10.織田信長という男
読者の皆様、おそくなりまして大変申し訳ございません。
一時間おきに三話連続投稿します(2)
信長は考えていた。
政権をスムーズに移譲する方法を。
全国の武家が息子信忠への政権移譲を認めさせるには、織田家が他の武家と異なり“特別な存在”の地位であり、その地位を世襲によって移譲させるのが尤もだ。
特別な存在の地位。それは過去の実績から考えると「征夷大将軍」に他ならない。だが、将軍であればどこまでも全国の武家が織田家に首を垂れるのかというとそうではない。それも過去の歴史が物語っている。
やはり織田家を特別な存在にするには織田家を中心とした政権を維持するための機構組織が構築されており、これを天皇を中心とした公家衆が容認していることが重要だ。
信長は一冊の書物を手にして中を開いた。
それは、昔に勘九郎が拾い吉乃が育てた餓鬼が書いた文書。そこにはこうやって信長が何度も何度も悩むようなことがいくつも書かれていた。
織田政権。これに必要なものは将軍に替わる新たな地位であると書かれている。朝廷が発給する官位の最高位は正一位太政大臣。だが正一位は公家共が難色を示すことは間違いない。強行すればまた公家との関係が悪くなるだろう。そう考えると信長はさらに深く思案に入った。
昼過ぎ。小姓たちと簡単な食事を済ませた後、信長は摠見寺へと向かった。境内の清掃をしていた小坊主達が信長の姿を見かけてギョッとした表情をすると慌てて奥へと走り去り、暫くして住職を連れてやって来た。信長はぺこぺこと挨拶をする住職を一瞥し、
「梅岳と覚顕を呼べ。あと、誰も牢屋敷に近づけるな。」
それだけ言うと、スタスタと境内を進んで行った。残された住職と小坊主達は暫く呆然としていたが、信長からの怒りを恐れあたふたと二人の老僧を呼びに行った。
大男はじっと座っていた。前田慶次郎との相撲の朝稽古を終えて火照った身体を冷ますため、汗が乾きやすいよう諸肌となって縁側で風を受けていた。
「なんだ…もっと不自由な暮らしをしているかと思ったが、意外と穏やかな雰囲気だな。」
突然の声に驚くわけでもなく声のした方を見てから大男は一礼する。顔を上げるとむっつりとした表情で返答した。
「ご住職の計らいにより快適にはなりました。…どうぞ。」
大男は姿勢を崩さず立ち上がると信長を部屋に招き入れようとした。信長はフッと笑みを浮かべると草履を脱いで縁側から部屋に入りどかっと上座に座った。前田慶次郎と津田与三郎が素早く障子を閉めて回り、外から室内が見えなくなった。準備が整うと三人が下座に腰を下ろして頭を下げた。
「無吉よ…聞きたいことがある。」
信長の声に無吉と呼ばれた大男は頭を再び床に付けてから顔を上げた。
「何でございましょう。」
「フン…名を言い改めぬのか?」
「今はその名は名乗れぬ身に御座います。如何様にもお呼び下さい。」
「お前からそんなしおらしい言葉が聞けるとはな。…まあいい。聞きたいのは…天下について…じゃ。お前は諸国の事情にも詳しく、古今の伝統にも精通しておる…どこでそんな知識を得たのか知らぬが。また各方面に知人も多い。そんなお主の事だ、天下を1つにまとめた後、どう治めていくべきか頭の中にあるのであろう?」
下座に座る大男は目を閉じて首を振った。
「…“治”のお話ですか。残念ながら“治”についてはまだまとまっておりませぬ。」
“治”とはこの無吉という男が掲げる「天下の静謐を長く維持する為の四つの力」のことである。“武”“財”“治”“天”と呼んでおり、“治”とは国家を運営するために必要な組織力のことを表している。だが約千年に渡って日ノ本を支えていた律令制度を覆して新たな組織制度を作り出せば混乱が起きてしまう。だからと言って過去の武家頭領が踏んだ今の制度をそのまま踏襲しての組織つくりでは長期政権維持はできない。良い案が浮かばず、信長は無吉を訪ねてきたのだ。
しかし無吉は案をこの場で言うことを断った。はっきりとした口調では言ってはいないが、案があるのに言うことを憚ったのだ。信長の表情が険しくなっていく。同時に与三郎が強張らせていく。
「無吉!増長するなよ!」
信長が声を張り上げ立ち上がったところで、住職に呼ばれた梅岳と覚顕がやって来た。
「大殿様、お呼びとお聞きし参上仕りました。」
そう言うと無駄のない所作ですっと無吉の両隣に座った。立ち上がって怒りを露にしていた信長は気分を削がれた形となり、フンと言って座り直す。二、三度深呼吸をしてから話を振った。
「…最近の城下の様子を報告せよ。」
梅岳と覚顕は元々この無吉という男の客将であったが、無吉が此処に軟禁されることとなってから、信長の命で出家して無吉の護衛役となっていた。だが信長は護衛以外にも仕事を命じていた。
「近頃は西国の商人と駿河相模の商人が増えております。」
「……もっと詳しく話せ。」
「さすれば…西国の商人は安土での物の値段をしきりに確認しており、東国の商人は織田家との口利きの相手を探してる者が多う御座います。」
「西と東では此処へ来る目的が違う?」
「左様に御座います。」
信長と梅岳やり取りが続き、沈黙が流れた。信長は考え込んでうんと頷くと無吉に話を振った。
「無吉、お前の意見が聞きたい。」
無吉は暫く考え込んでいたがやがて信長をまっすぐに見据えて答えた。
「大殿様におかれましては暫く城にてご自重下さりませ。」
無吉の言葉には信長だけでなく、二人の隻腕の老僧も驚いた。
「訳を聞こう。」
「仰る通り、それぞれの商人は異なる目的で安土を訪れております。しかし西も東も目的は違えど大殿様の動向を伺っているのは明らか。そしてそれは大殿のお命を狙うための貴重な情報になります。」
信長は顔に怒気を漲らせた。
「儂に隠れろと言うか!」
「大殿様は常によくお考えられていると思いまする。この先の事、今の事、京の事、安土の事、周辺諸国の事、御台様の事、勘九郎様の事……。ですが、ご自身の事については無頓着と思えるほどお考えになりませぬ。」
信長は言葉を詰まらせた。
「忠三郎殿から聞いております。時折城を抜け出し城下の様子を自ら確認されておると。毎度小姓たちは大慌てだと嘆いておりました。」
「だ、だがちゃんと変装しておる!」
「見る者が見れば大殿様だとわかりまする。大殿様だと知って声を掛けて来る者も居るのではないですか?」
信長はまたしても押し黙る。
「大殿様の行動が読まれれば、刺客を放ちやすくなります。ご自重下さいませ。」
「民の笑顔を見るのが儂の楽しみなのに!」
確かに信長は下々の者と話すことを好んでいる。そして彼らとの会話には笑顔が絶えない。それは古渡城主だった頃から全く変わっていない。
民を楽しませる。
信長が戦のない世を作る原動力がそこにあるのだろう。
だが……
「ご自重下さりませ。…今、引き籠って頂ければ、この吉十郎がもれなく付いてきまする!」
思いもかけぬ提案に隻腕の老僧と慶次郎も驚いた。信長は目を見開いている。民の笑顔と吉十郎との日々の問答。信長は脳内で二つを天秤にかけて考え込んでいた。
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信長様は時間を見つけては城下を歩き回って町の者との他愛もない会話を楽しんでおられた。それは幼い頃から古渡で行ってきた信長様のストレス解消法だったのであろう。故に信長様には公家との謁見や内裏に参内するための朝服。家臣や諸侯と会談するときの直垂。軍議を開く際の軍服。城下に遊びに出かける狩衣などをいくつも用意しておられた。
お洒落好きだと言われればそうかもしれぬが、尾張の一城主からのし上がった信長様からすれば、自分を偉く見せる手法の一つであったのであろう。それでも幼い頃に影響をうけた下々の者との会話は最後まで捨てることはなかった。
人々から恐れられ畏怖の念を込めて様々な呼び名を持つ信長様は、人々から慕われて笑顔の絶えぬ街作りを行われたお方でもある。
恐怖の第六天魔王。
気さくで我儘なお殿様。
どちらも織田信長を現す言葉である。だが信長様の本性は後者であり、前者は目的を達するための作られたお姿。故に晩年の信長様はその虚像に大いに悩んでおられたことを記憶する。
私は乱が起きる直前に信長様と過ごし、そのお考え、ご気性、その喜怒哀楽を全てを見てきた。
人は一人では生きて行けぬ。
特に信長様は感情の起伏が激しく、他者の感情を甘受しやすい方でもあって沸き上がった感情を抑え込むために何度殴られたことだろう。
…されど今となってはそれも懐かしい。
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1580年8月20日 近江国安土城奥屋敷-
本丸御殿と二の丸を繋ぐ廊下の途中に作られた小姓の待機所も含めた日陰で覆われた場所。
この屋敷の一画が俺の新たな居住場所となった。他にもいくつか候補があったのだが、ここが一番安全だと信長様に此処で暮らすよう命じられ、最低限の衣服のみ持って連れてこられた。
前田慶次郎と津田与三郎は俺の他の武闘派系家臣と共に池田の親父殿に預けられた。女房達は蒲生様預かりのままで、どのように過しているのかもわからない。先日、蒲生様経由で、奏、百丸、竹丸(福の子)、博丸(留姫の子)もすくすくと育っていると聞いた。孫十郎の嫁となった考も無事に女子を生み、我が家は子宝に恵まれていると思う。
だが俺は立場上一人きり。俺が暮らす部屋に入れるのは信長様から許可を得た者のみで、普段は蒲生様の抱える近江小姓衆によって警備されている。信長様の小姓衆は近づけない仕様だ。
ところが先日、俺に会うことを許可された小姓がやって来た。背丈は俺と変わらぬ巨躯で、黒い肌に白いぎょろ目が輝き、縮れた髪を無理やり結った歪さを持つ男。
弥助である。
「Hey!Kichijuroh! I want'u to teach Me! Japane's Language!」
弥助は俺に英語で話しかけてくる。かなりネイティブなんで正直聞き取れない。それでも弥助は俺が英語を理解できていると思い込み話しかけてくる。
弥助は安土を訪問したイエズス会の宣教師から譲ってもらった黒人奴隷だそうで、日本に来てひと月しか経っておらずほとんど日本語が理解できない。信長様の超お気に入りだが異様な風貌に他の小姓たちからは気味悪がられて孤立しており、偶々彼の話す英語を聞き取れた俺を気に入って、信長様の許可を貰って毎日のように此処に来るようになった。信長様からも「弥助に作法を教え込め」と言われたが俺はほとんど弥助の言う言葉が理解できない。身振り手振り+「OK」と「グッド!」とかでやり取りしてるだけだ。
それでも弥助は嬉しそうに俺に話しかけてくるのだ。
1580年8月25日 近江国安土城奥屋敷-
弥助に身振り手振りの作法指導をしていると、信長様が小姓衆を引き連れやって来た。俺はすぐさま下座に移動して頭を下げる。弥助もそれに倣って頭を下げた。
「弥助、様になって来たな。」
信長様が弥助に声を掛けるが、弥助には何を言われたかわからず、俺に視線を送った。
「Yasuke! Niceえ~とCarriage!」
俺が知ってる英単語で伝えてみると弥助が驚いた表情で信長様に再び頭をさげた。
「アリガトーゴザマス!」
弥助の大きな声に忠三郎を除く若手の小姓たちが失笑して卑下するような視線を送るが、俺がわざと咳払いして信長様に声を掛けた。
「弥助は言葉が判らない分、目でしっかりと見て覚えるようです。物覚えも良く、半年もすれば大殿様のお傍を任せることができましょう。」
小姓たちが怒気を漲らせて俺を睨みつけるが俺は意に介せず信長様に一礼する。忠三郎はその様子を見て苦笑した。
「であるか。で、今日はお前に知らせを持ってきた。四国で一条の残党が降伏した。河野は村上の支援で粘っておるがもはや時間の問題だ。金柑頭と禿ネズミの動きが緩慢だが…お前はどう見る?」
俺はゆっくりと頭を上げて信長様を見据えた。
「しからば…弥三郎様を安土に帰らせませ。」
「…であるか。」
「明智様と羽柴様は互いにけん制し合っていると考えます。このままでは戦線を前に上げることができませぬ。どちらかを呼び戻すべきかと。」
「どちらがいい?」
「…羽柴様かと。ついでに備前の梟雄を見るのも一興かと。」
「禿ネズミを選んだ理由を聞こう。」
「大殿様の対毛利戦略は“殲滅”です。毛利方の諸侯、国衆は降伏を許さず…です。しかしながら、羽柴様は宇喜多家の調略を行いました。…浦上や公家衆からの口添えもあり、大殿様が公家衆の顔を立てられた形で受け入れましたが、これ以上は不要です。」
「…うむ。では北條はどうすべきだ?」
「今のまま無駄飯を食らわしておいて良いかと思います。」
「…腹立たしいが儂も同意見だな。」
「それから、大殿様は毛利との戦が終われば北條仕置きを考えておられますか?」
「そのつもりだ。」
「仕置きは大殿の名で行うのでしょうが、勘九郎様に北條家に救いの手を差し伸べるようお申し付け下さりませ。」
「救いの手?」
「はい、安土で大殿様に仕える氏直様とは別に北條別家を残せるよう計らい、恩を売るのです。」
信長様が表情を変えた。魔王度が上がり周囲の小姓たちが小さく悲鳴を上げる。
「…何故儂が領地を没収すると思うた?」
「織田家は出羽、陸奥を治めるにあたり、武蔵に新たな経済基盤を作ろうと考えておられます。そしてそれは北條家の持つ組織体制を打ち壊すのが最も適当と考えたからです。」
俺の言葉に信長様は更に魔王度を上げた。弥助も思わず顔を伏せた。
「貴様…誰から情報を得ておる?」
「妾が介様のお考えを説明しておりまする!」
障子が開き外から光が差し込む。俺は姿勢を正して頭を下げた。小姓たちが慌てふためく。信長様が目を伏せてため息を吐いた。そこには御台様が立っておられた。…それにしても後光の差し込むような登場の仕方ってどうなんだろうと思いながらも、俺は部屋の中に入ってくる御台様の足元に視線を送りつつ様子を伺った。御台様は俺の前で立ち止まり腰を下ろして信長様に一礼した。
「近頃はなかなかお越し頂けぬ故、こちらから参りました。」
はきはきとした口調の御台様に舌打ちを打ったような顔の信長様。只ならぬ雰囲気に周囲の小姓は固唾を飲んでいる。
「……吉十郎は、赤子の頃より我が子らと育った仲。妾にとっては我が子も同然。…だのに、此度の件、妾に説明もして頂けぬ…。何やらやましいことがあるのではと要らぬ感情を持ってしまいまする。」
信長様が頭を掻いた。この仕草をするときは悪いと思っているが返答に困っているときだ。そして周囲の小姓が驚いている。
「……濃。儂がこ奴を此処に置いたのもお前が会えるよう取り計らったつもりじゃ。お前には何も言わんでも儂の事をよう解ってくれると思うていたのだ。」
「妾は!「ああもう良い!」」
信長様は御台様が何か言おうとしたのを遮った。荒々しく立ち上がって御台様の手を取って立ち上がらせるとそのまま引っ張って部屋の外に出て行った。御台様は驚きつつもうれしそうな笑みを浮かべて信長様についていく。俺は頭を下げたまま二人の様子を見送るとため息を吐きだした。
「…吉十郎、どうした?」
気を落としている俺を目ざとく見つけた忠三郎が話しかけてきた。俺はわざと周囲に視線を向ける。様々な感情を込めた目で俺を見る小姓たち。俺に対してひれ伏す弥助。心配しているように見せかけ不敵な笑みを浮かべる忠三郎。
信長様、御台様。貴方がたに関わると自分の身が危ういと感じることが多々あるのです。
御台様はその後暫くはご機嫌よろしく過ごされていたらしい。何があったかは想像はできるのだが、俺は知らぬふりをして日々を過ごした。
信長様はあの時交わした会話の通りに実行される。
弥助:織田信長の死の直前まで仕えていた小姓の一人で、その正体は宣教師から譲り受けた黒人奴隷だそうです。弥助に関しては様々なお話がありますが、史実では信長の家臣になるのは1581年です。物語の都合上1年早めました。実際に英語をしゃべっていたかどうかは不明です。
小姓衆:戦国期における小姓の役割は主に二つでした。
主家への人質
各地の有力大名が自身の影響下にある諸侯から後継ぎまたはこれに準ずる若年者を傍に置き、各諸侯を従わせるようにしていました。
長曾我部信親や北條氏直などの有力大名からの人質は客分相当として後述の取次衆などからの警護を受けていました。
他は雑役衆というお抱えの坊主に武芸学問を学ばせる名目で軟禁しています。
当主の身辺警護
常に主の側に仕えて緊急時には身を挺して主を守る役割を持っていました。本物語の信長様は有望な若人は御側衆という常日頃から身辺警護を任せる集団と、取次衆という来訪者の取次ぎ、文の配達、伝令使者役とを使い分けております。
堀秀政や蒲生氏郷は取次衆として仕えて頭角を現し、数千の兵を率いる武将として活躍します。森蘭丸や弥助は御側衆として信長の信任を得て最期までお供をしております。
安土にはこの他に、近江小姓衆、尾張小姓衆といった蒲生様丹羽様直轄の城内警備担当者や、女房衆という二の丸の濃姫を頂点とした雑務諸般を賄う女性集団が働いています(小姓…ではありませんが)




