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ドラゴの子  作者: わる
第一幕 - プロローグ:空から落ちてきた少女
12/39

第12話「守護者の帰還」

 空気は焼きたてのパンと、甘い葡萄酒の香りがした。午後の陽光を浴びてキラキラと輝く明るい石で造られたその街は、活気ある通りと花咲き乱れる広場が織りなす迷宮のようだった。赤い屋根の上では、教会の鐘の音が、あてもなく駆け回る子供たちの笑い声と混じり合い、純粋で屈託のない喜びの旋律を奏でていた。遠くには、その平和の守護神であるかのように、大きな白い城壁がそびえ立っている。


 その生き生きとした絵画の中心を、二つの人影が歩いていた。彼、エイドリアンは、茶色の髪を持ち、その瞳は遊び心に満ちた優しさで溢れている。彼女、オヴェリアは、短い金髪で、その存在だけで周りの世界を和ませるようだった。


「…それで、あの値段で買わなければ、一年中水を飲む羽目になりますよ、と彼に言ったのです!」エイドリアンは、大げさな身振りで自慢げに語った。「彼はすぐに折れました。私は優れた商人でしょう?」


 隣を歩くオヴェリアは、クスクスと口元を手で覆って笑った。「ええ、もちろんですわ。この地方で最も恐れられている葡萄酒の交渉人ですもの」


 彼が彼女を見つめると、その笑みはより深く、より誠実なものへと変わった。彼女をただの連れ合いとしてではなく、彼自身の世界の中心として見つめる眼差し。彼女もまた、その視線を返し、その青い瞳には同じ献身が映っていた。


「あなた、オヴェリアさんがここに来てから、すべてが本当に素晴らしいものになりました…」彼は、不意に穏やかな声で打ち明けた。


 彼女は立ち止まり、その笑みを一層広げた。「それは、あなたが優れた商人だからですわ。葡萄酒は勝手に売れていきますし、私は何のお手伝いもする必要がありませんもの」と彼女は冗談を言い、プイッと顔をそむけて頬を膨らませた。「ふんっ!」


「はは…すみません…」彼は照れくさそうに笑った。だが、その軽やかさはすぐに消え、彼の表情は真剣なものへと変わる。彼は彼女の前に立ち、その両手を取った。その決意に満ちた顔つきの中にも、瞳の情熱は決して揺るがなかった。「オヴェリアさん…あなたの御両親が街に来られたら…」その言葉の間には、彼女の心臓を高鳴らせるほどの重みがあった。「…私は、彼らにあなたの手を頂けるよう、お願いするつもりです!」


 彼女は、いたずらっぽく首を傾げた。「まあ、何をお願いするのかしら…?」


「あ、あなたの…て、手を…」彼はどもり、顔は一家の葡萄のように真っ赤に染まった。


 その様子に、彼女の澄んだ笑い声が弾け、通りに響き渡った。


 あの日々…


 記憶が、穏やかな川の流れのように溢れ出す。広場で子供たちを追いかける二人。牛の乳搾りを手伝う彼女の、小さくも力強い手。太陽の下で葡萄を摘む甘い香り。そして、大きな木樽の中で冷たい果肉を踏みしめ、紫に染まった足で笑い合った感触。彼の家族との、騒がしくも温かい食卓。


 私が生きるなど、決して思わなかった日々。武器であり、道具であった私にとって…あの日々は…私の人生で、最高のものだった…エイドリアン…


 そして、鏡が砕け散るように、優しく暖かかった街は…


 炎。


 空気を引き裂く悲鳴。肉の焼ける匂い。舌に残る灰の味。死。血。そして、炎、炎、**炎!**すべてを飲み込み、記憶を灰に変えるオレンジ色の激情。


「…お前のせいだよな?」


 彼の顔は今や絶対的な絶望の仮面となり、その瞳の非難は、炎そのものよりも熱く彼女を焼いた。


 ミッカは、記憶の虚空に浮かびながら、そのすべてを見ていた。


「どうして?」彼女は闇に向かって囁いた。


 その隣に、一つの姿が形を成した。完全な鎧をまとったアルマが、時が止まった炎上の光景を見つめている。彼女はミッカの方を見ず、その視線は膝をつくエイドリアンの姿に釘付けになっていた。アルマは時を歩み、あの日の若き自分の姿を通り過ぎ、愛し、そして失った男の前にひざまずいた。


「お前が知る必要があるからだ」アルマの声は痛みのこだまだった。「私の、最大の失敗を見るがいい」


「これが、あなたの最大の悪夢なの?」ミッカは、その悲劇の重みを自分のもののように感じながら尋ねた。


 アルマは立ち上がり、ついにミッカの方を向いた。その顔は、抑えられた感情の戦場だった。「三年も前のことだ。私は潜入任務でこの街に送られた。この街の支配者たちは、我らの属国でありながら、敵国であるエセルガルド帝国と共謀していた。私の仕事は単純なものだった…調査し、裏切りを確証すること」彼女の視線がエイドリアンの幻影に彷徨う。「だが、私は彼と出会い…そして初めて、私は…生きた。彼を愛していた…だが、その愛が私の目を曇らせた。裏切りを、間に合うように止めることができなかった」


 記憶が、目まぐるしい速さで進む。燃え盛る街。帝国の襲撃。そして、地面に倒れるエイドリアン。彼の体の下には血だまりが広がり、喉は切り裂かれていた。その手には、彼女が贈った短剣が握られていた。天騎士アルマは、命の消えた彼の体を抱きしめ、声にならない叫びが喉の奥で詰まっていた。


「あの日…私は誰も救えなかった…彼を、救えなかったのだ…」


 アルマはその光景を見つめ、悪夢が心の中で無限に繰り返される。「だが、なぜこれを見たかった、ミッカ?」


 ミッカの顔には、闇の中の炎のような決意が宿っていた。「あなたが言ったから。『今の自分が誰であるかを理解するために、過去の私だった者を受け入れなければならない』と」


「ミッカ…私の力は、この器ではもう尽きかけている。以前のように、制御を奪うことはできん…」


「わかってる」ミッカの声は揺るがなかった。「だから、戦うのは私。そのためには、すべてを知る必要がある!」


 ミッカの覚悟は、自然の力そのものだった。アルマは彼女を見つめ、その疲れた瞳に初めて、純粋な感嘆の光が宿った。そして、悲しげな笑みを浮かべた。「お前は、このすべてに耐えられない可能性が高いぞ」


「構わない!みんなが外で戦ってる!私は、やらなきゃいけない!」


 アルマは近づき、その幻影の手でミッカの顔を包んだ。その感触は虚空のように冷たいが、魂から来る温もりが宿っていた。「…わかった、私の愛しいミッカちゃん…見せてやろう…」


 ◇ ◇ ◇


 宮殿の広間の空気が、力でパチパチと音を立てた。赤い炎がアイアンの周りを渦巻き、その両手に脈打つ力の球体となって集束していく。彼の頭上では、マグマと憤怒の生き物である炎のエレメンタルが、声なく咆哮していた。


「終わりだ!」アイアンは叫び、レグルスとダイアンヤを焼き尽くさんと力を解放した。


 ズウウウン!


 黄色の閃光が、彼らの間の空間を断ち切った。


 ヒュッ!


 認識そのものを超越する瞬間、一人の少女がアイアンの真正面に現れた。彼女の小さく白い手は、すでに彼の顔に押し当てられていた。その顔には表情がなく、ただ一点に集中した虚無が広がっているだけだった。状況におけるすべての恐怖は、アイアンの瞳に凝縮されていた。冷たい手が肌に触れたことを認識し、その目は純粋な驚愕と――信じられないという感情で、大きく見開かれた。


「ミラーズ・バンド!」


 その叫びは乾いており、絶対的な命令だった。鏡の表面のような半透明の盾が、アイアンの周りに具現化する。彼が放った炎の球体は障壁に跳ね返り、作り手自身へと襲いかかった。内部での爆発は、耳をつんざくようだった。鏡のドームが震え、**パリン!**と砕け散った。


 少女は自らの魔法の衝撃波で後方へ飛ばされたが、まるで踊るように軽やかに、従兄たちの隣に着地した。


「アルマか!?」レグルスが、信じられないというように叫んだ。


「お姉ちゃんじゃないよ、レグルスくん!」彼女は息を切らしながらも、小さな笑みを浮かべて答えた。


「お…姉ちゃん…?」彼は、その言葉が奇妙で、同時に懐かしく響くのを感じながら繰り返した。


「ミッカちゃん!」ダイアンヤが彼女のそばに駆け寄った。「大丈夫!?」


 ミッカは振り返り、その優しい眼差しと安堵の笑みを友人たちに向けた。だが、その平和は束の間だった。


 爆発の中心から、炎のエレメンタルが姿を現し、最後の炎を吸収していく。その後ろで、アイアンが立ち上がった。彼の鎧はボロボロで、体は火傷に覆われているが、まだ立っていた。


「…反射魔法、か…」彼は、痛みと怒りでかすれた声で喘いだ。「…単純だが…使い方次第では強力だな…」


(クソッ!エレメンタルがダメージを吸収したが、マナが…俺のマナがほとんど残っていない…!サンダー…あのクソ女!)


『彼は弱っている』アルマの声がミッカの心に響いた。混沌の中の、穏やかな導き手。『マナは尽きかけているが、その怒りが彼を危険にしている。まだ竜の力は使えるはずだ。気をつけろ』


「わかった!」ミッカは答え、その身構えは即座に戦闘態勢へと変わった。


「誰と話して…」レグルスが尋ねかけたが、その言葉は遮られた。


 アイアンの拳がギリッと握りしめられる。彼の体は、炎そのものよりも熱く燃え盛る怒りで震えていた。


「クソが!クソが!クソがああ!このクソアマアァァァ!」彼の声は、獣の咆哮へと変わっていた。「貴様は代償を払う!すべてを破壊してやる!この、取るに足らん村ごと、すべてだ!そして、貴様の首を、槍の先に飾ってやるわ!サンダーッ!」


『ミッカ、危ない!』


 黒い金属の杭が、彼の体から爆発した。もはや狙いを定めた攻撃ではない。彼自身の魂の起爆。何百、いや何千もの杭。細く、太く、長く、短い刃が、冒涜的な鋼の嵐となって空を切り裂き、廃墟と化した広間の隅々までを満たした。まだ立っていた柱は粉々に砕け、すでに破壊された床は再び穿たれ、クレーターの上にクレーターを重ねていった。


 終わりだった。


 宮殿の天井が、崩れ始めた。巨大な石の塊が落下してくる。その混沌の中を、一本の黄色い稲妻がジグザグに駆け抜け、死をミリ単位でかわしていく。ミッカは、超自然的な速さで動き、すべてが崩壊する前にダイアンヤをそこから引きずり出そうと、彼女の隣にたどり着いた。


「アーニャちゃん、行くよ!」彼女は叫び、友人の腕を掴んだ。


 だが、ダイアンヤは動かなかった。


 彼女の体は硬直し、その赤い瞳は広間のとある一点に釘付けになっていた。怒り、決意、心配…その顔を彩っていた感情の渦は消え去り、今はただ、純粋で絶対的な恐怖の、空っぽの仮面があるだけ。彼女の顎がガクガクと震えるが、音は出なかった。


 ミッカは、彼女の視線を追った。


 広間の片隅、破壊が最も激しかった場所で、一つの人影が宙に浮いていた。何十もの黒い杭に貫かれ、壁の残骸に縫い付けられるようにして。ケンジだった。彼の体から、血がゆっくりと流れ落ち、淡い色の石畳の上で、鮮やかで、恐ろしいほどのコントラストを描いていた。


 その時、叫び声が上がった。それは人の声とは思えず、ダイアンヤの喉と、現実そのものを引き裂くような音だった。


「パパアァァァァッ!」


 ◇ ◇ ◇


 階下、村では、混沌が支配していた。負傷者を運ぶ『大騎士』たちを手伝っていたミッコとテセウキは、その叫び声を聞いた。そして、さらに恐ろしい音が、山に響き渡った。石が砕け、土台が崩れる音。


 宮殿、彼らの村の心臓が、崩壊していた。巨大な黒い鉄の杭が、その内部から建物を引き裂き、彼らの故郷の象徴である建造物全体が、石と塵の雪崩となって崩れ落ちていく。


「おいおいおいおい、レグルスたちは、上で何やってんだよ!?」テセウキは、純粋な絶望の中で叫んだ。彼の声は、破壊の轟音の中に吸い込まれて消えた。


 ◇ ◇ ◇


 砂埃がゆっくりと舞い落ち、新しく生まれた墓場に灰色の屍衣をかけるように、辺りを覆っていく。かつて雄大だった宮殿は、今や忘れ去られた栄光の瓦礫と化していた。オゾンと血、そして溶けた金属の、不浄な残り香が悪臭となって、重く淀んだ空気に満ちていた。


 その静寂を破ったのは、喉の奥から絞り出すような音だった。しゃくりあげるような嗚咽が、やがて否定の叫びへと変わる。ダイアンヤは、よろめきながら一歩前に出た。かつて自分の家であり、自分の人生そのものであったはずの瓦礫の山に、その目は釘付けになっていた。彼女の心は、自己防衛のために、目の前の光景を処理することを拒絶した。そして、獣のような絶望に駆られ、彼女は走り出した。


「パパ! パパ!」


 ガラガラと音を立てる瓦礫に足を取られ、剥き出しになった手でがむしゃらに瓦礫の山を登ろうとする。その時、荒れ狂う海嘯の中の錨のように、一本の力強い腕が彼女を捕らえた。レグルスだった。


「落ち着け、ダイアンヤ!」彼自身の声もまた、疲労と痛みでしゃがれていた。


「離して! パパのところに、行かなきゃ! パパ!」彼女は暴れ、手足をバタつかせた。悲しみと怒りの嵐そのものだったが、彼の力は、たとえ無残な状態であっても、彼女をグッと抑えつけた。


 その苦悶の最中、ふと、彼女の視線は従兄の顔に吸い寄せられた。煤にまみれた肌に、深い切り傷が赤い線を描いている。口の端からは血が流れ、左腕には、残酷なまでに小さな黒い金属の杭が何本も突き刺さり、静かな痛みを刻んでいた。現実が、鉄拳のように彼女を打ちのめした。痛みを感じているのは、自分だけではなかった。いつも冷静で、気に食わないはずのレグルスが、震えていたのだ。その顎の筋肉は、崩れ落ちてしまいそうな自分を必死に支えるかのように、ギリギリと固く食いしばられていた。


 全身から、フッと力が抜けていく。ダイアンヤの足はガクンと折れ、彼女は石の床に膝から崩れ落ちた。怒りの叫びは、廃墟と化した世界に響き渡る、鋭く、救いのない慟哭へと変わっていた。


 ギィィ…と、金属が軋む音が、その泣き声を切り裂いた。レグルスは振り返り、体中のあらゆる動きに抗議されながらも、無理やり立ち上がった。痛みという名の生きた熾火が、彼の全身の繊維を焼き尽くしている。彼は、破壊の中心地へと歩みを進めた。砂埃と影の中から、アイアンが再び姿を現す。かつて威圧感を放っていたその鎧は、今や黒く焦げ、ひび割れた抜け殻に過ぎなかった。体は火傷に覆われ、彼は瓦礫の中からずるずると這い出てくる。その視線は、レグルスに固く、固く注がれていた。


 二人のドラゴの子が、対峙する。二人のドラゴの子が、静かに互いへと歩み寄った。痛みも、悲しみも、疲労も──そのすべてが、純粋で原始的な怒りによって喰らい尽くされた。互いを、この場で完全に消滅させるために。


 レグルスの両手にマグマが形作られるが、その放つ光は弱々しく、まるで死にかけの焚き火の熾火のように鈍かった。対するアイアンの金属は、もはや鋭い槍の形ではなく、岩ほどもある巨大で無骨な鉄塊へと形を変えていた。ドゴォッ!という鈍い衝撃音。肉と骨がぶつかり合う音。アイアンの鉄塊は、まるで水でも切り裂くかのようにレグルスのマグマを貫いた。レグルスのエネルギーは、敵の怒りを溶かすには、あまりにも足りなかった。


 鉄の拳が彼を粉砕しようとした、その瞬間。


 バシュン!


 黄色い稲妻が、空気を裂いて弾けた。その電気はレグルスとダイアンヤを包み込み、致命的な一撃から二人を引き離した。


 レグルスは地面に崩れ落ち、立ち上がろうと、何かを言おうともがいたが、ミッカの、氷のように冷たく、穏やかな声が彼を縫い止めた。


「レグルスくん…あなたはもう、戦える状態じゃない」


「な…にを…」彼は喘いだ。その意識を飲み込もうとする闇と、彼の苛立ちがせめぎ合う。


「まだ、歩けるでしょう?」彼女の問いは、優しさの欠片もない、命令だった。「アーニャちゃんを連れて、ここから離れて」


 返事を待たず、彼女はアイアンの方へと歩き始めた。彼は、今度こそ真の戦いが終わっていなかったことを悟り、新たな憎悪を燃やしながら彼女を睨みつけた。


『ミッカ…待つのだ!正気ではないぞ!その状態で戦えるはずがない!落ち着け、ミッカ!』


 アルマの半透明の魂が、少女の肩に触れようとしながら、必死に懇願する。だが、ミッカは彼女を完全に無視した。まるで、その魂が遠い日のこだまに過ぎないかのように。彼女の瞳からは、静かな涙が流れていたが、それは悲しみの涙ではなかった。空気をビリビリと震わせるほど、深く、氷のように冷たい怒りの涙だった。彼女の口の中で、ギリギリと歯が軋む音が、低く、脅威的に響いた。


「…全部…分かってるわよ…アイアン…」


 彼女の声は囁きだったが、宣告の重みをもって、破壊された広間に響き渡った。


 自らの怒りに目が眩んでいたアイアンも、ついにその変化に気づいた。このオーラ…先程までとは違う。「…貴様、一体何者だ?」彼の声には、不信と、そしてほんのわずかな恐怖が混じり始めていた。


「ミッカ・ソレル…」彼女は、一言一言を槌で打ち付けるように宣言した。「…サンダーとして知られる、アルマ・ソレルの妹!」彼女の眼差しは燃え上がっていた。悲しみと、怒りと、そして鋼の決意が溶け合った、灼熱の光で。


(この目…このクソ忌々しい目は…あいつと同じだ…)


 その記憶は、鮮烈に、そして痛みを伴ってアイアンの脳裏を殴りつけた。彼はアイアンではなかった。栄光を夢見る、下級騎士ガイウスだった。戦場で、彼は打ち負かされた。目の前には、背の高い、金髪碧眼の男。白い、ビリビリと音を立てる電光をその身にまとっていた。*(奴は、剣さえ抜かなかった…)*ガイウスは、屈辱の中でそう思った。あの、正義の怒りに満ちた、決意の瞳…


「…お前のその目は、あいつと全く同じだ…」


 一方、アルマの魂は、ただ見守っていた。稲妻に打たれたかのような衝撃と共に、すべてを理解しながら。ミッカの体から発せられる電気のエネルギーは、広大で、圧倒的で、彼女自身がかつて顕現させたどんな力よりも遥かに大きい。その力はあまりにも純粋で、あまりにも生々しく、周りの空気を歪ませていた。


(そうか…だから彼女の方が速かった…だから、私の打撃は軽かった…私の力は…初めから、私のものではなかった…)


 真実は、単純で、そして恐ろしかった。


(私がサンダーと呼ばれたのは、『雷鳴』が、私が最初に顕現できた力だったから…私は雷鳴、つまり音と衝撃は制御できた。でも、純粋な電気…その源は、ずっと彼女のものだった。彼女が『私』の力を受け継いだんじゃない…私が、ずっと彼女の力の一端を使っていただけ…私は『雷鳴』のドラゴの子、そしてミッカは…ミッカは…)


 ミッカの周りの電気が、目も眩むほどの光の柱となって、ゴオオオオオッと爆ぜた。


「私はミッカ・ソレル…『雷』のドラゴの子…ボルト!」


「…アルマ…ミッカ…サンダー…ボルト…もはや貴様が何者であろうと関係ない…死ねえええええっ!」


 アイアンが吼え、無数の鉄の槍を放った。だが、ボルトはヒュン!と音を立てて消えていた。レグルスは、ただ目の前を何かが通り過ぎるのを感じただけだった。彼が瞬きをした時には、すでに彼とダイアンヤは広間の反対側、戦いから遠く離れた場所に移動させられていた。ドゴオオオオン!という耳をつんざく爆発音が、彼らが元いた場所を飲み込み、流星のような何かが空へと打ち上げられ、それを追うように容赦ない稲妻が突き刺さった。


「す…げぇ…」レグルスは、ただ囁いた。


 空中で、ボルトはアイアンの顔面を鷲掴みにしていた。彼が生み出す杭は、電気と化した彼女の体を、ただ虚しくすり抜けていく。*(通常の電撃では奴を倒せない…)*アイアンの顔を掴んだまま、彼女は電気の力で空中で体を回転させ、そして、サンダーの力の残響であるかのように、雷鳴の音がゴッ!と爆ぜた。アイアンは宮殿の残骸から撃ち出され、燃え盛る金属の彗星となって空を切り裂き、浜辺の方へと墜落していった。


 遠くから騒ぎを見ていたミッコは、その閃光と軌跡を見た。「ミッカ姉ちゃん?」


 ボルトは、常軌を逸した速度で急降下した。ほんの数秒で、彼女は復讐の天使のように村を薙ぎ払い、アイアンの兵士たちは、その悲鳴さえも途中で断ち切られ、次々と倒れていった。


 アイアンは、ザッパーン!と、水の壁を巻き上げながら浜辺に激突した。彼が体勢を立て直す前に、ボルトはすでにそこにいた。濡れた砂の上に、静かに立っていた。彼女の体は切り傷と打撲に覆われていたが、彼女自身が、純粋なエネルギーを放つダイナモのように、ビリビリと振動していた。


 激昂したアイアンは、立て続けに攻撃を放った。だが、ボルトは微動だにせず、実体を持たない雷の体で、鉄の槍をただ通り抜けさせた。絶望的な状況に、アイアンは苦悶の叫びを上げたが、目の前の少女は、触れることさえできなかった。


「《海流の牢獄》!」ボルトが唱えた。アイアンの周りの海水が、ゴボゴボと音を立てて盛り上がり、巨大な人型を形成して彼を掴み、潮の牢獄に閉じ込めた。彼女は腕を掲げ、ルーン文字が輝き、とどめの一撃の準備を整えた。だが、アイアンは、ゴボゴボという音を立てながら、狂ったように笑っていた。ボルトは空を見上げた。暗い、蒸気で動く軍艦が雲から降下し、その魔力砲が発射準備を整えていた。


 その一瞬の油断が、彼女の過ちだった。水の牢獄が霧散する。アイアンの拳が、エレメンタルの炎をまとって、彼女を真正面から捉えた。爆発が、彼女を浜辺の向こうへと吹き飛ばした。


 ボルトは濡れた砂の上を転がった。電気の体が明滅し、火傷の、生々しく残酷な痛みが、彼女を脆い人間の体へと引き戻す。彼女は立ち上がろうとしたが、腕は震え、肺は空気を求め喘いだ。


 気づいた時、彼女の目は絶望に見開かれた。炎のエレメンタルが、彼女の目の前で、飢えた太陽のように脈打っていた。アイアンはゆっくりと彼女に歩み寄る。その体は痛みと怒りの地図だったが、その目には、目前の勝利への凱歌が輝いていた。彼は倒れた少女の上に立つと、両腕を天に掲げた。その祈りは、軍艦へではなく、彼の真の切り札であるエレメンタルへ向けられたものだった。


 その声は、この世の終わりを告げる王の、最後の勅令のように浜辺に響き渡った。


「聞け、偉大なる火のエレメンタルよ! 我が命、我が魂、我がすべてを捧げる! 見返りに…我が敵を滅ぼせ!」


 エレメンタルは、ゴゴゴゴ…と、世界の心臓そのものから来るかのような、低く、共鳴する音で振動した。契約は、承認された。生きた炎の鎖がエレメンタルからほとばしり、空中で蛇のようにうねり、ボルトの体に絡みついた。


「ぎゃあああああああ!」


 彼女の叫びは鋭く、想像を絶する痛みに満ちていた。鎖はジュウウウウ!と音を立てて彼女の肌を焼き、圧倒的なエネルギーが、彼女自身のドラゴンの力を押さえつけていく。彼女は、無力だった。


 崩壊寸前だったアイアンの体が、癒え始めた。火傷は消え、傷は塞がり、生命のエネルギーが、敵から吸い上げられ、エレメンタルによって彼に与えられていく。


「…知っているか」アイアンは、新たな傲慢さをその声に滲ませて言った。「…通常、上位のエレメンタルと契約を結ぶには、相応の生贄を捧げねばならん。だが、奴は…奴が、この俺を選んだのだ! 俺は、祝福されし者!」


『嘘だ!』 アルマの声が、ミッカの心の中で弱々しく響いた。『エレメンタルは力を貸すだけ…自分のものでないものは与えられない…ミッカ、奴の集中を乱せ!奴が集中を失えば──』


「や…やってるわよ!」ボルトは、苦悶の中で、途切れ途切れに叫んだ。


「おや? まだ独り言か?」アイアンは嘲笑い、彼女に近づいた。彼はしゃがみこみ、その顔を彼女の数センチ先まで寄せた。「俺の治癒と、貴様の死への代償は、無論、貴様の魂だ。奴のようなエレメンタルが、ドラゴの子という稀有なご馳走を断るはずもなかろう…」彼は一呼吸置き、残酷な笑みを浮かべた。「…おっと、訂正だ。ドラゴの子、二人の魂、か!」彼の視線が、宮殿の廃墟、レグルスとダイアンヤがいるであろう場所へと向けられた。「ああ…奴も、さぞ満足することだろう」


 彼は立ち上がり、慈悲の一撃を、エレメンタルがその獲物を喰らうのを見届けるために、準備を整えた。勝利は、絶対的だった。


 ズドン!


 爆発的な、乾いた金属音が空気を引き裂いた。遠くからだ。アイアンは反応する暇もなかった。未知の飛翔体が彼の背中を直撃し、再生した鎧を貫き、彼を前方へと吹き飛ばした。


 彼は振り返り、その目は衝撃と怒りに見開かれていた。「な、何だと!?」


 浜辺を見下ろす崖の上に、小さな人影が、奇妙な、長く、そしてまだ煙を吹く金属の物体を構えていた。テセウキの言葉が、少年の頭の中でこだまする──『最後の手段としてだけ使えよ、ミッコ』


「痛いではないか、小僧!」アイアンが吼えた。飛翔体は、鉄の波によって彼の体から押し出された。無数の杭が具現化し、ミッコ目掛けて、死の軌道を描いて飛翔する。


 少年は、二度考えなかった。彼は振り返り、ただ走った。背後で、死の口笛のように金属の槍が空気を切り裂く音がする。彼はつまずき、立ち上がり、心臓は肋骨を叩き割らんばかりに脈打っていた。もう、ダメだ。ここまでだ。


 その時、閃光が走った。黄色く、目が眩むほどの。そして、今までとは違う、より重々しい電気の音がした。


 ミッコが目を開けた時、アイアンの杭は、彼の顔の数センチ手前で、サラサラと塵に変わっていた。助かった。彼は浜辺の方へ振り返り、感謝の涙に濡れた目で、姉の名を叫ぼうとした。


 だが、彼が見た光景は、その感謝の言葉を彼の唇の上で凍りつかせた。ミッカは、まだ砂の上に倒れ、肌を覆う火傷に苦悶していた。


 アイアンは背後、ボルトがいた場所を見たが、彼女はもうそこにはいなかった。彼は再び崖の上の少年へと向き直り、その顔には苛立ちと怒りが浮かんでいた。その時、彼は空気の変化に気づいた。彼の背後にいた炎のエレメンタルは、もはやただの怒りだけを放ってはいなかった。ゴボゴボと、まるで沸騰するように、振動していた。それは…捕食者の、興奮だった。


 *(獲物を『狩る』ことに、興奮しているのか…)*アイアンは、独りごちた。


 だが、エレメンタルを興奮させていたのは、狩りではなかった…


「どういたしまして」


 穏やかで、知らない男の声がした。


 一人の男が、まるで散歩でもするかのように、落ち着いた足取りで崖を降りてきていた。その一歩一歩は、揺るぎなく、確かだった。燃え盛る村から吹いてくる熱風に、その金色の髪が揺れている。その青い瞳は、真剣で、貫くような光を宿していた。彼の存在感は圧倒的で、混沌の中の、静かで、恐ろしいほどの落ち着きがあった。


 倒れていたミッカは彼を見上げ、理解できない、暖かく、そして安心する感覚に包まれた。彼の背後で、アルマの魂が、半透明の体を揺らし、その目は絶対的な驚愕に見開かれていた。


「お兄…ちゃん…」


 男は、ピシリと、動きを止めた。その全身が硬直し、圧倒的な落ち着きが、重い静寂へと変わった。ゆっくりと、彼はミッカの方を向いた。彼の青い瞳は、今、彼と倒れた少女だけが見える、空虚な一点を見つめていた。その顔、かつては厳格な仮面を被っていたその顔が、深く、そして馴染みのある悲しみに和らいだ。それは、時間そのものと同じくらい古く感じられる痛みだった。


「そうか…」その問いは、痛みを伴う諦めを帯びた、囁きだった。「…それが、君の選択だったんだね、アルマ?」


 彼は完全に振り返り、その長身で、浜辺の惨状を彼女の視界から遮った。彼の手のひらから、月光のように穏やかな、青白い光が溢れ始めた。彼はミッカの隣に膝をつき、その光が彼女の体に触れた。それは焼かず、攻撃的でもなかった。純粋で、優しい温もりが彼女の肌を洗い、火傷の耐え難い痛みが、まるで初めから存在しなかったかのように、一瞬で霧散した。


 ミッカは彼を見上げた。そして、恐怖が、どんな傷よりも冷たく、鋭く、彼女の心を掴んだ。


(私、彼の妹さんの体を…彼女の命を、奪ったんだ…彼は、私のことをどう思うんだろう?私に、何をするんだろう?)


 彼女は、彼の目に怒りを見ることを覚悟した。非難を。憎しみを。だが、そこには何もなかった。ただ、あの、深く、そして静かな悲しみだけがあった。そして、何かが変わった。彼の目尻が和らぎ、悲しみは、一つの笑みへと変わっていった。


 それは、あの笑みだった。


 あの、断片的な記憶の中の、温かい笑み。最初の力の目覚めの時、弟を救うために現れた、電気の拳と共にあった、あの安心させる笑み。それは、守護者の笑みだった。


「少し、奇妙に聞こえるかもしれないけれど…」彼は言った。その声は穏やかで、一言一言を、慎重に選んでいる。「…僕が、君の兄!」彼は少し間を置き、その笑みを広げた。「よく、頑張ったね」


 彼は立ち上がり、そして、アイアンと、飢えた炎のエレメンタルと対峙するために振り返った。その優しい笑みは消え、代わりに、戦士だけが持つ、冷たく、揺るぎない自信がその顔に浮かんだ。


「…だから、ここからは、お兄ちゃんに任せて!」

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