。」
「は、はは!」
俺は慌てて一礼してその場を後にする。あれ以上会話に関わっていては何か起こるかもしれん。ここでは必要以上のお仕事はご免だ。俺は荷降ろしの作業を続けた。黙々と続けた。
話はひと月ほど遡る。
武田家と共闘した徳川家は沓掛城主、水野信元を介して詰問を受けた。直ぐに弁明の使者として酒井左衛門尉忠次と石川伯耆守数正が岐阜へと向かったが、その途中、清洲にて留め置かれ、奇妙丸との会談が行われた。
二人は一刻も早く信長に弁明をしなければならないのに、その息子に引き止められ会談と称して広間に通されイライラしていた。二人は奇妙丸のことを「元服も済まされていない餓鬼」と見なしており、イライラした態度で若城主を待つ二人を見た小姓衆の蜂須賀彦右衛門は怒りを覚え睨み付けていた。
暫くして二人の前に数名の小姓を引き連れた若武者がやって来た。…若武者は甲冑を着込んで広間に入ってくる。小姓も武具を携えている。二人は奇妙丸の姿に戦慄を覚え、思わず平伏することも忘れ目を見開いていた。
「…織田奇妙丸様の御成りである。お二人とも無礼で御座ろう。」
蜂須賀彦右衛門の声に我に返った二人は慌てて平伏した。恐ろしさのあまり体が震えていた。自分たちはここで殺されるやも知れぬ…。奇妙丸の甲冑姿がそれを連想させており、最初のイラついた感情などふっ飛ばされていた。
奇妙丸は鎧をカチャカチャと鳴らして上座に座ると二人の姿をじっと見た。そして大きな声で言い放った。
「何やら岐阜へと急いでおるそうじゃが?」
「は、は!此度の我らの駿河侵攻につきまして、他意無き旨を御説明いたすべく…」
「我が父はお二人とお会いなさらぬ。」
上座から放たれた冷たい言葉に二人は顔を見上げる。
「父は当主自らの弁明を求めておられる。家臣のそなたらが行っても無意味じゃ。だから、私がここでお二人を留めた。悪いことは言わぬ。戻られよ。」
思いがけぬ言葉に二人は顔を見合わせる。優しい言葉を掛けているように見え、その真意を測りかねていた。
「…どうした?早く戻らねば、父信長に会うのが遅くなるぞ。」
黙っている二人に奇妙丸は少し荒げた声で言い加えた。二人はまたもや慌てて平伏する。
「し、しかしそれでは我らがここまで来た意味が「当主自ら来られぬのではそもそも意味がない!」ひゃっ!」
酒井忠次が弁明しようとしたが奇妙丸はそれを甲高い大声で遮り広間に静かな重たい空気が流れた。
「当主の家康殿が来られぬのであれば、徳川家は織田家との盟約を破り、武田に寝返ったと見なす。…我らが徳川家に貸した銭を全て返済して頂こう。」
若い成りの低い声で下座の二人に鋭い眼光を向けた奇妙丸。二人はこの男を元服前の若造と侮っていた事を後悔した。奇妙丸は初めから二人と戦をするつもりで甲冑に身を包みこの場にやって来たのだ。そして奇妙丸の脅しは尚も続いた。
「私の初陣の相手は徳川か…。ちょうど良い。万の兵を持って三河を蹂躙いたそう。」
青ざめた徳川の重臣二人は何とかその場を収め、慌てて三河へと戻って行った。
俺達は山王川を登り、山の中腹にある居館で過ごしていた。そこは小田原城を一望できる位置にあり景色が素晴らしい。居館の主は北條家の最長老として君臨する幻庵様。積んできた荷を引き渡した後に、俺達を個人的に雇って幾らかの資材の運搬をさせたあと自らの館に留め置かれた。北條家の内情を知る絶好の機会ではあるが、不安もある。幻庵様は何故俺達を招き入れたのか。俺達を疑っていてここで一網打尽にするつもりなのか。いずれにせよ、連絡が取れない状況にあり、この状況は拙かった。
だがそれは杞憂に終わる。
幻庵様は俺達を西国(特に織田家と本願寺家)の物見として活躍するよう申し入れてきた。…所謂諜報活動だ。しかも、俺達からすれば二重スパイになる。俺は景佐と相談した上でこれを承知した。断れば命がないと思ったのもあるが、北條家と繋がりができるのは大きな利点だと考えたのだ。しかも相手は北條の生き仏とも言える御方。この接待を乗り切り、早く堺に帰ろう。
徳川の重臣を追い返してから五日後、三河から百人ほどの一団がやって来た。これを五百人ほどの兵士が周囲をぐるりと取り囲って清洲の城門を潜った。
やって来たのは徳川家康。小姓、重臣数名で、荷車に大量の木箱を乗せて城主の奇妙丸に会いに来た。これを取り囲む兵は沓掛城主の水野信元の兵で、道中の警護と称して徳川がおかしな真似をせぬよう見張っている様子であった。
広間に通された家康は重臣の酒井、石川、本田を伴い、下座に腰を下ろした。水野信元は中座の位置に座って下座の男を睨み付けた。家康はそんな信元とは視線を合わせず、じっと前を見据えて城主を待っていた。
やがて奇妙丸がやって来た。前回と違い裃姿、所謂正装での登場だ。奇妙丸の入室に合わせて一同が頭を下げた。奇妙丸はそれを一瞥し上座に座る。そして一呼吸置いてから「面をあげよ」と声を掛ける。家康がゆっくりと頭を上げて二人の視線が交わされた。不敵な笑みを浮かべる奇妙丸に緊張した面持ちを見せる家康。暫くじっと見つめ合う動作が続いた。
「……借りた銭を返しに来たか?」
「滅相もも御座いませぬ。此度お持ちしたのは弾正忠様の御心をお騒がせしたお詫びに御座います。」
「ならば余計な気遣いは無用。銭を返し一刻も早く対等な同盟を結べるよう努力せよ。」
「もったいなきお言葉。されど、此度は一部の三河家臣が武田に通じ…私がそれを御することができず弾正忠様にご迷惑をおかけしたことは事実に御座います。」
家康は意外なほどあっけなく武田家との密約を認めた。
「では何故直ぐに自ら弁明に来なかった?」
「生憎、熱を出して寝込んでしまい…。」
「石川からも酒井からもそのような話は聞いておらぬが?」
「慌てていたのでしょう。私からきつく申し付けておきます。」
「処罰なしか?」
「…いえ。…所領を一部召し上げます。」
「で、武田に通じた家臣はどうした?」
「謹慎させております。」
「所領を召し上げろ。」
「……は。」
「で、家臣を御することができなんだ当主への処罰は?」
「……。」
自身への処罰を求められたことで家康は押し黙った。ここまで所領での処罰になっている。ということは…
「境川東岸の地を差し出せ。」
さすがに直ぐには返事ができなかった。家臣の所領を家康領にするのは当主としていずれ返せばよい。しかし、自らの所領を織田家に差し出せば、返してもらえる保証など全くない。しかも奇妙丸が口に出した土地は、岡崎からも近く徳川からすれば喉元に刃を突き付けられたようなもの…。家康はごくりと喉をならし、汗まみれになっても表情を押し殺して相手を見返した。
奇妙丸は家康の心情がわかっているので不適な笑みでじっと見つめていた。ここで織田家に逆らう気力を奪っておかなければ将来的に邪魔な存在になる。それが義母様からの手紙に書かれており、その理由も得心もいき、何よりこの情報源は元織田家取次役の林佐渡守である。
「………仰せのままに。」
家康は観念したのか、頭を垂れて静かに平伏した。後ろに控える重臣達もそれに習い頭を下げる。中には肩を震わせている者もいた。その様子を見た奇妙丸は大きく肯くと扇子でパシンと膝を叩いた。
「徳川殿!良いことをお教えしよう。武田は海を手に入れた。その為に北條との同盟を回復させた。…次に狙うは…わかるであろう?」
奇妙丸は含みを持たせて家康に話しかけた。家康は奇妙丸の問いかけに応えず、すっと目を閉じた。そして膝の上で両手をぐっと握りしめた。
「荷車の品々は徳川殿への信頼の証として受け取ろう。代わりに鉄砲五百…これを積んで帰られよ。そして武田の侵攻に備えるがよい。」
奇妙丸の言葉に家康は目を合わすことなく平伏した。鉄砲五百。これを織田から受け取ったと言うことは武田派の家臣から漏れるであろう。これを機に武田は徳川を意識することになろう。そうして徳川が武田への楔になってくれればよい。織田家には時間が必要だった。包囲網は未だ崩れておらず一先ず鎮静化しただけ。ここで武田に暴れられては織田家にとっては苦しかった。
俺たち瀬田衆は働いた。
幻庵様の求めに応じ、道を整備し、庭を綺麗にし、建物の修復を手伝った。…こき使われてるだけの気もするが、こうして従っておき信を得ておけば何かの役に立つと思い、今日も屋根瓦の交換に勤しんだ。
既にこの館に入って10日。
…いったい俺達は京に帰れるのだろう?
北條幻庵:後北條家の初代、北條早雲の末子。この時期の当主は五代目になり、幻庵は一族の最長老として北條家に影響を与えていたそうです。気さくで誰とでも会話されていたそうで、その死を悲しむ民衆も多かったとか。
酒井忠次:言わずと知れた徳川四天王の1人。この頃は、石川家と共に織田家外交担当をされていたそうです。理由は、かなり信長に気に入られていたとか。
石川数正:徳川家の重鎮でありながら、豊臣秀吉にたらしこまれ寝返った御方です。お蔭で、石川家に関する資料は軒並み酷い内容しか残っておらず、資料を読み漁っていて可哀そうに感じました。この頃は叔父の石川家成から石川家惣領を譲られ、歴史の表舞台に出始めた頃になります。
徳川次郎三郎家康:この物語では、あまり恰好の良くない国主として登場します。桶狭間以降、岡崎松平の当主となりますが、その後、松平惣領争い、三河平定、遠江侵攻とかなり無茶な戦を行っており、三河国内はガタガタになって、寺社衆や、守護家(吉良家)から敵対され、一向宗を軸とする大規模一揆まで引き起こし、家臣団が空中分解仕掛かりました。それを助けたのが織田家であり、家康は多額の借金を借り受け半ば奴隷的な同盟を締結しているという設定です。本物語では、主人公があまり徳川家に関わっておらず、その辺の事情は知らない状況にあります。
…それにしても、信長が本能寺に倒れず、このまま天下統一を成し遂げた時に、どういう扱いになったのか、作者によって大きく分かれる人物の一人と考えます。




