6.比叡山焼き討ち(中編)
比叡山について少し調べました。古くから朝廷に物申す寺社衆として、歴史に登場しています。
平清盛の大河ドラマにも悪役のような形で登場していたのを記憶しています。
政にも大きく影響を与えており、戦国時代にも様々な僧侶が戦国大名の側近として暗躍していました。
信長様はそんな権力を誇示する坊主はお嫌いのようだったようです。
比叡山。
近江と山城の間、京から見て丑寅の方角にあり、鬼門を守護する意味もあったと言うが…今は京にとっての“鬼門”という意味に変わっていた。
境内に住まう者は、修行僧だけにあらず、僧の世話をする男女や、色を売る女やそれを束ねる商人などがあちこちの参道に惣をつくり、何百という仏門に関係のない人間がいた。
曾ては主上に直接物申すこともできるほどの権力を持ち、将軍家に対しても堂々と批判をもしていたほどの勢力であったが、ここ最近は内部の権力闘争に明け暮れ、また修行僧の堕落が目立つようになり、急速に影響力を弱めている。
前田玄以様は、曾て延暦寺で修業を行ったこともあり、比叡山の状況に嘆きそして激しく憤られ、一年足らずで比叡山を出て美濃に帰ったと聞く。だがそんな寺社の内情は本来武家には関係のないこと。信長様も延暦寺の悪い噂は聞きつつも手は出してこなかった。だが、向こうが手を出してきたのである。…敵対すると言う形で。
俺は天台座主様にお会いする為、祖父江孫十郎と池田庄九郎を伴い、比叡山に入山した。ただ正規のルートではなく、坂本から川をさかのぼって比叡山の北側から入山し直接東塔を目指した。事前の調査で東塔区域の更に東の端にひっそりと佇む建物があることが分かっている。まずはそこに当りを付け道なき道を登っていた。
「庄九郎殿、大丈夫に御座るか?」
俺は山道を歩き慣れておらず、肩で息をしながら俺達に付いてくる庄九郎殿を気遣って声を掛けた。
「…大丈夫に御座る。」
むすっとした表情で応える庄九郎殿だが、こ奴は小姓衆の中で一番ガッツがあり、努力家だ。起伏の激しい山道でも弱音を吐かずについて来るだろうと思って供にしたのだ。やはり根性があって俺達に付いて来てくれる。俺は、孫十郎の顔色も確認して山の方を見上げた。もう少し行った先に木の生えていない場所が見える。
「あそこまで行ったら飯にしよう。」
俺がそう言うと二人の表情は少し明るくなった。足取りも軽くなったようで俺達は汗を掻きながらも山の中腹に辿り着き、握り飯を頬張った。
結局俺達は二日掛けて山を登り、目的の寺院に到着した。既に夜の帳が降りており、周辺は暗い。そして寺の中からは明かりが漏れており、誰かがいることを示している。俺達は足音を忍ばせて近付き、縁側の下に潜り込んで息を殺した。…気付かれた風はなし。三人で肯きあって確認すると、縁側の下から様子を覗った。
(人の気配はありますな。) ←孫十郎
(何人いるか分かるか?) ← 俺
(さすがにそこまでは…) ←孫十郎
(…三人。) ←庄九郎
(女子がいる気がする。) ←庄九郎
(色女か?) ←俺
(…多分違う。) ←庄九郎
(何処に居る?) ←俺
(…真ん中の部屋…む、一人移動している) ←庄九郎
板の軋む音が聴こえ、俺はゆっくりとその後を追った。音はやがて外からも聴こえ、誰かが縁側を歩いているのが俺でも把握できた。足音が通りすぎるのを待って顔を出して後姿を見る。
紫色の僧衣。…位の高そうな坊主だ。
「座主様。」
声がして慌てて俺は顔を引っ込めた。
「いかがした?」
「本当によろしいのですか?」
弱々しい女性の声。
「…構わぬよ。どうせ、顕如の奴が次代の座主に尊朝を推して来る。私がどう反発しても
織田家を退けた勢いで私を排斥するのだ。」
年老いてはいるが澄み渡った声。高貴な雰囲気も漂っている。そして、交わされた会話の内容から間違いない。
「ですが、主上様にお縋りされた方がよろしいかと…」
この女性はお付きの侍女とか…であろうか。
「兄上に迷惑はかけられぬ。これは座主として立ち向かわねばならぬ。」
「だからと言って、織田家と敵対することは…。」
「私が意見を言っても、尊朝派の上人たちは聞きもせぬよ。ならば、同調しておいて、ここぞという時に座主を尊朝に譲ってその罪を擦り付ければよい。」
…中々楽しげな会話だ。このお方は自らの命を賭けて内部権力と戦っておられるようだが…何か覇気を感じないのが気になる。…ん?何故か孫十郎が俺をじっと見ている。ああ、何かを期待しているようだ。分かる気がするが分かりたくない。…庄九郎殿まで俺を見始めた。
分かったよ!行くよ!行きゃあいいんだろ!
俺は音を立てないように縁側の外に出て、膝をつき姿勢を正した。
「…座主様。」
暗闇から小声で話しかけると、先に女性の方が俺に反応し悲鳴を上げた。直ぐに中から一人の若い坊主が出てきて、俺に棍を突き付けた。
「誰だ!貴様は!?」
俺は落ち着いて相手を見た。…若い。が坊主だ。座主様の護衛であるようだが、誰であろう?
「…周りに気付かれます。お声を小さくお願いいたします。」
俺は若い僧を睨み付け圧倒した。男は俺の鬼の面頬に怖気づき歯を鳴らしている。その様子に女の方がヘタリと座り込んだ。
「座主様。」
俺は再び話しかけた。紫色の僧衣を着た老僧は訝しげに俺を見ていた。
俺達は寺院の中に案内された。庄九郎の言う通りこの寺には3人しかおらず、座主様はここで8月まで過ごされるそうだ。別に仕事などなく、一日中写経をするだけの毎日。既に全ての運営は、さっきの話にあった尊朝派の人間だか、他の派閥の人間だかが執り行っており、今の座主様は名ばかりの名誉職の状態であった。
女性は座主様の世話をする御方で「快」という名だそうだ。そして男の方は、その息子「伝清」と名乗った。
「で…この老いぼれに何用かな?」
とても老いぼれとは思えぬ澄んだ声。その声にはやはり高貴な漂いがあると俺は感じた。
「先ほどその女性と話されていた内容になるかと思います。我らは、その為に人目に付かぬようここまでやってまいりました。」
一息置いて三人の様子を確認し、俺は話を続けた。
「織田家は比叡山を攻める準備を整えておりまする。」
俺の言葉で快殿の顔が歪んだ。座主様は一瞬目を細められた。伝清は俯いている。
「…で?」
「座主様に置かれましては、延暦寺再建の為に織田家を頼って頂きたく。」
「……私の名でこの比叡山に侵攻をするつもりか?」
座主様の澄んだ声にわずかながら怒気が含まれている。
「はい。」
「お断りする。…私を利用するつもりでいるのであれば、うんざりだ。…私は誰にも利用されず、私の思いを持ってこの身を引く。武家なんぞに、院なんぞに思い通りにはさせぬ。」
座主様の御言葉が、何を物語っているのか。それは長年皇家として、高僧としてその名を利用され続けてきた座主様の感情が垣間見えた気がした。先ほどの感じた覇気の無さはこれか。
「織田家への協力を求めておられるのは、主上に御座います。」
「…何?」
俺の言葉で空気が一変した。俺は山科から出発する前に古渡様、塩川様より幾つかの情報を頂いていた。その一つに、主上様が弟君の御身を心配為されているという話である。ここ数カ月座主様は兄君への文を断っており、主上もその周囲も心配されていたらしい。
「我らは主上を主と仰ぎ、その御威光を天下に降り注ぐ為に既得権力共と戦っております。…それを良くご理解されている主上は我らに弟君を悪しき坊官共から救い僧門を正して欲しいと願われております。」
具体的には聞いてないが、そんなところだろう。史実でも正親町天皇は仏門としてのあるべき姿になるよう各寺院に呼びかけられている。だがそのきっかけは延暦寺焼き討ちだ。この事件で正親町天皇は心を痛められ、武家と共存するために仏門としての本懐を果たすよう言われたそうだ。…効果があったかどうかはわからないが、本願寺を除いて大人しくはなったとか…。
「今頃になって私を…?」
澄んだ声に更に怒気が含まれた。…主上の名を出したのはまずかったか。だが、座主様はそれ以上語られず、黙って俺を見つめていた。俺は次の言葉が出て来ず、どう説得しようか思案する。
「…座主様、今の比叡山は仏門として教えを広める場所ではございませぬ。武家の力を使って再生させる必要が御座います。」
「それが私とどう関係が?」
座主様は俺が言わんとしていることを分かった上で聞き返してきた。…手強い。
「座主様の御名でもって織田家を動かされませ。織田家は座主様をここから御救い、新しき延暦寺の再建を手伝いまする。」
「再建は私でなくても良いであろう。志の高い僧を担げば事足りる。」
「貴方様でなければ成し得ませぬ。」
「…そうじゃな。でないと兄である主上に恩が売れぬ。」
的確な答えに俺は押し黙る。
「…結局は主上の弟である私を利用したいのであろう?…私はもう利用されるのはご免だ。9月になれば下山をするのだ。座主も代替りをする。そこを狙えば良い。」
それでは織田家の悪名だけが残る。それでは意味がない。
「
「お願い致す!織田家をお頼り下さいませ!さすれば座主様は天台宗の中興となられます。」
「そんなものに興味はない。」
…このお方は世捨て人だ。そのような御方に金や地位や名声では動かない。
「日の本を統べるのに貴方様の御力が必要に御座ります!」
「私の力などなくとも、織田家は全国に号令を掛けることはできるであろう。」
「比叡山での戦を回避するには、貴方様の御力が必要に御座ります!」
「…既に私の言葉など、ここに巣食う者共には届かぬよ。私は無力だ。昔からずっとそうであった。…ならば最後くらい己の我を通し、全てに反発してもよかろう。」
延暦寺の僧たちがこれほどまでに落ちぶれていることに憤りを感じながらも、俺はどう言えば覚恕様の理解を得られるか分からないまま必死に考え説得を続けた。
…朝を迎えた。
結局一晩中説得を続けたが、座主様が肯くことは無く、これ以上ここに留まるのは危険と判断した。
「座主様、一晩中付き合わせることになり申し訳ございませぬ。ここまでしてもその御心が変わられぬとあらば我らも諦めざるを得ませぬ。……ならば下山後のお世話は我らにさせて貰えませぬか。」
「断る。…武家に頼る気は毛頭ない。」
即答だ。
「せめて後ろのお二方だけでも。」
座主様はちらりと後ろを見た。二人とも心配そうな表情で見ている。
「この者達も私と共に余生を過ごす。心配は無用。」
澱みない言葉でのはっきりとした意思表示。俺は断念した。
「……承知致しました。」
俺達は最後に深く一礼して寺を後にした。
説得に失敗した。
道なき道を下り進みながら悔しさに木を殴りつけた。恐らく座主としての意地であろう。天皇の弟としてずっと利用され続けた人生に対する最後の反抗なのであろう。俺はその意地に対抗する術を持ち合わせていなかった。
三人は終始無言であった。
これほど、山科までの帰路が長く感じられたことも無かった。
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1571年7月-
私は覚恕法親王の説得に失敗し、延暦寺弾劾の後ろ盾が不足した状態で焼き討ちを行うこととなった。
寺社勢力に立ち向かう。それは、他の大名たちがその後の影響を考えて徹底的な弾圧は躊躇されてきたものだが、信長様はそれを実行した。総本山に兵を送り、女子供まで含めた撫で斬り。私が曾て生きていた時代でも凄惨さを伝える物語がいくつもあったほど。
だが、政から仏教勢力を一掃しなくては新しい世を作り出すことはできない。これも信長様の言われた“今の世を壊す”こと。
そして、この戦で明智様が更に信長様の信を得られた。“織田家大城郭”と称して家臣が守勢に徹している中で、平野郷、比叡山と戦功も著しく、この戦によって完全に信長様の家臣となられ、古渡様に次ぐ重臣となられた。
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坂本まで無事に下山できたことで、ようやく一息ついた。俺も終始無言で足を進めていたため、その疲れはひどく、その場に足を投げ出して座り込んでいた。
「…おい、吉十郎。」
「なんだ?」
疲れで気も抜けていたため、庄九郎から不意に声を掛けられ思わず返事をしてしまった。思わず口に手を当てて庄九郎を見やる。庄九郎はむすっとした表情で俺を見ていた。
「…古渡様から出奔の報を聞いたかと思えば、長島での斬りあい、更には京に戻る途中で行方不明と俺達を散々心配させておいて、結局は古渡様に匿われていたのか。」
庄九郎の表情は読み取れない。俺は無言で視線を返すしかない。孫十郎ははらはらと二人を交互に見ている。
「…若殿さまにはまだ黙っておく。…その代わり戻ってきたら、この間の出来事を全部喋ってもらうからな。」
「……忝い。」
「…生駒姫はどうした?」
「古渡様の養女として俺の元に居られる。」
「…ならよい。…大変だったんだからな。」
「皆に礼を。」
「…自分で言え。」
「奇妙丸様はご息災か?」
「自分で見よ。」
「…早く戻りたい。」
「早く戻って来い。」
この日、俺は池田庄九郎元助と初めて本音で言い合った。




