20.出世は望まぬ
三話連続、五部完まで投稿します(三話目)
1579年7月 尾張国熱田-
準備を終え、船も用意し、先触れも行かせている。無事に小田原に着けばスムーズに会見が行われるであろう。
北條家は一応織田家に同盟している。だが形だけであり、信長様からの参戦要請は何かと理由をつけて断っている。人質についても丁重に断られている。この辺りを突いて織田家に恩を売るよう求めればすんなりと許可を頂けるであろう。
何の許可かと言うと、遠江から相模への出兵である。姫様をお迎えするための兵であるから二千程度である。だが、それでも北條領に兵を差し向けるのだから、事前に説明して了承をもらうのだ。たとえ相手が臣従に近い同盟相手であってもだ。俺は今井兼久様の舟で熱田を出発し北條左京大夫様に謁見するため小田原へと向かった。終われば浜松に寄港し、兵を率いて再び相模へ向かう予定だ。
俺は船上で風を受けながら彦右衛門を見た。彼は船酔いによってぐったりとしており青くなった顔でずっと海を覗いている。次に隣に座る庄九郎を見た。美濃を出立してからまだ一度も会話をしていない彼は相変わらずむすっとした表情で遠くを眺めていた。やがて俺の視線に気づく。
「…何故俺を同行者に選んだ?」
「謝りたい…と思ったからでは駄目か?」
「そんな私的な理由でか?」
「今の俺にはそれほど重要なことだからだ。」
俺は素直に庄九郎に謝った。出立前に咲殿にちゃんと詫びるよう言われたからでもあるのだが、素直に言うのが一番いいと俺自身も思ったからだ。
「…………謝罪は受け入れた。今度は俺が気持ちの整理をする番だ。…暫く刻をくれ。」
そう言うと庄九郎は立ち上がり俺から離れていった。
「感謝する。」
俺は頭を下げた。離れたところで兼久様が俺たちの様子をみてニヤニヤされているが、仕方がない。一応仲直りにはなっただろう。
小田原に着く直前、兼久様が俺たちを呼んだ。今は彦右衛門も元気になり三人で兼久様の下を訪ねると、幾つかの書状を持って俺たちを待っていた。
「小田原に到着してからの予定を確認しましょうか。私は別行動ですからね。」
元々商いの予定で同行している兼久様は真っ先に北條家の最長老、幻庵様の下に向かう予定だ。
「幻庵様にこの書状をお渡しはするが、小田原までお越し頂けるかどうかは分かりませぬぞ。」
兼久様は手紙の渡し先を一つ一つ確認するがなぜか表情が暗い。すると察したのか文をしまってため息をついた。
「…熱田を出る前に聞いておりましたが、敢えてご報告しておらぬことが御座います。明智様が大殿の勘気を被り坂本に謹慎されました。」
俺は仰天して勢いよく立ち上がった。…馬鹿な!畿内での戦は順調だったはず!いったい何が起きたのだ!俺は兼久様ににじり寄った。
「吉十郎殿!私が何故熱田で貴方にこの話をしなかったのかをお考えくだされ!」
兼久様の言い返された言葉で俺は気が付く。熱田でこの話を聞けば安土へ向かったであろう。船上では俺はどうすることもできない。俺を思い止まらせるためだという事を。
「吉十郎様、全ては姫様をお迎えしてからです。北條左京太夫様にお会いするのも、松姫様を若殿のもとに送り届けるのも、貴方のお役目なのです。」
諭されて俺はぐっとこらえて座った。様子を見ていた庄九郎は俺の肩を軽くたたいた。
「今は北條の事に集中しろ。」
見ると彦右衛門も頷いている。俺は二人になだめられる形でなんとか落ち着きを取り戻した。
城下町全体が高い土塁に囲まれた小田原に俺は入った。二度目であるが今回は城内にまで入る。港からは北條の兵に囲まれるように案内され追手門から城内に入った。本丸の方ではなく離れにある館へと案内される。その館は来客用でもないようで、周囲は十人以上の北條兵に囲まれており、帯刀も許可されていない。
「…どうやら歓迎されていないようだな。」
俺は周囲に聞こえるように呟くと部屋の中央に座り目を閉じた。二人もこれに倣い座ってじっと待っていた。
結局その日は誰も応対に来られず、女中より食事と寝床だけが用意された。
翌日、朝食の後同じ部屋で待っていると、やがて足音が聞こえて来たので三人は平伏する。
「面をあげられよ。」
声が聞こえ頭を上げて上座を見ると誰もおらず、中座に一人の男が立って俺をじろじろろ眺めていた。
「成程、確かに噂通りの巨躯…お主が“鬼面九郎”殿か?」
俺は関東でも有名らしい。短く返事をするとにやっと笑ってその場に座り込んだ。
「失礼ですが…貴殿は?」
「これは失礼!某、北條左衛門大夫綱成と申す。お主の噂を聞いて挨拶に参った。」
おぅ…“地黄八幡”の人だ…。
「先触れから話は聞いておる。旧知の者を無事尾張に連れ帰る為に、二千の兵を相模に上陸させたい…であったな。」
ん?話を進め始めた?どういうことだ?
「詳しく話を聞きたいと思うのじゃが、生憎左京大夫は忙しい故、某がお伺いしよう。」
ほう…氏政には会わせられない…ということか。
「そうでござったか。ではこちらにお座りくだされ。ご説明いたす。」
俺は綱成に上座へ促す。綱成は手を振って断った。
「いやいや、此処で結構。そもそも旧知の者とは誰に御座る?」
上座は座らぬか。官僚組織体系のしっかりした北條が記録係もつけず、上座にも座らずとは、あくまでも非公式の雑談扱いにする気だな。
「さて?我らは上陸のご認可を頂く為に参った故、名前までは存じませぬ。」
「それでは上陸させられぬ。…では我ら北條が兵を付けて差し上げよう。場所をお教えくだされ。」
「さて?我らは上陸のご認可を頂く為に参った故、場所までは存じませぬ。」
綱成はむっとした。名はまだ良いとして場所を知らぬというのは使者としておかしいかな。綱成は鋭い目で俺を睨みつけて来た。
「…小僧、儂を甘く見ておるのか?」
「貴方こそ某を舐めておりますね。織田右近衛大将の直臣であり、織田秋田城介の正式な使者として北條家をお訪ねしている。…で貴方は?この場は?この扱いは?」
口調は控えめにして畳みかけるように言うと、綱成は鼻白んだ。ぴくぴくと血管を浮き上がらせて俺をにらみつけている。さあどうでるかな?
「…そこまでじゃ!左衛門大夫!それ以上織田の使者を失礼に扱うては北条家の威信に関わるぞ!」
しわがれた声が響き見ると杖を突いた爺様が立っていた。傍らには兼久殿が体を支えておられる。
「ご、ご隠居様…!」
綱成が青ざめた表情で爺様を見ていた。…間に合ってくれたか。ひやひやした。…それよりも北条家は思った以上に関東の覇者として増長しておるな。初代早雲の理念的なものはどうなったのだろう。
「全く…三代目の遺言で織田と争うことを禁じたはずであろう?」
爺様が杖で綱成の頭を小突く。
「し、しかし目的も場所も伏せて兵を上陸させろとは、北条を舐めているとしか思えませ、あ痛っ!」
「馬鹿者!それを許してこそ北条の懐の深さを知らしめることになり、織田家にも貸しを作ることもできよう!そもそも貴様は使者の取次役ではなかろう!江雪斎はどうした?呼んで参れ!」
綱成が慌てて立ち上がり、廊下を外に向かって駆け出した。それを見送ってから、爺様が俺を見てにこりと微笑んだ。
「…久しぶりだの、鬼面の冠者よ。」
俺は丁寧に頭を下げて挨拶する。
「お久しぶりに御座います。あの時は大変失礼を致しました。」
爺様は杖を突きながら上座に移動し兼久の手を借りながらゆっくりと座った。
「よいよい。儂もお主のことを気に入って屋敷まで引き入れてしもうておったからの。他人に聞かれれば怒られるわい。なかったことにいたそうぞ。」
しわしわの顔で爺様は俺を見て笑った。
兼久様によって間一髪交渉決裂を回避できた俺は、慌ててやってきた板部岡江雪斎に申し入れ内容を説明した。松姫様の名は伏せ、甲斐から越境して相模に隠れ住んでいる織田の縁者を迎えに行くと言うと江雪斎は腕を組んで考え込んだ。…さすがに無理があるか。北条としては織田家に貸しを作れると言っても怪しさ満点だからな。北条兵の同行を求められるかもしれん。
「江雪斎、左京大夫の代理として何度か尾張に行っており、この鬼面の冠者も見かけたことがあるのではないか?」
爺様の言葉に江雪斎は俺の顔を見た。俺は会釈する。この者とは何度か顔を合わせている。だがいずれも鬼面を外した状態でだ。
「いえ、鬼面の噂は拙僧も聞いておりますが、実際にお会いしたのは初めてでして…。」
「この者は戦場での武勇のみで織田の殿様に気に入られ淀に所領を持つまで登っておる。これまでは畿内で暴れていたが、東にやってきたということは次代の当主にも重用されているのであろう。後ろの二人は秋田城介の小姓じゃ。恩を売るなら今しかないぞ。」
…詳しいな。
「ですが、何もなしで許可するのは我らの面目が立ちませぬ。大道寺殿の兵を一千ほど付けて同行させるべきと存じます。」
それで手を打とう。これ以上は江雪斎殿に不信を与えることになる。
「有難う御座います。浜松より前田利久が兵二千、海より相模に入り、そこで大道寺様と合流後北上して我らが縁者を救出致します。その後は速やかに海より撤収いたします。」
「大道寺を付けるとしてもそれでも足らぬかのう…?」
欲深いぞ爺。銭も出すって言ってんだ。我慢しろ。江雪斎も考え始めた。まずい。
「…では、我ら三人を人質として前田の兵が撤収するまで北條家にお預けするのはいかがか?」
庄九郎が口をはさんだ。爺が笑う。馬鹿!相手はその言葉を待っていたんだぞ!
「そうか。ではこの者たちは儂が預かろう。儂も隠居して日々暇を持て余しておったのじゃ。」
「それはそれは…では尾張や美濃、畿内のことなど聞くに飽きない話がたんまり御座いましょう。」
今度は庄九郎が顔を青くした。ほら見ろ、毎日この爺から根掘り葉掘り聞かれるんだぞ!精神的に苦痛だわ!
俺の思いと裏腹に北條家との密約は成立し、織田家は一万貫の銭と大道寺氏の同行を認めることで相模への上陸了承を取り付けた。事が全て終わり、織田家の兵が相模から撤退するまで俺と庄九郎と彦右衛門は幻庵屋敷にて話し相手を務めるという苦行を続けた。
前田様の相模行軍は大きな問題もなく終わり無事松姫様御一行を保護して、撤収した。
その間に尾張取次役が甲斐の仁科家との接触に成功し、食糧難に苦しむ甲斐を助け武田家の血脈を存続させることを条件に織田家に下った。長篠で敗北した武田家は俺たちが思っている以上に酷い有様で本家である勝頼に一族を取りまとめる力は失われており、老臣の一人、高坂弾正が死去してからは、分家傍流が勝手をする状況であった。仁科盛信はいち早く人質を美濃に送り、勘九郎様は素早く兵糧を信濃経由で甲斐に送り届けた。躑躅ヶ崎で兵糧を受け取った勝頼は甲斐守護を示す印判と自身の髻を織田の使者に渡し、子の信勝に家督を譲った。
だが信勝の家督継承を認めない一部の甲斐豪族が江尻に集結して徒党を組んだという連絡が入った。勘九郎様は武田当主に従わぬ者どもとして討伐令を発布した。出兵の準備が整えばあっという間に事は終わるであろう。これで家康の再起の夢は絶たれた。
1579年10月 美濃国岐阜城-
身内だけで宴が催された。
出席者は勘九郎様と松姫様、鈴姫様。
塩川様に仁科盛信様、斎藤様に我ら小姓衆である。既に松姫様のことは内外に明文化されており、甲斐救済の象徴として広められている。年明けには盛大な祝言を安土で執り行う手はずになっており、信濃、甲斐について正式に織田家支配領として朝廷から官位を頂くことにもなっている。
勘九郎様は昨年に正四位下、左近衛少将を貰い、年明けに従三位、左近衛中将に昇進という体だ。信長様に至っては、三年前まで遡って官位を受けたことにして年明けに正三位、内大臣に昇進する。これは今までにに飛び級で昇進した例がなかったことから苦肉の策として過去に遡って昇進という形式をとったのだった。
宴での勘九郎様は終始ご機嫌で…いや松姫が来られてからの勘九郎様はずっとご機嫌で我ら小姓衆も気味が悪いと思ってしまうほど。鈴姫様もすぐに松姫様と打ち解けて仲の良いご様子であった。
宴半ばで俺はご主君に呼ばれた。盃を渡され、酒が注がれる。
「無吉。父上からお前への褒美は私に任せると寄こしてきたのだが。」
「存じております。」
俺は返事をしながら酒を頂く。
「…褒美は何が欲しい?」
再び俺に酒を注ぎながら勘九郎様は俺に問いかけた。
「私めに対する過分なご配慮、誠に嬉しき事と存じまする。…しかし、古来より王の寵愛を受ける者がその地位を上り詰めることで、内部の崩壊を招く例が数多存在しております。」
俺は盃を置いた。
「私めは幼き頃より大殿様からもご主君からも良くして頂いておりまするが、私を嫌う者も家中には多くいることも事実にございます。そんな私に過分な褒美は織田家内部の混乱を導くものに他なりませぬ…。」
勘九郎様も酒瓶を置く。
「よって、これより先私めへの褒美は、お言葉のみとして頂きとう存じます。」
俺は手を付き、頭も付いて懇願した。勘九郎様はそんな俺をじっと見つめていた。
「無吉よ。私はお前のことをよく理解している。どんなに能力があろうとも、出自のことでお前を蔑む輩がいることもよく知っている。だからこそ、私の横にいる者として相応しくあらんと禄を上げ、所領を持たせ、官位も付けてやった。…それは過分であったと申すか?」
「いいえ。お役に立つためには一人ではなしえぬことも多く、家臣を持ち、兵を鍛え、有事に備えて使える銭も必要でした。しかし、それらは既に手に入れました故、これ以上は過分に御座ります。」
「ふむ…。」
「久保田吉十郎忠輝、これより先は出世などに目もくれず、ただ只管主のためのみに邁進する所存に御座りまする!」
俺は置いた盃を再びもって殿に差し出した。皆が固唾を飲んでその様子を見ていた。殿は笑ってその盃に酒を注いだ。
「無吉の一途には困ったものだが…だからこそ私はお前を“友”とも思える。…だが、儂の傍を離れるなよ。儂が父に替わって天下に号令を掛けるとき、その声を一番に聞く役目はお前なのだからな。」
「はは!」
「無吉の褒美は、以後言葉のみとする!感状も銭も太刀も領地もやらぬ!…故にお前の台所は儂が抑える。いるものは全て芝山孫十郎を通じて儂に申せ。」
「あ、いや…それは「申せ!」……承知致しました。」
一同はどっと笑った。まさかご主君に養われる身となろうとは。
だがこれでいい。私のような異端な者は出世を望んではならぬのだ。
織田の天下を続かせるために。
~~~~~~~~~~~~~~
1580年1月-
信長様は、内大臣に出世なされた。我が主も左近衛中将に昇進し、武家では最上位の位となる。支配する国も石山を退去した本願寺の影響下にあった河内全域に丹波が加わり、東側は能登、信濃、甲斐、遠江まで広がった。
駿河には未だ今川の残党が抵抗しているが、平らげるのも時間の問題。関東は従属する意思を示した北條家が抑え、代替わりした上杉家の動向次第ではあるが盤石になりつつあった。
紀伊の寺社衆も抵抗が弱まり、宇喜多、毛利を破れば九州討伐も容易になる。
確実に織田家の天下が間近に迫っていることを感じていた。
そして同時に本能寺…あるいはそれに置き換わるような“変”が起こるかもしれないという不安も増大していった。
年が明け、“目出度き事”として明智様が許されて謹慎が解けた。
だが、その目にかつての様な輝きはないように思えた。
私はこの時こそ明智様に「喝」を入れて差し上げるべきだったと後悔している。
~~~~~~~~~~~~~~
第五部:完
蜂須賀家政:蜂須賀小六の息子で信忠の小姓衆の一人。今話では完全にモブです。
池田元助:主人公の友人ですが絶交中でした。一応今話で和解はしています。
北條綱成:父は今川家重臣、福島正成で北條家に亡命後に二代目氏綱の娘を娶って一門となっております。本物語では織田嫌いの筆頭として今後も出てくる予定です。
北條幻庵:初代早雲も末子で元祖長寿武将としても名を馳せております。この頃は既に隠居しており静かな余生を暮らしておったと言われています。親織田派の筆頭で存命中は北條家も大人しくしております。
仁科盛信:信玄の五男で仁科家の名を継ぎます。松姫とは同母で信玄没後、彼女を一時引き取っておりました。その後、勝頼の政策で信玄の血を引く娘は密かに国外に出され、盛信自身もその場所は知らされていなかったようです。
石山を退去した本願寺:本物語では、1579年9月に朝廷の介入で和議が結ばれ、法主顕如は石山を退去して紀伊に逃れております。次話でそのことに触れます。
摂津:村重がまだしぶとく抵抗しています。




