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ドラゴの子  作者: わる
第一幕 - 第十環: 樹液の子ら
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第35話「巨人の橋」

 その高度の空気は、氷の刃のように鋭く、剥き出しの肌を切り裂き、腕の毛を逆立たせた。


 眼下の沼地の息詰まるような瘴気(しょうき)から遠く離れ、ここでは風が暴力的な自由さで吹き荒れていた。ビョウオオオッ!と耳元で唸りを上げ、ミッカの金髪を乱し、テセウキの服を嵐の中の旗のようにバタバタと激しくはためかせる。


 眩暈(めまい)は、執拗で陰湿な道連れだった。


 見下ろせば、世界は緑と影の深淵に過ぎなかった。地上からは圧迫感のある天井に見えた『樹海』が、今や足元に広がる無限の絨毯となって波打っている。千切れ雲がスッと通り過ぎ、手を伸ばせば届きそうな距離で、彼らがいかに狂気じみた高さにいるかを絶えず思い出させた。


 彼らは、宙吊りの里の「出口」にいた。


 そこには鉄の門も、石の壁もない。『樹液の子ら』の文明の安息と、野生の危険との境界線は、ただ木の質感の変化だけだった。里の磨かれた床が途切れ、古の大樹の巨大な枝の一つ――荒々しく、苔や地衣類に覆われた樹皮――へと変わる。


 その自然の道は、帝国の表通りのように広く、水平線へと向かって、巨人のごとき枝葉の間を蛇行して伸びていた。


 ミッカは革のサンダルの紐をギュッと締め直し、青い瞳で前を見据えた。その表情は固く、最近の出来事によって鍛え上げられた集中力の仮面であり、彼女の繊細な容姿とは対照的だった。


 その隣で、テセウキは背中に固定したカービンをカチャリと確かめた。もう十回目になる、抑えきれない神経質な癖だ。右手で腰のオレンジ色の剣の柄に触れ、冷たい金属の感触を心の(いかり)にする。彼はスゥーッと深く息を吸い込み、薄い空気を肺に満たそうとあがいた。肩は動くものの、傷跡と痛みはまだそこにあり、不快な疼きとなって彼に付きまとっていた。


「……高いな……」


 テセウキは風に消されそうな声で呟いた。その響きは、目の前の広大さに比べてあまりにも脆かった。彼は視線を水平線に固定し、横にある死への落下を直視したいという誘惑を頑なに拒絶していた。


「ここから落ちたら、地面に着くまでに人生を後悔する時間はたっぷりありそうだぜ」


 ミッカは彼を見つめ、小さな、しかし自信に満ちた笑みを唇に浮かべた。


「落ちたら、私が助けるよ、テセウキくん」


 ミッカは無邪気な笑顔でそう答えた。それは恐怖を知らぬ者だけができる、軽やかな約束だった。だがテセウキは、その目も眩むような高さからヒュオオオッと落下する自分を想像し、背筋にゾクッと冷たいものが走るのを感じただけだった。


 彼らの背後では、『樹液の子ら』の警備隊が控えていた。十二人の戦士と斥候。その細いシルエットと無表情な木の仮面は、静寂と自然の規律そのものだった。


 人間とは違い、彼らはその場所の一部であり、木そのものの延長のようだった。樹皮の足は母なる樹にガシッとしっかりと食い込み、葉のマントは強風に合わせてザワザワと揺れ、風景に完璧に溶け込んでいた。


 その中の一人、青白い陽光を反射してキラリと光る黒曜石の肩当てをつけた者が進み出た。彼は長い指を**パチン!**と鳴らし、その乾いた音が風の唸りを切り裂いた。そして、ねじれた杖で前方を示した。


「ザカ……シュラ……」


 仮面の隙間から、風のような囁きが漏れ、風に乗って流れた。


「なんて言ったんだ?」テセウキはミッカに近づき、声を張り上げずに尋ねた。


「出発するって」ミッカは即答し、その目は警備隊に注がれていた。


 テセウキは彼女を疑わしげに横目で見た。寝ている間に彼らの複雑な言語を習得したとでもいうのか?


「……って、お姉ちゃんが言ってる」彼女は、さも当然のように付け加えた。


「ああ、そうか……」職人はふぅとため息をつき、背後にそびえ立つ、世界の柱のような古の大樹の幹を見上げた。「もう中じゃないからな。アルマさんは、ここでは実体化できないんだった」


 ミッカは、姉の気配が宿る自分の胸にそっと手を当てた。


「私にはまだ見えるよ。少しの間だけだけど、お姉ちゃんと話せる」


「そりゃ心強いな」テセウキは認め、肩の荷が少し軽くなるのを感じた。あの経験豊富な戦略家が、たとえ見えなくとも共にいてくれることは、計り知れない慰めだった。


「オキタ・ロガロ!」


 指揮官である『樹液の子』が葉笛のような声を響かせた。空気がビリビリと震える。そして、ファンファーレも別れの言葉もなく、新たな遠征隊は動き出した。巨大な枝の上を、『大いなる貪食者』の領域へと向かって。


◇ ◇ ◇


 警備隊の行軍は、世界の背骨の上を進んでいた。


 足元に根が絡み合い、腐った木々がカオスを描く沼地の息詰まるような迷宮とは違い、ここにある現実は別物だった。道は固く、唯一無二で、どこまでも続いている。彼らは古の大樹の皮膚そのものの上を歩いていた。それは浮遊する大陸のように広がる、孤独な天蓋だった。


 その緑のドームの下で、奈落が恐ろしいほどの栄光を露わにしていた。


 テセウキは恐る恐る、(へり)から下を覗き込んだ。


 ヒュオオオ……


 落下は、絶対的だった。 遥か下、樹海の他の巨木たちが、ここでは単なる低木のように見える。見渡す限り続く、灰色と死の骸骨の森。そこには虚無があった。古の大樹と残りの森を隔てる、巨大な闇の輪――大いなるブラックホールのような空洞が。


 あの木々は、いかに巨大であろうとも、決して空には届かない。今、彼らがしているように、雲の腹を撫でることは決してないのだ。


 森の圧迫感は、とうに後ろへと過ぎ去っていた。ここでは緑があらゆる方向へと広がっているが、キラキラと生々しく、力強い陽光が降り注いでいる。見上げれば、空は無限に澄んだ青。見下ろせば、沼地の死んだ部分の漆黒が見える。それは、彼らが根元に置いてきた危険を思い出させる、暗い傷跡だった。


 そして、水平線が開けた。


 パァァァッ!


『古の世界』を閉じ込める城壁が、荘厳にそびえ立っていた。天に向かってねじれる幾何学的な岩々を持つ螺旋の山脈が、圧倒的なディテールで迫ってくる。山頂は鋭い切っ先で終わり、神々にさえ挑むかのような石の槍となって、不可能な螺旋の終わりを告げていた。


 だが、二人の若者の息を呑ませたのは、その先の光景だった。


 第九環。


 そこにそびえる山々は灰色で、不毛で、残酷だった。純粋な乾いた岩塊であり、レグルスが数日前に見たと言っていた雪は剥ぎ取られていた。風景は一変し、次なる試練の荒々しい顔を晒していた。


『ドラゴの子』と『若き職人』は立ち止まった。風が彼らの服をバタバタと打ち、その目は目の前の広大さに大きく見開かれていた。


 この忘れられた大陸に到着した時、目的地は遠い伝説であり、手の届かない蜃気楼のようだった。『黄金の都』は、水平線の彼方の輝きに過ぎなかった。だが今、次なる環の境界線があれほど鮮明に、あれほど確かに見えると、距離が縮まったかのように感じられた。


 すぐ、そこだ。


 ミッカはテセウキの方を向いた。職人も視線を返す。


 言葉はいらなかった。高さへの恐怖、戦いの記憶、明日の不確かさ……そのすべてが、高地の風によって一時的に吹き飛ばされていた。


 二人は笑った。煤と埃にまみれた、疲れた笑顔。だが、そこには揺るぎない自信が満ちていた。


 ザッ、ザッ、ザッ……


 彼らは、前へと進んでいた。


◇ ◇ ◇


 **チクタク……**と、時間の感覚は緑の広大さの中に溶け込み、頭上をゆっくりと移動する太陽の弧だけが時の流れを告げていた。


 行軍は、世界の屋根の上を進んでいた。


 足元が根の迷宮と腐った木材のカオスだった沼地とは異なり、ここの現実は別物だった。古の大樹の頂上は、エイリアンの風景を露わにしていた。平らな表面などではなく、帝国の表通りのように太い枝と、奈落の上に浮かぶ濃密な葉の島々が織りなす、立体的で複雑な網の目だった。


 かつて根元の薄暗がりで暮らしていた者にとって、空は遠く手の届かない約束だった。だが今、それは圧倒的な存在感で彼らの頭上にあった。枝葉は部分的な屋根に過ぎず、自然のモザイクとなって、キラキラと黄金色の強烈な陽光を濾過(ろか)していた。


 ここでは、空気は呼吸できた。生きていた。


 そして、住人がいた。


 天空の生態系は、魅力的であると同時に致命的であり、彼らが野生の王国の侵入者であることを絶えず思い出させた。


 キィキィ!


 透き通るような空色の毛並みを持ち、四本の器用な腕と巻きつく尻尾を持つ小さな猿たちが、高い葉の間をピョンピョンと飛び回っていた。『ガラスの猿』――アルマが妹に通訳したところによれば、それが『樹液の子ら』が彼らにつけた名だった。


 その警戒の鳴き声は、水晶を金属でガリガリと擦るような、耳障りな高音だった。テセウキは、魅了と警戒が入り混じった目で、彼らの半透明な爪を観察した。それは陽光を受けてギラリと輝き、古の樹皮を温かいバターのようにスッと切り裂き、深い傷跡を残していた。


 突然の緊張が走り、テセウキはピタリと足を止めた。手が反射的に腰の剣の柄に伸びる。


 巨大な影がバサッとグループを覆い、一瞬にして彼らを薄暗がりに沈めた。


 鱗に覆われた影が、完全な静寂の中で滑空していた。『ドラゴ・グライダー』だ。細長いトカゲのような体は空中で引き伸ばされ、前足と後ろ足をつなぐ鮮やかな色の皮膜が風を捉えている。飛行魔法を持たずとも、その生き物は捕食者の優雅さで気流を支配していた。縦に裂けた黄色い瞳、純粋な悪意の窓が、眼下のグループを食事の候補として値踏みする。


 運が良かったのか、あるいは警戒したのか、獣はグループが手出しするには大きすぎると判断し、スゥーッと葉の間に消えていった。


 だが、真の恐怖は、視覚的な警告なしに訪れた。


 最初にそれを感じたのは、ミッカだった。


 ズキン!


 音もなく、匂いもなく、脅威は訪れた。こめかみに走る突然の激しい圧力。視界がグニャリと歪み、平衡感覚が狂うほどの即席の偏頭痛。見えない鉤爪が脳を鷲掴みにしたようだった。


「止まって……」


 彼女は震える声で囁き、痛みを和らげようと無駄に頭を押さえた。


『樹液の子ら』の警備隊は、カチンと凍りついたように静止した。彼らの木の仮面が、一斉に右側の深い根と影の茂みに向く。


 そこに、いた。この領域の捕食者が。


 マッシブで優雅な猫科の生き物。その毛並みは絶対的な艶消しの黒で、周囲の陽光さえも吸い込んでいるようだった。それは、木の上にこぼれた油のようにヌルリと動いた。


 だが、テセウキの血を凍らせ、呼吸を止めたのは、その爪や牙ではなかった。


 逆立ったたてがみの中から、首の周りに生えている半ダースの細く青白い触手。それらはニョロニョロと、知性を持つ芋虫のように空中で身をよじっていた。それらが求めているのは肉ではない。精神だ。触手の先端が可聴域を超えた周波数でビリビリと振動し、ミッカの頭痛はその動きと完全に同期して脈打った。


 生き物はグループを無視していた。その捕食者の注意は数メートル上、うかつにも枝に止まったドラゴ・グライダーに向けられていた。


 黒豹は跳ばなかった。ただ、触手が獲物を指し示しただけだ。


 ビクッ!


 空飛ぶトカゲが、突然硬直した。その目は恐怖で見開かれたままカッと凍りつき、見えない逃れられない精神の檻に捕らえられた。翼を広げようとしても、体は拒絶した。


 フワッと、怠惰で恐ろしい動きで、黒豹が跳んだ。動けない獲物をガブリと咥え、ゴリッという骨が砕ける鈍い音を立て、音もなく影の中へと引きずり込んでいった。あとに残ったのは、精神的圧力の残響だけだった。


「行こう……ゆっくり……」


 ミッカは呟いた。冷や汗が首筋を伝い、離れるにつれて頭の痛みがスーッと引いていく。


 彼らは心臓が口から飛び出しそうな緊張感の中、その獣の縄張りを迂回し、幽霊のように静かに移動した。圧倒的な気配が完全に消えるまで。


 行軍は続き、沈黙は今や、その場所に住む生命への畏怖に満ちていた。


 徐々に景色が変わっていった。迷宮のような葉の絡まりがスカスカと疎らになり始める。青空が支配的になり、風はより強く自由に吹き、岩と高地の匂いを運んできた。


「天蓋の終わりみたいだな……」


 テセウキは枯れた声で言い、前方を指差した。


 彼らは立ち止まった。古の大樹の天蓋は、そこで終わっていた。


 だが、道は続いていた。


 目の前に広がる光景は、人間の尺度を嘲笑うかのような壮大さで、恐怖に抑圧されていた彼らの魂をボウッと燃え上がらせた。


 そこから、タイタンのような巨大な枝が、無限の奈落にかかる吊り橋のように伸びていた。それらは虚空へと突き出し、何キロも先で、水平線に点在する他の巨木たちの天蓋へと繋がっていた。


 それは道だった。雲の中に吊るされた有機的なハイウェイのネットワークが、空の緑の列島を結んでいた。


「あれを見て、ミッカ……」テセウキは指差し、その指先は震えていた。


 枝の橋の先を目で追うと、遠くに緑の点が見えた。そう遠くない場所に、もう一本の古の大樹が、荘厳かつ孤独にそびえ立っていた。その樹冠は空の姉妹島であり、第九環の不毛な山々の近くに戦略的に配置されていた。


 さらにその先、枝分かれした別の道を辿ると、三本目の木が遠くの霞の中にボヤッと見えた。そして、また一本。


 理解が、啓示の衝撃となってテセウキを打った。孤立感は霧散した。


「孤立してるわけじゃないんだ」彼は囁いた。職人の頭脳が、その自然の驚異の全構造を視覚化する。「ネットワークだ。全ての古の大樹は……繋がっているんだ」


 ミッカは大陸を結ぶ木のクモの巣を、奈落の上に伸びる固い道を見つめた。黒豹の恐怖も、旅の疲労も、新たな炎に取って代わられた。


 コツンと、自信が一行の足取りを確かにした。


 警備隊の選択は正しかった。虚空に吊るされた自然の橋であるその道は、彼らを安全に次なる巨人、第九環の乾燥した国境近くを守る古の大樹の懐へと導いた。


 新たな天蓋に入ると、そこは馴染み深くも、目も眩むような場所だった。


 ミッカは恐る恐る、葉の隙間から下を覗いた。遥か下、奈落は馴染み深い顔を見せていた。下層の枝の複雑な網が薄暗がりの中に広がり、目覚め始めた菌類の柔らかく亡霊のような光がポツポツと点在している。


 さらに深く、沼の水の漆黒は、淀んだ油の染みのように常にそこに在った。その目も眩むような高さにあっても、沼の本質は冷たく湿った指を伸ばしてくるようで、危険は遠ざかっただけであり、消えたわけではないことを思い出させた。


 だが、頂上は光と生命の王国であり続けた。


 その巨人を住処とする動物相は、前の木の鏡写しだった。テセウキは剣に手をかけながら、遠くの枝をヒョイヒョイと跳ねる赤い毛の猿の群れを目で追った。さらに先では、一行は眠っているアンフィプテレを静かに迂回した。翼のある蛇は太い枝に巻きつき、スースーと深く眠っていた。緑の鱗がゆっくりとしたリズムで上下し、その休息は無害に見えた。


 日が、水平線で血を流し始めた。


 陽光は溶けた黄金と深いオレンジ色の洪水となり、葉を夕暮れの鮮やかな色でメラメラと燃え上がらせた。影が長く伸び、空気は急速に冷え込んでいく。


 その黄昏の光の下で、隠れ家は姿を現した。


 空そのものを支えているかのような巨大な幹の側面、そこに完璧な入り口が開いていた。(のこぎり)や斧、いかなる金属の道具の跡もない。生きた木が湾曲し、ねじれ、形作られ、葉笛の古の魔法に謙虚に従っていたのだ。


 有機的な前哨基地。『樹液の子ら』の意志によって歌い出された聖域。


 ホッと、集団的な安堵のため息と共に、彼らは敷居を跨いだ。広大な空と切り裂くような風を背にし、木の心臓の安全な暖かさと樹液の香りに包まれた。


 夜が世界の頂に落ち、それと共に絶対的な闇が訪れた。


 ミッカは前哨基地の入り口に立ち、外を見ていた。なぜこんなに早く行軍を止めたのか不思議に思っていたが、枝の端の向こうにある奈落を見つめた時、その答えは漆黒の壁となって返ってきた。


 遥か下、沼の湿った深淵では、夜は決して完全ではなかった。根の森は、太陽のサイクルを無視する発光菌や苔の、永遠の、幽霊のような輝きの下で生きていた。そこは永遠の黄昏の世界だった。


 だがここでは、掟が違った。


 彼らは空の支配下にあった。太陽が退けば、光は死ぬ。雲に隠された月も星もない樹海は、黒い真空となり、一歩踏み外せば永遠に消え去る場所となる。


 生きた木をくり抜いたシェルターの中は、もっと快適だった。


 火の上で脂がジュウジュウと爆ぜる音が空気を満たし、甘い樹液の香りと戦っていた。テセウキは真剣な顔で、小さな焚き火の上で即席の串をくるくると回していた。


 ミッカは彼の隣に座り、膝を抱え、職人の瞳の中で踊る炎を見つめた。


「何してるの、テセウキくん?」


「夕食だ」彼は答え、焦げ目がつき始めた肉に粗塩をパラパラと振った。「仕留めた水棲ドラゴンの肉だよ。いい部分を少し保存しておいたんだ」


 ミッカは不思議そうに首を傾げた。


「どうして……あの子たちの食事を食べないの?」彼女は『樹液の子ら』を指して尋ねた。「分けてくれそうだったのに」


 テセウキはウッと顔をしかめた。前回、黄金のスープにプカプカと浮いていた白くぬめる幼虫を思い出したのだ。


「あの変なシチューはもう御免だ」彼は告白し、串を裏返した。「いや……味は悪くなかったんだ。正直、すごく美味かった。でも見た目が……俺の人間としてのプライドがまだ許さないんだ」


「私はすごく美味しいと思ったけどな!」ミッカはニコニコと言った。


「お前、本当に食のストライクゾーンが広いよな、ミッカ……」テセウキは笑い、呆れたように首を振った。


 夕食は心地よい沈黙の中で進んだが、視界の隅での動きがミッカの注意を引いた。


 一人の『樹液の子』が近づいてきた。


 彼には、護衛の戦士たちのような硬く武骨な姿勢はなかった。その動きは遅く、オドオドとしており、まるで小さな物音一つで影の中にサッと逃げ込もうとする怯えた小動物のようだった。


 ミッカは彼の方を向き、焚き火に照らされた優しい笑顔を向けた。


「こんにちは」彼女は柔らかく言った。


 生き物は立ち止まった。無表情な木の仮面は一瞬彼女の笑顔を考慮したようだったが、すぐに逸らされた。小さな存在の目的は、少女ではなかった。


 テセウキだった。


 ドラゴンの肉を頬張っていた職人は、見つめられていることに気づき、モグモグさせていた口を止めた。彼はまだニコニコしているミッカを見て、次に内気な生き物を見て、そして自分を見た。


「ん?」彼は苦労して肉を飲み込んだ。「なんだ? 何かあったのか?」


『樹液の子』はプルプルと震えながら一歩踏み出した。葉のマントのひだの中から、細く暗い腕が持ち上げられた。


 樹皮の手の中に、彼は何かを持っていた。素朴なペンダント。磨かれた黒い木から彫り出され、丈夫な繊維の紐に吊るされていた。


 テセウキはパチクリと瞬きし、混乱しながら手の脂を拭った。


 生き物が話し始めた。その声はカサカサという乾いた葉が地面を擦るような、低く速い囁きだった。彼は長い間話し、恥ずかしそうにテセウキに向かって身振りをし、そして黙ってうつむいた。


 テセウキは途方に暮れてミッカを見た。


「なんて言ったんだ?」


 ミッカは首を傾げ、彼女にしか聞こえない声に耳を澄ませた。


「お姉ちゃんが言うには……」彼女はアルマの言葉を通訳し始めた。「感謝してるって。あなたが暗い水の中で彼の命を救ったこと。そして、彼が怖がっていた時、あなたが戦った勇敢な戦士だったって」


 彼女は生き物の手の中にある物体を指差した。


「それは贈り物。守護のお守りだって」


 理解がテセウキを打った。彼は生き物の仕草、縮こまった姿勢、手の震えを見た。


 彼だ。あの臆病者。水没した部屋で恐怖に凍りつき、他の者たちが戦って死んでいく中、テセウキが死から引きずり出したあの個体だ。


 テセウキは喉の奥に熱い塊を感じた。彼は手を伸ばし、ペンダントを受け取った。木は触れるとほんのり温かかった。


「ありがとう」テセウキは言った。声はしっかりとしていたが、顔には無理やり決意の笑みを張り付けていた。「大切にするよ」


 彼は生き物の仮面の『目』を見つめた。


「俺たちは、強くあり続けなきゃな。そうだろ?」


『樹液の子』は、言葉は分からずとも、その調子を理解したようだった。彼はペコリと深くぎこちないお辞儀をすると、タタタッと前哨基地の闇へと走り去り、仲間たちの元へ戻っていった。


 テセウキは手の中のペンダントを見つめたままだった。


 勇敢な戦士……


 あの日の映像が、許可なく彼の脳裏にフラッシュバックした。血と沼の匂い。木が砕かれるメリメリという音。黒い水に浮かぶ『樹液の子ら』の死体。使い方もよく分からない剣を握りしめ、怪物の頭蓋骨に至近距離で発砲した自分。


 彼は戦士だとは感じていなかった。自分が選んだわけではない暴力に汚された、必死の生存者だと感じていた。


 彼の笑みが揺らいだ。顔の力が抜け、疲れと苦痛に満ちた諦めの表情になった。


 その時、彼は感じた。


 手の上の、柔らかな感触。細い指と滑らかな肌が彼の手を覆い、ギュッと優しく握りしめた。


 彼は横を見た。ミッカが彼を見ていた。その青い瞳には審判の色はなく、アルマのような冷たさもなかった。ただ、無垢で、温かく、静かな感謝に満ちた笑顔があった。


 彼女はそこにいた。生きて。そして、彼が彼女を守ったのだ。


 彼女の手の温もりが、記憶の冷たさを溶かした。強くならなければならない。プライドのためでも、戦士の称号のためでもなく、彼女のために。仲間のために。


 彼は彼女の手を握り返し、ペンダントをポケットにしまった。


「寝ようか、ミッカ」


「おやすみ、テセウキくん!」

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