第36話「白骨と胞子の聖域」
意識は、ふわりと漂う香りによって引き戻された。
その匂いは、村の診療所の無機質な消毒液でも、戦場の鉄錆びた血の臭いでもない。刈り取られたばかりの青草の濃厚な芳香と、雨に濡れた古木の深みのある匂いが混じり合ったものだった。圧倒的で、あまりにも生々しい『生命』の香りが鼻腔を侵略し、彼女の感覚を無理やり覚醒させる。
次に戻ってきたのは、触覚だった。
何かが肌の上を這っている。ゾワゾワ……冷たく、ザラついた無数の感触が、腕や足を滑っていく。まるで乾いた枯れ枝が柔らかい肉を擦るような、その粗野な感触に、背筋を悪寒が駆け抜けた。うなじの毛が逆立つのを感じる。
鉛のように重い瞼を、力を込めて押し上げた。彼女を迎えた世界に、空も石の壁もなかった。ルビーのような瞳に最初に飛び込んできたのは、緑だった。ぼんやりと滲む、脈動するような黄緑色。
空気はひんやりとしているが、どこか心地よい湿り気を帯びている。見上げれば、天井は磨き上げられた琥珀のようだ。半透明の黄色い木質構造の内部を、明るい緑色の樹液が複雑な模様を描いて流れている。ドクン、ドクン……まるで眠れる巨人の露出した血管だ。粘性のある液体は重力に逆らい、彼女の上に滴り落ちることなく、光る血流となって自然なコースを巡っていた。
少女は瞬きをした。まだ霧のかかった思考回路が、このありえない建築様式を処理しようとあがく。
「あれ……?」
唇から漏れたのは、純粋な混乱に満ちた音だった。その瞬間、肌を這う感触が強まった。ガサガサというザラついた感触が続く。
まだ横たわったまま、魔術師は力を振り絞り、勢いよく頭をもたげた。ポキッ。首が軽く鳴る。そして、彼女の目に映った光景は――心臓を一時停止させるに十分なものだった。
彼女の体の周りに、小さな集団が群がっていたのだ。編み込まれた木と蔦で構成された、背の低い奇妙な生き物たち。幅広の生きた葉でできたフードを被り、その顔は空洞で無表情な樹皮の仮面に覆われている。
静寂は、ニューロンがその映像を『危険』と結びつけるまでの、ほんの一瞬だけ続いた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!な、なによこれぇぇぇっ!?!?!」
ダイアンヤの絶叫は、天井の樹液の血管を振動させるほど甲高いものだった。純粋な恐怖から涙が滲み出し、視界を歪ませる。身を縮めようとしたが、四肢は泥のように重く、弛緩しきっていて動かない。
生き物たちは、彼女の叫喚を完全に無視した。
ヌチャ……ヌチャ……彼らは機械的かつ無音のまま、作業を続けた。木の指先から光る粘液質のペーストを分泌し、それを少女の肌に直接塗りたくっていく。その物質はダイアンヤに触れた瞬間、スゥッと貪欲に毛穴から吸収され、あとには清涼感と微かな痺れだけが残った。
その中の一体、顔の最も近くにいた個体が首を傾げた。空洞の仮面がじっと彼女を見下ろす。彼から発せられた音は、乾いた小枝をへし折ったような音だった。
『イキタラ・コタ』
ダイアンヤは凍りついた。生き物の目が在るべき場所にある暗闇を覗き込む。枯れ葉を吹き抜ける風の音のような、奇妙な音声。言葉の壁があるはずなのに、彼女の脳はその音の背後にある『意志』を理解し、勝手に翻訳してしまった。
(――鎮まれ、雌の術師よ)
彼が何を言ったか理解しても、安らぎなど微塵もなかった。むしろ逆だ。この異常な状況、エイリアンのような風景、そしてこの植物の『医師団』。パニックは新たな次元へと突き抜けた。
「こっ、怖すぎるでしょおおおおっ!!」
◇ ◇ ◇
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。磨かれた木の床を裸足で叩く音が、有機的な部屋に繰り返し響いていた。
ダイアンヤはじっとしていられなかった。焦燥感が電流のように筋肉を走り、冷静さを保つことを許さない。彼女は意味もなく手振り身振りを加えながら部屋を往復し、混乱する頭の中で、今しがた受け取った――あるいは推測した――情報のカオスを整理しようとしていた。
「つまり……あたしが理解した通りなら、こういうことよね……」
彼女は急停止し、琥珀色の湾曲した壁に向かって、まるで黒板に向かうかのようにくるりと向き直った。
「あたし達はあの沼の化物にボコボコにされて、全滅した。意識を失って、この木のチビっ子たちに助けられた……」
クルッ。再び歩き出し、両手を腰に当てる。声のトーンが上がる。
「あたしとミッコ、それにミッカちゃんは運が良かった。ただ気を失ってただけ。でもレグルスは重傷で、彼ら独自の特別な治療が必要だった。それこそ、ここでしか手に入らない何か……」
再び立ち止まり、親指の爪を噛む。ルビーの瞳が神経質に揺れた。
「でも当然、タダじゃない!その奇跡の薬は超貴重な資源で、その代金を払うために、テセウキとミッカちゃんは『お使い』に行かされた。で、そのお使いってのが何よ?木の人たちを食べる別のモンスターの討伐!?馬鹿じゃないの!?」
頭の中で組み立てた理屈は、あまりにも理不尽だった。
「あの子たちがそんな危険な旅に出てる間、あたし達はここで役立たずのまま寝てたってわけ!?しかも、最初に起きたのがあたしだけぇっ!?」
ハァ、ハァ……息が荒くなる。確証が欲しい。誰かに「間違ってるよ」と言ってほしい。せめて、もう少しマシな説明をしてほしい。
「ねえ!あんたに言ってんのよ!」
彼女は部屋で起きている唯一の『他者』に向かって体をひねった。
小さな『樹液の子』は床に座り込み、魔術師の存亡の危機になど全く関心がないようだった。枝でできた指とは思えない器用さで、枯れ葉と小枝の山をいじり、小さな人形のようなものを作っている。
彼女の怒鳴り声を聞いて、生き物はゆっくりと無表情な仮面を上げた。パキッ。カサカサ……軽い破裂音と、葉擦れの音が奇妙に肯定的に響く。
『コクリ?』
「そうよ、あんたよ!答えなさいよ!」
彼は再び小枝遊びに戻った。まるで、彼女の友人の悲惨な運命を確認することより、手の中のゴミの山の方が興味深いとでも言うように。
ダイアンヤは血の気が引くのを感じた。肯定された。だが、それは新たな、より恐ろしい疑問を連れてきた。彼女は生き物の前にしゃがみ込み、そのパーソナルスペースに侵入した。
「あの子たち……行ってから……」声が震え、勢いを失う。「どれくらい経ったの?あたし、何日寝てたの?」
小さな生き物は遊ぶ手を止めた。首をかしげ、空虚な仮面でダイアンヤを見つめる。木の指を二本、空中に立てた。
『デコ・トウ』
ダイアンヤの脳が情報を処理する一秒の絶対的な静寂が部屋を満たした。そして、爆発。
「二つの月齢ぃぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
ビリビリビリッ!絶叫の衝撃で、天井からパラパラと埃が落ちてくる。
「あの子たちは外で丸二日も戦ってるのに、あたし達はここでグースカ寝てたって言うの!?死んでるかもしれないじゃない!迷子になってるかも!それとも巨大な人食い植物に消化されてるとか!!」
彼女は再び体を回転させ、このフラストレーションとパニックをぶつけられる相手を探した。樹液の光が届かない部屋の隅、そこに横たわる人影に目が釘付けになる。
「ちょっとあんた、知ってたの!?テセウキとミッカちゃんが大変な時に、よくそんな静かにしてられるわね!!」
影が動いた。気怠げな腕が持ち上がり、ダイアンヤのヒステリーを前にして侮辱的とも言えるほどゆったりと、後頭部をかいた。ボリボリ……
「……だーかーら、落ち着けよ、姉貴……」
ミッコの声は間延びし、眠そうで、そして苛立つほど冷静だった。片目だけを開け、部屋の中央で髪を振り乱して喚き散らす魔術師を見やる。
「叫んだって時間は戻らねえっての。……それに、あの時の一撃でまだ頭が痛えんだよ、俺」
ダイアンヤは急に動きを止めた。ガクリ。両腕が力なく垂れ下がり、絶望に染まった顔で現実を受け入れる。「……あんたの言う通りね……ここで喚いても、何も変わらないわね……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
行軍は、長い二回の太陽の巡り(ソーラー・サイクル)の間続いた。足の筋肉を悲鳴させ、肺を焼き尽くすような過酷な旅路だった。ハァ、ハァ、ハァ……
彼らがようやく足を止めた時、眼前の光景は劇的に変化していた。一行は次の『古樹』――第九環に近い危険な境界を示す番人――に到達していたのだ。そこから先、風景は一変する。かつては地平線の彼方にある影でしかなかった乾燥した灰色の山々が、今や圧倒的な威圧感を持ってそびえ立っていた。ゴゴゴゴゴ……
その山脈から放たれる空気の密度を、肌で感じることができた。視界を熱の蜃気楼のように歪ませる、重く、煮えたぎるような大気。そして、その石の砂漠の遥か彼方。キラッ……孤独で到達不可能な星のように輝く、『黄金の都』の反射光。それは儚い一瞬の輝きに過ぎなかったが、聖なる場所の光は、山々の灰色の憂鬱に抗っているようだった。
彼らは巨大な木の根でできた自然の大通りを歩いていた。緩やかな螺旋を描いて上昇し、古樹の縁へと直結する道。その構造物は樹冠の内部へと伸び、道を飲み込んでいく。
ザッ、ザッ、ザッ。
光が濾過される森の深部とは異なり、ここは稀有な遷移点だった。空は露出して生々しく、彼らを守り隠す巨木の天井はない。道が新たな木の闇へと没するその瞬間までは。
だが、何かがおかしかった。テセウキは足を止め、周囲の植生を観察しながら目を細めた。
ここの緑は、異質で病的な性質を帯びていた。前の木のような生命力に満ちた純粋さも、眼下の沼地のような湿った黄色味もない。冷たい色。青みがかった緑がすべてを支配していた。生きた皮膚に浮かぶあざのような、青白いシアン色の斑点が、幅広の葉や枝の幹を這い上がり、静かに侵食する汚れのように広がっていた。
そして、その匂いがやってきた。ムワッ……
土や雨の香りではない。山から来る希薄な空気の乾燥と、腐敗しつつある有機物を混ぜ合わせたような、吐き気を催す混合臭。その臭気がテセウキの鼻腔を侵し、彼は不快感に顔を歪めた。
「カビだ……ここはカビ臭え」
彼の声はくぐもり、嫌悪感に満ちていた。忘れ去られた地下室や、日陰で腐るに任せた木材の匂い。停滞の芳香。
隣で、金髪の少女が一歩後ずさった。「鼻を覆った方がいいですか、テセウキくん?」
ミッカが尋ねる。彼女は口と鼻を手で強く押さえ、その青い瞳を心配そうに見開いていた。
テセウキは環境を評価した。木材の奇妙な青、空気中の病の気配……沼地での日々によって研ぎ澄まされた生存本能が、警戒しろと叫んでいる。
「確信はねえけどな」
彼は無知を正直に認めたが、行動は早かった。ガサゴソ。背中のリュックを降ろし、素早く開けて中身をかき回し、探していたもの――清潔な布切れ――を見つけ出した。
「転ばぬ先の杖ってやつだ」
布切れで顔を保護し、二人はその腐敗の中心へと進んだ。
日光から樹冠の薄暗がりへの移行は唐突で、まるで濁った深海へのダイビングのようだった。ヒュオオオオ……古樹の内部には、以前のような活気ある威厳が欠けていた。そこにあるのは息苦しい静寂だけ。グチュ、グチュ……病的な絨毯のように枝を覆う分厚いシアン色の苔に、ブーツが沈み込む湿った音だけが響く。
空気は密度が高く、宇宙の塵のように微光の中で舞う胞子で飽和しており、服や露出した肌にまとわりつく。
この植物の墓場にいるのは、彼らだけではなかった。
道中、彼らはこの忘れられた場所の番人たちを見つけた。テセウキは最初のそれを見て、嗚咽を噛み殺した。低い枝に硬直したまま止まっている大型の鳥。ビロードのような菌類の層が羽毛に取って代わり、開いたクチバシからは紫色の植物のツルが垂れ下がり、死んだ舌のように揺れていた。ブラリ……
さらに先には、木の幹と融合した霊長類がいた。体の半分が青い地衣類の殻の下に消え、肉と植物のグロテスクな彫像と化している。白濁した瞳が永遠の虚無を見つめていた。顔のない白いネズミのような、菌糸体でできた小さな生き物たちが影を走る。カサカサカサッ!
「まるで森が……すべてを消化してるみたいだ」
テセウキは布越しにくぐもった声で囁き、胃が裏返るのを感じた。
登攀は続き、自然の建築様式が劇的に変化した場所に導かれた。
目の前に、地質学的かつ生物学的な異常が現れた。磨かれた骨を思わせる、石灰化した白い巨大な枝が、植物の天井の闇を貫いて完璧な螺旋を描きながら上昇している。周囲の病んだ木とは異なり、その構造は無菌で冷たく見えた。主幹からは、逆さにした杯のような巨大なキノコの『傘』が突き出し、透き通った動かない水を湛えた自然の水盤を形成していた。
ピチャ……ピチャ……彼らは白い螺旋を登り、水盤を階段や足場として利用した。彼らの動きによって乱される水の音だけが、広大な静寂に挑む唯一の音だった。
螺旋の頂上に達すると、視界が開けた。巨大キノコが水平に成長し、村一つが入るほど広大な平らな台地を形成しているエリアに出た。緑の深淵に浮かぶ空中フロア。その縁からは、下の暗闇に向かって粘着質の何かが滴り落ちている。ポタ……ポタ……
そこで、それまで彼らを導き、影から観察していた『樹液の子』たちが動きを止めた。
彼らは巨大キノコの縁に整列した。一人また一人と、音を発し始めた。それは通常の会話を超越していた。木と葉でできた体の隙間を風が通り抜けることで生み出される、調和のとれた口笛。ヒュルルルル……ヒョオオオオ……音は低音と高音の間で揺れ動き、悲しく、背筋が凍るような旋律となって空洞の幹の壁に反響した。
ゾワッ。テセウキはシャツの袖の下で腕の毛が逆立つのを感じた。
「あの子たち、何をしてるんですか?」ミッカが布マスク越しに尋ねる。
「これ、前にも見たことある……」テセウキが呟く。
ミッカは黙っていた。鷲のように鋭い彼女の青い瞳が、狂ったように周囲を走査する。スッ。彼女の姿勢が瞬時に変わった。弛緩が消え、今にも放たれんとする弓の弦のような緊張がそれに代わる。
「沼地に行った時のあの時と同じだ……」彼は顎に手を当てて言った。
樹液の子たちの口笛が最高潮に達し、耳をつんざくような金切り声へと変わった。キィィィィィィィィッ!!
「テセウキくん!」
ミッカの叫びは、行動よりコンマ数秒早かっただけだ。ドンッ!!彼女は彼に飛びかかり、その小さな手が驚くべき力で少年の胸を突き飛ばした。
テセウキは横に吹き飛び、巨大キノコのスポンジ状の表面を不恰好に転がった。ドサッ、ゴロゴロ……
「ミッカ!!」衝撃から立ち直り、彼は叫んだ。
彼が一瞬前までいたその場所が、爆発した。ズドオオオオオオオオオオオオオンッ!!!!!
菌類と木の破片が手榴弾の破片のように飛び散る。胞子と粉塵の雲が舞い上がり、床に開いた不規則な穴から、噴火する火山のような激しさで、何かが巨大な姿を現した。
ズシィィィン!!その生き物は重々しく着地し、フロアの構造全体を揺らし、テセウキを再び転倒させそうになった。
彼らの前に、狩人が立ちはだかった。
その四足の獣は巨大なプロポーションを持ち、捕食性のネコ科動物のぼんやりとしたシルエットを想起させたが、恐ろしい変異によって歪められていた。皮膚や毛皮は消失している。体は露出した筋肉の山であり、鮮やかで湿った赤色をしており、青みがかったキチン質の不規則なプレートと、寄生的な鎧のように成長した菌類によってのみ守られている。ヌチャ、ヌチャ……
顔があるべき場所には、長く伸びた下顎だけがあり、ノコギリのような歯がびっしりと並んでいた。ジュッ……ジュウウ……そこから酸性の唾液が滴り落ち、床に触れるたびに焼ける音を立てる。頭蓋骨の上部は、赤く脈動するキノコの球根状の塊に置き換わっていた。眼球はなく、その生き物は振動と熱で世界を認識しているようだった。ドクン、ドクン。
獣の背中からは、植物の触手が狂ったように空を打ち据え、独自の意志を持って蠢いていた。ビチビチッ!シュパパパッ!
獣は、いかなる生きている動物とも異なる音を漏らした――穴の開いた肺から空気が漏れるような、湿ったゴロゴロという音。『ゴボォ……ゴルルルル……』
ザザッ!ミッカが滑り込み、テセウキと怪物の間に立ちはだかった。彼女の腕は小さな稲妻の光を帯びてバチバチと鳴り、その瞳は竜の魔法の黄色い輝きを放つ。バリバリバリ……!
若き職人は震えながらも無理やり立ち上がり、汗ばんだ手で剣の柄を握りしめた。ジャキッ!!流れるような動作でミッカの剣を抜く。薄暗い青い闇の中で、金属が冷たく輝いた。
樹液の子たちは二手に分かれた。歌い続ける者たちと、彼らを守る者たち。だが、二人の若者の横には、竜の爪の金属で作られた槍を持つ二体だけが現れた。
狩りは、すでに始まっていた。




