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16.一人旅の始まり



 岐阜を出てすぐ、俺は木下様にお会いした。


 偶然を装って俺に話しかけてきたが、ワザとらし過ぎて俺は失笑してしまった。…やはり木下様は人を和ませる才がある御方だ。


 木下様は信長様の命で俺を保護されたそうで、千秋様からの文を俺に渡してきた。中身は神職である千秋様が裁きを行った理由が記載されていた。


 要は、熱田の名で処罰することで、これ以上俺に人為的な禍が起きないようにすることだったそうだ。だが、俺が余りにも無言を貫いたので、必要以上の罰を乗せることで、周囲を納得させている旨も書かれてあった。そして、然るべき時期と然るべき手順でもって復帰させるから、それまで隠れてろ的な内容だった。


 俺は一通り読んで肯いてから、文をビリビリに破いた。木下様はびっくりされたが、「このような文は残っているだけで問題ですので」と答え、納得させた。


 俺のこれからは決まった。



 木下様のお世話にはなる。なるが、京には留まらない。頃合いを見て諸国を旅する。織田家には世話になったが、やはりこれ以上ご迷惑はお掛けできない。俺は“父無し子”だ。それは今後も付きまとう。


「文の内容につきましては承知致しました。全て木下様にお任せいたします。」


 俺は表面上は木下様に従うと回答し頭を下げた。木下様は路銀として幾らかの銭を俺に渡し、小一郎に従うよう言うと、岐阜へと急ぎ戻って行った。

 俺は小一郎様と近くに待たせていた小隊と合流して、京へと向かうこととなった。


 既に関ヶ原から近江に抜ける道は浅井家に抑えられている為、津島から山越えルートで進むこととなった。長良川沿いに津島まで来るが、街には入らず、河を渡った先の宿で一泊することとなった。


 夜更け過ぎて、小一郎様を訊ねて客が来られた。


 大橋与三衛門殿と蜂須賀彦右衛門殿であった。二人とも俺を見るなり涙を流した。俺は「奇妙丸様をお頼み申す」と頭を下げ、与三衛門殿に思いきりぶん殴られた。


「…絶対に帰って来い!若殿はお前を必要としているのだ!悔しいが我らにはお前の代わりは務まらぬのだ!…生駒殿はな、我が父にもお前の事を話しておられる。これは父からお前に渡すよう言われて来た。…身に覚えはあるか?」


 与三衛門殿は長指物のような太刀を取りだした。俺は直ぐにこれが何なのか気付いた。前に家長様が言っていた大太刀だ。四尺はゆうにある長大な太刀。鞘から抜くこともままならぬほど…どうやって使えと?と暫く考えてみたが見当もつかず、一先ず頂戴する。今となっては家長様の形見の様なものだ。大切にしようと太刀に手を合わせた。


 次に彦右衛門殿が手紙を差し出した。「堀田道空様からお預かりした」と言われ、御台様からの文であると気がつく。見るのが怖かったが、見ない訳にもいかず、恐る恐る開くと


「死ぬること断じて許さじ」


 と荒々しい字体で書かれているだけだった。御台様が俺を怒っていることがよく伝わる。俺も死ぬ気持ちはない。


「堀田様に承知とだけお伝えください。」


 俺は彦右衛門殿に返事を頼み、二人にはもう一度深く頭を下げた。小一郎様にこれ以上ここに居るのは危険だからと丁重に追い返されると、部屋には静寂が戻る。


「…良き友を持たれたようですな、吉十郎殿。」


 小一郎様は羨ましそうに俺を見た。俺はどう答えていいかわからず、黙って大太刀を眺めていた。





 ~~~~~~~~~~~~~~


 5月11日-

 私が尾張美濃を追放された同日、越前から朝倉景鏡(あさくらかげあきら)を大将とする大軍を近江に向けて進発した。

 18日には浅井軍と合流し、美濃との国境に布陣するが、丹羽、池田、河尻隊と睨み合いの末、6月に入って越前へと引き上げる。



 6月4日-

 伊賀に逃亡していた六角義賢が伊賀、甲賀の諸豪族を引き連れ、江南に侵入した。信長様の命で長光寺城永原城の守備にあたっていた柴田勝家隊と佐久間信盛隊が迎撃に向かい、野洲河原(やすがわら)にて衝突し、六角軍を撃破した。



 6月15日-

 松尾山城とその側に築かれた長比城(たけくらべじょう)を守る堀秀村、樋口直房が竹中様の調略によって織田家に内応する。信長様はすぐさま軍を編成して近江に進軍し虎御前山に布陣した。その数一万八千。


 6月21日-

 浅井家の居城、小谷城の周辺を焼き払い、挑発を繰り返して長岡の方へ後退。横山城を囲んだ。


 6月24日-

 徳川軍五千が到着する。同時に朝倉景健(かげたけ)率いる八千も小谷に到着し、姉川を挟んで浅井、朝倉軍一万八千と織田、徳川軍、二万三千が睨みあう形となった。この睨み合いは数日続く。


 6月27日-

 兵数の不利を悟ったのか浅井朝倉軍は撤退。織田軍も陣払いをして後背の横山城の包囲に戻った。だが、撤退したと思われていた浅井朝倉軍が姉川を渡って織田軍に急襲し織田軍は大混乱となる。

 いち早く混乱から回復した木下隊と斎藤利治隊が浅井軍の猛攻を防ぎ、反撃に転じる。これに徳川軍が同調し、朝倉軍を撤退せしめ、姉川を渡河して逃げる浅井軍を撫で斬りにした。


 この戦いで浅井軍は重臣、親族に多数の死者を出した。

 私は思う。

 この戦いの前であれば、信長様と浅井様の和解の道はまだあったであろう。…だが、この戦いによって浅井家の織田家に対する恨みが残り、もうどちらかが倒れるまで戦い続けるしか道はなくなったのだろう。


 この戦いのあった時期、私は織田家を離れていたため、詳細を後に羽柴様と斎藤様にお伺いした。お二人はこの戦いで目覚ましい活躍をされ、羽柴様は横山城の城番に、斎藤様は奇妙丸様の家老となられた。



 だが、信長様の苦境はまだ続くのである。



 反信長包囲網。


 これより、信長様は浅井、朝倉、六角、三好、武田、そして本願寺とほぼ全方位からの攻撃に曝されるのである。


 ~~~~~~~~~~~~~~




 永原城で小一郎様とお別れした俺は、そのまま街道を西へ進み、5月13日には山科に到着した。ここまでくれば古渡様の統治領域になるため、安全度が一気に増す。俺は、大太刀を背負い街道を進み、翌日には京に入り、古渡様の屋敷を訊ねた。

 古渡様の御屋敷は御所の南側に位置し東海道と御所の間で主上を守護できるように配置されている。


 古渡様は俺の来訪を受け入れてくれた。

 事情を説明するとため息をついて「三郎らしいが…短慮すぎる」と愚痴をこぼしつつも、俺の面倒を見てくれることについては約束して下さった。古渡様からも俺の赦免については機を見て進言して下さるそうだ。やはりこの方は心の広いお方だと実感した。


 暫くすると明智様も来られた。


 用向きは別のことだったが、俺がいることに驚き、経緯を聞いてもう一度驚かれた。


「吉十郎殿のことについては、私からも折を見て殿()にお話いたそう。ですが今は浅井のことである。先ほど朝倉が軍を出したとの連絡が有りました。何処に向かうかまだわかりませぬ故、防衛のご準備を。」


 古渡様は明智様の申し入れを受け、直ぐに兵を集めた。


「無吉「吉十郎に」どっちでもええ!…ついて来い!お前も戦を経験する歳だ。」


 古渡様の言葉に「はっ」と返事をして俺は大太刀を手にして立ち上がった。明智様がそこで大太刀に気付き思わず俺に声を掛けてきた。


「待たれよ…その太刀は?」


 俺は太刀を背に背負いながら返事した。


「義父の…形見です。」


 明智様は俺に近付きまじまじと鞘に収まった太刀を見つめられた。…余りにも長すぎて鞘から抜けない太刀。家長様がどんな思いでこれを俺にくれたのか未だ分からない太刀。その太刀を明智様は鋭い目でじっと見つめた。

 「ん?」と言う声がして明智様が鞘に何かを見つけた。鞘の真ん中あたりに小さな接ぎ木があり、爪を引っかければ取れそうであった。


「吉十郎殿、このまま太刀の柄を握って貰えぬか?」


 明智様の言葉通り、俺は背負ったままの状態で柄を握った。明智様が接ぎ木を取ってみた。


 鞘の下半分がするりと下に落ち、上半分が二枚貝が割れるように開いて、太刀が鞘から抜けその銀色の刃が外の空気に触れた。


 反りはあまりなく、黒い()の部分が幅広い身幅(みはば)。分厚い|峰(峰)の逆側には美しい刃紋が切っ先まで続いている。


 古渡様も明智様も鞘から外れた大太刀に吸い寄せられるように見入った。


「…両刃…造りのようですね。」


「普通は短刀に用いられる造り方では?」


「そうです。これは短刀をそのまま大太刀の長さまで伸ばしたような造りで…」


 初めて見る造りに二人とも興味津々であれこれと言い合っている。


「これ、どう使うのでしょうか?抜き方…というか鞘から外し方はわかりましたが…。」


「ふん…こけおどしよ。奇妙の側仕えのお前であればこんな太刀を見れば誰でも慄く。それを狙ったもので、戦で使う様なシロモノではないわ。」


 古渡様は鼻で笑い、明智様も納得されたようでうんうんと肯く。

 俺は刃先をじっくりと見つめる。研ぎ澄まされた刃は銀色に輝き、どんなものでも斬れそうな気がする。恐らくブロードソードのように叩き斬るような使い方をするものであろう。これであれば兜の上からでも真っ二つに出来そうな気もする。


 俺は下の鞘に太刀を刺し、上の鞘を被せて元の位置に接ぎ木を差し込んだ。太刀は綺麗に鞘に収まる。不思議な造りだ。


「や、忘れておりました。戦の準備です。古渡殿も急がれませ。」


 明智様は用事を思い出し慌てて屋敷を出て行った。古渡様も俺を連れて戦の準備に取り掛かった。



 …結局、敵は京方面には現れず、明智軍はそのまま浅井討伐軍に合流する為江北へ向かい、古渡軍は京の抑えとしてここに留まったため、この太刀を振るう機会は訪れなかった。






 これより、京を中心にして、あちこちで信長様に対して挙兵することを俺は知っている。阿波三好然り…甲斐武田然り…本願寺然り…荒木村重…伊勢長島…徳川信康…浅井朝倉に若狭の国人衆、丹波の国人衆に伊賀、比叡山、紀伊熊野、因島村上に…数え上げればきりがない。それらが不規則に連動することにより信長様は常に戦に追われ続けた。


 この流れを少しでも途切れさせねばならぬ。


 俺は古渡様に僧衣を用意してほしいとお願いした。裃でこの屋敷に居れば怪しまれる故破戒僧として身を置いている体にして引きこもりたいと申し上げた。


「五尺の身体に、剃髪もせず、長すぎる大太刀を背負い、僧衣を纏う…。そんな僧が何処に居る?だから破戒僧か。納得はするがもう少し全うな恰好は思いつかぬのか?」


「このなりでは、何を着ても目立ちます。いっそのことありえない組合わせの方が面白いかと。」


 そんな会話をして古渡様から僧衣を貰い、屋敷の奥で一日中写経を行った。古渡様の屋敷を訪れる人は俺の姿を見かけることは無く、数日が過ぎた。




 俺は古渡様から頂いた銭を全て部屋に置き、姿をくらました。



 俺は生駒の名を剥奪された。

 長宗の名も奪われた。


 ただの吉十郎。


 だが使命は残っている。


 ご主君の御為。


 まずは石山だ。



 俺は西国街道を歩きつづけ、本願寺の本山である石山本願寺(当時は大坂本願寺)に足を踏み入れた。




吉十郎が手に入れた大太刀:まだ銘はありません。大太刀は戦国期ではあまり使われていなかったそうです。重いですからね。身長160cmを超えまだまだ成長している吉十郎に映えるアイテムとして登場させております。

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