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16.信長出陣



 淀城のある中州の東側は背の高い葦の広がる草原であった。生駒軍はその葦を全て刈り取り、川から水を引いて湿地にしていた。城壁は木々を植えて見えないように櫓を配置し、陣を敷くにも攻め込むにも不都合な地形としておいた。

 羽柴軍も最初は淀城の東側に兵は配置せず、南北の門と西側の出城に兵力を集中させていた。だが、川並衆が城の東側の堀に抜け穴があることを発見してからは、兵力を東側に集中した。

 敵将を討ち取っては敵の戦意も挫き、蜂須賀小六に五千の兵を与えて攻めさせていた。



「蜂須賀隊の後方に敵影!およそ二千!」


 羽柴秀吉は自分の耳を疑った。


 続いて織田軍がやって来たと恐怖した。


 だが、もたらされる情報を冷静に聞けば疑問しかわかなかった。


 旗印がない。

 馬上の武士がいない。

 槍を構えた足軽しかいない。


 しかし、二千の敵は突然蜂須賀隊の後方に突如現れ鉄砲射撃も弓斉射もなく槍衾で突撃してきた。被害はあったがこっちは弓も鉄砲も騎馬もある。


「浅野、大谷の兵を差し向けよ!」


 秀吉の命令に伝令が走って出て行く。秀吉はそれを見送ってまた考え込んだ。


「…淀城は東の抜け穴から侵入すれば落ちる。さすれば小六に城内の掃除を任せて直ぐに京を目指せばいい。官兵衛の離脱など気にするほどの事ではないのだ。」


「小早川隊が!」


 次の伝令は予想外の報告をもたらした。秀吉は思わず立ち上がる。なんと乃美宗勝率いる小早川の三千が戦場から遠ざかっているようだった。これはさすがに全軍の指揮に影響する。秀吉は直ぐに命じた。


「市松と虎之助を向かわせて問いただせ!」


 伝令が直ぐに走って出て行く。秀吉は自分の椅子に座りなおした。石田三成の差し出す茶を飲んで気持ちを落ち着けようとした。


「八幡平から新たな敵影!池田紀伊守の旗印です!」


 伝令からの報告にまた秀吉は立ち上がった。池田恒興…織田信長の直臣で枚方城主だった。原田直政に与力するため、大坂に出張っていたと聞いていたが戻ってきたのか。堺で騒ぎを起こさせる予定であったが、恵瓊からの連絡もなく…。



「筒井、池田に出城の囲いを解いて八幡平に備えるよう命じよ!」


「兄上…。」


 指示を終えて疲れたように座り込む秀吉に弟の小一郎秀長が話しかけた。


「なんじゃ?」


「織田軍は各方面から此処に兵を送り込んでおりましょう。猶予はありませぬ。」


「わかっておる!」


「こちらに味方した諸将も掌を返し始めるでしょう。」


「わかっておるわ!」


「…どうされるおつもりで?」


 秀吉は小一郎に顔を近づけた。


「…織田信長直轄の国衆にはな…儂に通じている者がおる。」


「な、なんと!?」


 小一郎は驚いた。兄が自分の知らないところで調略を行っていたことにだ。


「だ、誰を!?」


 小一郎の問いに秀吉はにやりと笑った。


「将軍様のご追放の折に近江で隠居した者がおってな…京極中務少輔殿だが…。」


 京極中務少輔高吉……北近江の名門であるが、足利義昭追放後は長男の高次に家督を譲って隠居していた男である。高次は信長直臣として仕えている。そんな男にどうやって調略を掛けたのか?半信半疑のまま小一郎は兄の話を聞き続けた。


「重要な局面でそ奴を味方に寝返らせる。信長のことだ。近江衆は引きつれずにやってくるであろう。そこへ背後から近江の名門が近江衆に味方するように声をかけながら軍を率いてやってくればどうなる?」


「…織田軍…特に近江衆を率いた本隊が混乱するでしょう。」


「そうよ!その隙をついて若殿に付かせている小六のせがれが仕掛けてくれようぞ。」


 秀吉は狂気に満ちた笑みを小一郎に見せた。小一郎は背筋が凍る思いがした。冷静に考えれば果たして寝返り、敵の混乱、暗殺の実行、それが全てうまくいくのだろうか。そしてそれに気づかない兄の様子に不安以上に恐怖も感じていた。






 1582年5月12日 山城国 二条城


 織田信長と信忠は山科館から二条城に移って夜明けを迎えた。既に京の街は堀秀政の兵によって全ての街道への出入り口が封鎖され、怪しい者は悉くひっ捕らえられ村井貞勝による取り調べが行われていた。

 その中に信忠の小姓である蜂須賀彦衛門家政が含まれており、そのことが信忠を大きく落胆させていた。信長は俯く信忠の背中を思い切り叩いた。


「…何を考えておるか知らぬが、上に立つ者にはそのようなことは些細…気になどしておられぬぞ。」


 叩かれた信忠は背中をさすりながら答える。


「わかっております。気を切り替えねばならぬことも理解しております。」


「…もっと大局を見よ。でないと無吉が死ぬることになるぞ。」


「…こういう時、三好殿が羨ましい。彼の者は純粋に“恩を返す好機”と言って後先も考えずに手勢を連れて行きました…。」


「立場の違いだ。我等もただ待っているわけでは無い。淀周辺の情報を仕入れ、いざ出陣の際には最速で迎えるよう整えておる。」


「兄上からの連絡はまだでしょうか。」


 阿賀月段蔵が決死の覚悟で吉十郎に伝えた情報は、まだこの時点では二条城には届いていたなかった。従って出陣の準備は整っていたが、最後の号令待ちであった。


「…今はじっと待つのだ。」


 信長に窘められ信忠は大きく深呼吸を繰り返した。そこへ村井貞勝の家臣が飛び込んできた。


「申し上げます!蜂須賀彦衛門と共謀の恐れありたる者を捕らえたる由!」


「誰だ!」


 信長の大喝に近い声が響き、やって来た兵が慄く。


「は、は!京極中務少輔殿に御座ります!」


 陣幕内に剣呑な雰囲気が漂う。


「子の高次はどうした!?」


「は!京にはおりませぬ!おそらく近江大津かと!」


 そこで信忠が軍令を引き継いだ。


「細川に兵三千を与え大津へ向かわせよ!無理に攻める必要はない!動きを封じよ!」


 勢いよく返事をして小姓が飛び出していく。信長は息子の言動に頷いて同意していた。信忠は引き続いて命令を出した。


「引き続き彦衛門の尋問を行え!此度の件に関わる者の名…身分の上下に関わらず全て吐かせよ!」


 村井貞勝の家臣は返事をして出て行った。それを見届けた信長は息子に言葉をかけた。


「…今ので良い。まだ誰も殺すな。ことの顛末の詳細を明らかにし、全国に広めることで我らの天下布武が一気に加速する。」


 信忠は頷く。だが心は晴れているわけではなく悲しげな表情のままであった。


「申し上げます!左兵衛大夫殿、御越しに御座います!」


 伝令兵の思いがけない報告に二人の表情が強張った。


「至急大殿に目通り願いたき者を連れ、戻ってまいりました。」


 伝令兵の後ろから甲冑姿の蒲生賢秀が現れ、続いて甲冑姿の男がもう一人現れた。信長も信忠もその男に注目した。賢秀は地面に腰を下ろして主君に一礼する。後ろの男も賢秀に倣って深々と頭を下げた。


「…初めてお目に掛りまする。某は吉川駿河守元春と申します。」


 丁寧な口調で語られたその名に陣幕内の一同が驚いた。



「……此度は、毛利家の内紛に乗じて一部の輩が羽柴筑前守殿の諫言に乗りて内大臣様にたてつきたる談…平にご容赦を…。」


 元春はもう一度頭を深く下げた。さすがの信長も信忠もどういう経緯で毛利家の重鎮が突然やってきての土下座に混乱した。元春は間髪入れずに二通の文を差し出した。蒲生賢秀が受け取り、それを小姓の荒尾平左衛門成房に渡す。平左衛門は二通の文を見て驚いた表情を見せたが、すぐさま気を取り直して信長に渡した。信長は文を見て一度元春を見直した。折りたたまれてあ文を広げて目を通して行く。二通目も開いて目を通している途中で笑い出した。


「カカカッ!…無吉の奴はどこまで見えておるのだ!駿河守!無吉とどのように知り合うたか申せ!」


 信長の言葉に隣に座る信忠も吃驚して慌てて文を受け取った。そして内容を読んで元春を二度見した。


「…無吉…と申すはその文の主である“生駒吉十郎”のことで御座るか?」


「そうだ!」


 信忠が食い入るように答える。


「直接はお会いしたことは御座らぬ。…だがその文に書かれたる文言…某がここ数年懸念していたことをピタリと言い当てておりまする。…正に某が主家の御為に命を賭す価値のある“言”と考え…。」


「…無吉、いや生駒吉十郎がここに記す通りに文を輝元に書かせ、持参したと申すか?」


 信長は目を見開いて元春を睨みつけた。さすがの元春も信長の目に見えぬ圧力に一瞬怯んだが、すぐさま姿勢を正して頭を下げた。


「仰せの通りに御座います。」


 信長は恭しく頭を下げる元春をじっと見つめた。長い沈黙が陣幕を支配する。共に地面に座る蒲生賢秀は沈黙に耐え切れず言葉を発した。


「大殿…彼の者と道中話しておりましたが「黙れ!」…はは!」


 途中で信長に遮られ黙り込んだ。更に沈黙が続く。その間ずっと信長は品定めをするかの如くじっと元春を見つめていた。そして輝元が書いた書状に再び目を通した。


「…毛利殿が織田家に下ることで、儂に何をもたらしてくれる?」


「毛利十万の軍勢を内大臣様の号令ひとつで九州へ渡らせ、織田家に背を向ける者共を払ってご覧に入れまする!」


「小早川殿はどうする?」


「…当主隆景は切腹。御家は断絶、家臣一同は織田家にお預け致しまする!」


 冷徹な判断である。兄弟といえど主家を滅亡の危機にさらした張本人なのだ。庇おうものなら連座の危険がある。元春は即座に弟を切り捨てる発言をした。


「で、あるか。…して、吉川殿は儂に何をもたらしてくれる?」


 元春の身体が強張った。明らかに想定していない質問を受けたようだった。返答を用意していなかった元春は黙り込んでしまった。そこへ信忠の小姓が血相を変えて走ってきた。


「も、申し上げます!帯刀様のご家来と名乗る者から…「来たか!」…は?」


 帯刀の名を聞いて信忠は立ち上がって声を張り上げた。


「吉報であろう!保護致したか!?」


「は?はは!確かにその者は“保護した”と言っておりました!」


 小姓は信忠が興奮する理由もわからず聞いた通りのことを述べた。その内容に信忠は満足そうに頷いた。そして信長がパンと膝を叩いた。


「吉川駿河守!儂に同行せよ。……これより織田家、毛利家に巣食う毒虫どもの退治に出かける!」


 信長が勢い良く立ち上がると続くように信忠が号令をはなった。


「出陣である!」

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