第四十七話:離宮での稽古【後編】
「では、次は少し動いてみましょう」
俺はゆっくりと片足を前に出した。
殿下が俺を真似ようとして慎重に片足を前に出す。その動きは硬い。
「殿下、足を出す時、体のどこが最初に動きましたか?」
「……足、です」
「そうですね。では、もう一度。今度は、動かない方の足を意識して、その足でしっかり地面を踏むイメージで。結果的に反対側の足が上がるように」
殿下は眉をひそめたが、言われた通りにもう一度足を出した。今度は、わずかにだが動きが滑らかになった。
「……あ」
殿下の声に、驚きが混じる。
「今の、何か……違いました」
「そうです。それが『体が繋がっている』ということです」
俺は自分の体を指さした。
「足だけで動くのではなく、体全体で動く。それが『理』の一つです」
それから何度も、俺たちは同じ動きを繰り返した。前に出る。後ろに下がる。横に移動する。ただそれだけの、単純な動き。
だが、殿下の動きは確実に変わっていった。最初はぎこちなかった足運びが、少しずつ自然になっていく。肩の力が抜け、呼吸が整い、動きに無駄がなくなっていく。
「師範」
殿下が俺を呼んだ。
「これは……不思議な感覚です」
「どんな感覚ですか?」
「……うまく言葉にできませんが」
殿下は自分の手を見つめた。
「いままで、私は『王太子として』立ち、動いていました。それが当然で、それ以外の立ち方など知りませんでした」
「はい」
「ですが、いま……」
殿下は俺を見た。その黒い瞳には、わずかな驚きと、何か新しいものを見つけたような輝きがあった。
「いまは、ただ『私』がここにいる、という感覚があります」
俺は、その言葉に静かに頷いた。
「それが、殿下の『理』の始まりです」
殿下は目を見開いた。
「……これが?」
「そうです。剣を振る前に、まず自分がここにいることを知る。それが全ての始まりなんです」
俺は自分の胸を軽く叩いた。
「師匠は言いました。『お前が、お前になるための方法』を探せ、と。殿下も同じです。殿下が、殿下自身になる。それが、殿下の剣の始まりです」
殿下は、しばらく黙って俺を見つめていた。そして、ゆっくりとその口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「……面白い」
その声には、心からの興味が滲んでいた。
「私は、剣とはもっと厳格で、形式的なものだと思っていました。正しい型を学び、技を身につける、そういうものだと」
俺は頷いた。
「それも、剣の学び方の一つです。それが間違った方法だとは思いません。ですが、師匠が教えてくれたのは、もっと違うものでした。形よりも、心。技よりも、在り方」
「在り方……」
殿下はその言葉を繰り返した。
それから、館の中に入り俺たちは休憩を取った。クラリスが用意してくれた茶を飲みながら、殿下は窓の外を眺めていた。
「師範」
「はい」
「この稽古は……どれくらい続ければ、剣が振れるようになるのでしょうか」
俺は少し考えてから答えた。
「分かりません」
殿下は驚いたように俺を見た。
「分からない?」
「はい。人によって違います。ですが、焦る必要はありません」
俺は茶を一口飲んだ。
「殿下がいま感じている『自分がここにいる』という感覚。それが深まれば深まるほど、剣は自然に振れるようになります。まずは剣を振るに足る体、自分を手に入れるのです」
「……そういうものなのですか」
「そういうものです」と答えながら、ふと師匠が一度見せてくれたことを思い出した。
「少し失礼をします」
俺はそう声を掛けて立ち上がった。殿下は座ったまま黙って頷き、俺の動きを目で追っている。
そのまま三歩離れるると、部屋の中央に殿下から見て自分が真横に見えるように立った。
俺はそのまま、左腰に佩いた刀をすらりと抜くと、水平に振り、そのまま頭上に差し上げたところで左手を添え、両手で真っ向から切り下ろし、左手を鞘に添えながら、右手で軽く刀を払ってから鞘に戻した。
鞘に戻したところで、同じことを繰り返した。ただし今度は少し速く行う。動きは全くそのまま、速さに緩急や調子をつけず、動きに角を作らずにこれを繰り返す。次第に剣速を増してゆく。そのうちに自分が刀を振っているのか、刀に振られているのかが分からなくなっていく。視点が身体を離れ、少し遠いところから凄まじい速さで、毛筋一筋、剣閃を狂わさずに刀を振っている自分と、それを驚いた表情で見ている殿下が見えてくる。限りなく速く刀を振る一方で、全てがゆっくりと、時間が引き伸ばされていくような感覚が生じる。
部屋の中には俺が振る刀の樋鳴りの音だけが微かに聞こえる。
やがて俺は次第に動きをゆっくりにして、最初の一本目を抜いた時と同じ速さになったところで、鞘に納めた。
俺は呆気にとられている殿下に一礼して、元の席戻った
ややあって殿下が口を開いた。
「……凄いです、いまのは……、最初から最後まで止まるところがなく、一筋の乱れもありませんでした……」
「刀というものは僅かな狂いも許しません。掠っただけでも致命傷になることがある、そういうものです。そうしたものを扱うには、まず身と心がひとつに、自然の理に沿わなければならなりません」
「自然に沿う……」
俺は頷いた。
「はい。ですから焦る必要はありません。木々の成長がそれぞれなように、人もまたそれぞれです。師匠は言いました。『急ぐな。根を張れ』と」
「……分かりました」
そう答えた殿下の顔には、なにか腑に落ちるものがあったように見えた。
休憩の後、また中庭で歩く稽古を再開すると、殿下の動きが変わっていた。まだぎこちなさは残っているし。まだ、迷いもある。しかし、確実に殿下の中で何かが変わり始めていた。それは花が咲くような派手なものではない。静かに、地中にある種が芽吹き、静かに硬い大地に根を伸ばそうとするような、そんな小さな変化だった。
「殿下、いまの動きはとても良かったです。私の真似ではなく、殿下の動きでした」
俺がそう言うと、殿下は少し照れたように笑った。
「……師範に褒められると、不思議と嬉しいですね」
「俺も、一緒に稽古をしていて楽しいです」
「そうですか」
殿下は空を見上げた。
「……私は、ずっと『王太子』でした。生まれた時から、そうあることを求められ、そうあり続けてきました」
「はい」
「ですが、いまは……ただの『私』でいられる気がします」
その声には、安堵が滲んでいた。
「師範、貴方と稽古をしていると……私は、私でいいのだと思えるのです」
俺は、その言葉に少し胸が温かくなるのを感じた。師匠が俺に教えてくれたこと。それを、いま俺は、殿下に伝えている。形は違っても、その「心」は同じだ。
「殿下、また稽古をしましょう」
「はい。ぜひ、お願いします」
殿下は、柔らかく微笑んだ。その笑顔には、もう最初の緊張はなかった。ただ、素直に自分自身として、そこにいる。そんな、穏やかな表情だった。
稽古が終わり、俺は離宮を後にした。見送ってくれたクラリスが俺の顔を見て、「あんな顔の殿下を見るのは初めてです」と言った。
帰り道、馬車の窓から空を見上げると、夕日が雲を赤く染めていた。
殿下は確実に変わり始めている。それは剣の技術ではなく、もっと根本的な「自分がここにいる」という、当たり前だけれど、とても大切なこと。
師匠はいつも言っていた。「『もし』という言葉を使うな」と。
未来は、誰にも分からない。だから、いまこの瞬間を、ただ大切にする。それだけでいいのだと、俺は思った。
(第四十七話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
前回、二人の稽古がボディワークをモデルにしていることをお伝えしました。地味なワークが多く、実際にはアレクシウスのように、すぐに大きな変化を感じるというわけではないのですが、そこはご容赦を。ただ、「私」の存在を感じることで、意識的、無為意識的に背負っている社会的なレッテルや重荷から少し離れる方法としては有効だと思います。さてアレクシウスは長年背負ってきた重荷を下ろせるのでしょうか?
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次回は明日の11時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




