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6.光秀の変貌




 1580年3月21日 美濃国岐阜城-


 織田信忠は竹中重治と塩川長満、斎藤利治を呼び寄せた。既に下座には西野衆の男が座っており、甲斐での活動結果を報告せんと待機していた。

 やがて主君に遅れてやって来た面々が着座するのを見て信忠は男に声を掛けた。


「以後、西野衆からの報告はこの四人だけで聞くこととする。…ああ、後ろの坊主はただの岩だ。居たり居なかったりだ。気にするな。」


 信忠の言葉に男は振り向いてぎょっとした。いつの間にか老坊主が座っていたのだ。男は坊主の正体になんとなく気づいたが何も言わず正面を向きなおす。


「ではご報告いたします。武田の一門衆であった穴山伊豆守の周辺で伊賀者と思しき輩がうろついております。警戒が強く近づくことができておりませぬが何かしらの企みを持っておると思われます。」


 信忠は「ふむ」と頷いた。


「伊賀者と思しき輩は駿河方面から現れております故、協力者がそちらにおるものと思われます。」


「…その協力者に心当たりは?」


「は、まだ証拠は御座いませぬが、今川治部大輔が濃厚でしょう。孕石元泰の動きが活発になっていることは確かめております。」


「…だが確たる繋がりまでは確認できておらぬと。」

「申し訳ござりませぬ。」


 男は頭を上げて謝罪する。報告を聞いた信忠は考え込んでから半兵衛に話を振った。


「半兵衛の意見を聞きたい。」


 半兵衛も考え込んでいた。甲斐・駿河で何かが動いているが情報が少なくまた目的も不明。これでは思考が繋がっていかない。


「河尻殿はどうされておる?」


 半兵衛は男に質問する。


「淡休斎様の言いつけで軍備を整えるほうに注力しておりまする。」


 男の答えに半兵衛は納得いく素振りで頷く。


「甲斐の統治は淡休斎殿の案で圧倒的な武威で周辺国人に圧をかけるやり方で問題ないと思う…いくら穴山伊豆守であっても手足となる国人衆がいなければ何もできないはず。だのに…」


「穴山家は武田の血の濃き家柄です。変に旗印として担がれる前に滅ぼしてしもうた方がよいのではないですか?」


 斎藤利治が主君に質問するが信忠は首を振った。


「旧武田領内での戦は行わぬ。それが仁科殿との約束だ。奴らには織田家のほうが強いことをわからせて臣従させなければならない。」


 信忠の強い口調に利治は素直に頭を下げた。これ以上の戦は甲斐では死活問題なのだ。今は武威や支援による懐柔が良策なのである。


「…問題は誰が首謀者なのか…と思いまするが、殿には心当たりが御有りではないのですかな?」


 これまで黙って聞いていた岩と呼ばれた老僧が言葉を発した。信忠がその声に頷き顎に手を当てる。


「……家康…か。」


 塩川長満が目を見張る。


「先の戦で捕らえた徳川兵からの話では逃げた家康はほとんど兵を伴っていなかったと!…家康に今川や穴山を動かす力など…。」


「前田殿の報告では、遠江の各城は金銀、銭や武具、兵糧はほとんど残っておらなんだ…と。我らへの返済と無理な開戦のためになかったものと思うておりましたが…。」


 半兵衛が意見を述べると信忠が言葉を続けた。


「どこかに隠した…ありえるな。」


 信忠の意見に皆が頷いた。徳川はしぶとい。昔から辛うじて生き残って強かに勢力を拡大してきた。どうも常に失敗した時のことを想定して行動しているように思える。そうなると一番注意すべきは武田旧臣のほうではなく、駿河のどこかに潜む家康ではないか。誰もがそう考えた。


「淡休斎殿に駿河方面を徹底して調べるよう伝えよ。家康の潜んでいる場所を探し出すのだ。」


 信忠の命に西野衆の男は勢いよく返事した。部屋の隅で老僧はため息を一つすると気づかれることなく部屋を出て行った。



 結果的に信忠の差配は裏目にでた。



 後に西野衆を駿河方面に注力させたことにより、信濃小県の海野一族が領地を捨てて出奔したことを知る。



 1580年3月22日 丹波国亀山城-


 ようやく摂津有岡城が落城した。


 密かに兵糧が運び込まれていたことを突き止めた光秀はその補給路を断ち降伏を勧めていた。だが村重は頑なに拒否し籠城し続けた。

 だが、兵糧の絶たれた有岡城は飢餓に苦しみ、日に日に城を脱走する者が増えていく。光秀も脱走する者を捕らえたが、下っ端の者ばかりであったためやがて無視するようになる。そしてある日、村重が逃亡したことを知った。主を失った家臣が協議して光秀に降伏する選択をしたのだ。


 逃亡を知った光秀は感情を爆発させた。普段では絶対見せない怒りに任せた気性を見せ、家臣たちは震えあがった。辛うじて理性を取り戻した光秀はすぐさま城内に突入し片っ端からひっ捕らえ、安土に報告した。


 その後光秀は、信長の命に従い荒木一族を処刑した。老若男女問わず赤子まで処刑という苛烈さであり、一部で処刑に対して不満の声も上がったのだが光秀はこれを力で封じ込めた。


「この先荒木村重の様な輩が出てこぬよう見せしめなのだ!このことを各地に噂が広まるようにせよ!」


 光秀の命は直ちに実行され、荒木一族の最期について西国各地に広められた。


 後年、有岡城のことについて光秀は日記にこう書き残している。


「私は信長公と信忠公とで求められるものに違いがあることを知った。信長公の下では“武”や“覇”を求められ、信忠公の下では“文”や“治”を求められた。私自身は信忠公の下で働くことが性に合っていると思ったが、信長公から禄を頂く以上、“武”や“覇”でもって進まねばならなくなった。…とても苦痛である。」



 淀衆率いる前田慶次郎と津田与三郎はこの戦に加われなかった。ある日突然武装解除を命じられ、全員縄に繋がれ亀山城に送還された。兵を率いていた二人は明智光秀と面会する機会も与えられず、亀山城の地下牢に閉じ込められた。



 4月2日、亀山城の地下牢に家臣を従えて明智光秀がやって来た。二人は慌てて胡坐を組んで姿勢を正し光秀に向かって一礼する。光秀はその仕草を鼻で笑った。


「お前たちは何故此処に閉じ込められているかわかっているのか?」


 突然の質問にいつもと違う口調と態度。二人には思い当たる節もなく押し黙っていると、


「お前たちの主、久保田吉十郎は村重と通じていた…。」


 二人は目を見開いた。主がそんなことをするはずがない。誰よりも家臣皆が知っていることである。瞬時に二人は誰かの計略によるものと考えた。


「証拠は?」


 慶次郎が聞き返すと光秀は書状を取り出し、二人に見せるように前に掲げた。兵糧物資の目録を書いた書状だが二人は書状の文末に目を向けてまた驚いた。確かに主の字で“久保田吉十郎”と記載されていた。だが直ぐに否と否定する。


「…偽物ですな。」


「何故そう思う?」


「たかが兵糧の目録ごときに自らの名を晒す理由が御座いませぬ。」


 正論を突き付ける慶次郎。


「他にも有岡城支援を約束する書状も手に入れておる。…それは大殿にお渡ししたがな。」


「…この時期に村重を支援する意図が判りませぬ。」


「おおかた毛利と通じて行ったのであろう。」


「ならば毛利と通じている証拠がござろう?」


「黙れ!」


 光秀が激高する。


「いずれにせよ吉十郎は大殿を裏切った。今頃は金ヶ崎(・・・)で寒さに凍えておろう。」


 二人は同時に腰を浮かせた。まさか既に処分されているとは思わなかった。これでは小折生駒の件と同じではないか。言いかけてぐっと堪える。そんな二人に光秀は追い打ちをかけるように言葉を浴びせた。


「お前たちも安土へ送られる。淀城は既に接収された。吉十郎の家臣もすぐに処分が下されるであろう。」


 憎しみを込めた光秀の言葉に慶次郎は唇を噛み締めた。あり得ない!と暴れたかったが我慢して俯く。それを観念したと見た光秀は薄ら笑いを浮かべ家臣を引き連れ帰っていった。


 残された二人はしばらく黙ったままだった。やがて与三郎がぽつりと漏らす。


「明智様は変わられたようだ。」


「うむ…人を疑うようなお方ではなかった。…先の謹慎の折に何かあったかも知れぬが…。」


「殿は某の手を取って言われたのだ。“明智様をお守りせよ”と…。ここで明智様の下を離れるのは口惜しい。」


 与三郎は血が流れるほど唇を噛み締めていた。慶次郎はかける言葉も見つからず、薄暗い牢の地面を見つめていた。




 1580年4月4日 近江国安土城-



 やることもなく、無心に写経していた俺たちの下に客が現れた。客…というより投獄仲間であったが。

 明智様に遣わしていた慶次郎と与三郎が帯刀(たちわき)様に連れられてやってきたのだ。


「吉十郎、お仲間を連れてきたぞ。」


 普段と変わらぬ口調で俺に話しかける。


「有難う御座います。これで退屈せずに済みます。」


 俺の返事にカカカと笑う。慶次郎と与三郎は俺がここにいることに驚いていた。


「金ヶ崎に幽閉されたと聞いておりました。」


 帯刀様がすぐに補足した。


「表立ってはそうしている。実際にも図体のいい男を金ヶ崎まで引っ張ったからな。」


 俺は無言で頭を下げる。やはり、織田家は俺を守るために動いている。俺は半蔵殿を見た。半蔵殿は慶次郎に会釈をしていた。


「…貴殿は確か堺で…?」


「その頃は徳川家に仕えておりましたが。」


 なんか意味深な会話…あとで聞こう。


「帯刀様、茜は…岐阜の屋敷の連中は…?」


 俺は一番気になることを訪ねた。


「塩川殿預かりで加納口の塩川屋敷におると聞いた。安心いたせ。塩川殿も勘九郎から事情を聴いておる。」


 俺は胸を撫で下ろす。淀の連中も交野で無事。嫁たちも無事。そして慶次郎たちも無事に戻ってきた。一安心だ。


「慶次郎、明智様の様子は?」


 俺の質問に与次郎が泣き崩れた。慶次郎は深いため息を吐く。


「…何か、覚悟をされたようなご様子でした。」


「覚悟…?」


「はい、大殿様に従い修羅の道を進むかのような…。」


 俺が感じた覇気みたいなものは間違いではなかったか。やはり明智様は謹慎をきっかけに何かが変わられた。一体何が?


「帯刀様、明智様は坂本に謹慎されている間、どう過ごされていたか調べることは可能ですか?」


 俺の質問に帯刀様は首を傾げた。


「明智殿の?確か弥三郎(長曾我部信親のこと)が何か知っているかもしれぬ。…調べておこう。何か気になることが?」


「はい。何者かに吹き込まれた可能性が…。」


 帯刀様は考え込む。そして納得されたようで頷く。だが直ぐに顔をしかめた。


「調べるのであれば、儂が独自に行ったほうが良いな。…全く、儂は上杉家との婚姻の段取りで忙しいのだ。余り扱き使わんでくれ。」


 言いながらもやってくれそうな表情を見せる。それから俺は写経に戻り、最後まで書き上げてからそれを帯刀様に手渡した。


写経(・・)を致しました。お使い下されば幸いに御座います。」


 帯刀様は手に取り、中身を見て一瞬表情を変えた。俺の表情を確認した後、静かにと折りたたんで懐に仕舞う。


「大事に使わせて頂こう。」


 そう言うと、慶次郎と泣きむせる与三郎をお俺たちに押し付けて引き揚げていった。


「…あれが使われないで済むことを願うばかりですな。」


 遠ざかる帯刀様の姿を見ながら半蔵殿が呟く。俺も無言で頷いた。



 あれは経を写したものではなく、織田家弱体化の可能性を文章でまとめたリスク表だからな。




西野衆:信長の兄、山科淡休斎が抱える商人衆です。現在は甲斐に出張って諜報活動を行っています。


津田重久:主人公の家臣でありながらずっと明智光秀の配下として活動していました。どうやら光秀の変貌ぶりに心を乱しているようです。


茜:主人公の正室です。他に側室が3人いますが、いずれも子を産んでいます。



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[気になる点] 海野一族が領地を捨てて出奔したことを知る。 ↑ 所領の安堵こそ第一と考える国人としてはありえないな行動ですね。 もともと武田家累代の家臣でもなく徳川との縁もほぼないことも考えれば父祖伝…
[気になる点] 本文が二重になっとるで
[一言] あとがきに本文がもう一回ありますよー
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