第百一話:二つの空の下で【前編】
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気がついた時、私たちは荒涼とした竜背丘陵の大地にいた。
冬の高い空の下、冷たい風が吹き抜けていく。
それまで捻れた熱気と爛れた瘴気に晒されていた肌に、その清冽な空気は心地よかった。
見渡すとエリオット殿を中心に、地下空間で死線を潜り抜けた者たちが顔を揃えていた。イザベル様の腕の中には、地下で倒れたルナが抱えられている。
「大丈夫です。気を失っているだけです」
傍に立つエリオット殿がそう言い添えるが、イザベル様の瞳には隠しきれない気遣わしげな色が浮かんでいた。
「どうやら、全員無事に脱出できたようですな」
エリオット殿の声が風に乗り、周囲から安堵の溜息と男たちの応える声が漏れる。だがその中で、一人無言のまま空を見上げている者がいた。ライル様だ。その瞳には、深い哀しみの色が湛えられていた。私は口を開きかけたが、掛けるべき言葉が見つからず、ただ黙って彼の傍らに歩み寄った。
横に並んだ時、彼はチラリと私を見ると、静かに口を開いた。
「セレスさん、無事でよかった」
そう言うと、彼はまた黙って空を見上げた。
沈黙に包まれた私たちに代わって声を上げたのは、イザベル様だった。
「……ライル殿。なぜあの時、殿下をお救いしなかった」
ルナを抱えたまま放たれたその一言は、生還の安堵に微睡んでいた私たちの意識を、鋭く覚醒させるには十分だった。
全員の注目を浴びながらも、ライル様は動じることなく、ゆっくりと視線を空からイザベル様へと移す。
「殿下は戦っています」
「なに……?」
「殿下は、いまも戦っているのです」
ライル様は同じ言葉を二度繰り返すと、再び視線を虚空へと戻した。
その瞬間、イザベル様が纏う空気が一変するのを、私は肌で感じた。
それは、これまで見たこともない冷酷な波動。あのルナが囚われていた部屋で目にした、夥しい数の死体に漂っていた残滓と同じもの。そう直感し、私はそれを「視覚」ではなく「感覚」で捉えている自分に驚いていた。
(この感覚……なんだろう……、前よりも物事の色が見える気がする?)
思考を巡らせる暇もなく、ライル様が私を見た。微かに、その口元に笑みが浮かんでいるように見えた。
一方、無視された形となったイザベル様の空気はさらに重く沈み、微かな瘴気さえ混じり始めていた。ルナを抱えていなければ、いまにも剣を抜いてライル様に斬りつけかねない。その危うい気配に私は身を固くしたが、不思議なことに周囲の者たちは誰もその異常に気づいていないようだった。
ライル様が再びイザベル様へ視線を転じる。
「あそこで私にできることはありませんでした。それができたのは殿下だけです」
その返答に、イザベル様は一瞬虚を突かれた表情を見せたが、すぐさま苛立ちを剥き出しにした。
「訳の分からないことを言うな! 貴様はいつもそうやって思わせぶりな言葉を並べるが、あの場で殿下を見捨てたことが、それで済まされると思うのか! それができぬと言うのであれば――」
彼女の纏う不穏な空気はさらに密度を増し、黒く澱んでいく。しかしライル様はそれに応じることはなく、三度、空を見上げた。
逆上した彼女がさらに何かを言いかけた時、それを制したのは、その腕に抱かれていた銀髪の少女だった。
「イザベル様。ライル様を責めても、意味はありませんわ」
「ルナ……!? ルナリア殿、気がついたのか……」
ルナは弱々しくも、イザベル様に微笑みかける。
「イザベル様、助けていただき感謝いたします。……大丈夫ですわ、もう一人で立てます」
イザベル様は壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりとルナを降ろした。一瞬ふらついたルナだったが、イザベル様の腕を支えにして体勢を立て直す。陽光の下で見る彼女の銀髪は神々しいほどだったが、その顔色は蒼白で、疲労は隠しようもなかった。
「ルナ、本当に大丈夫なの?」
「お姉様、大丈夫ですわ。……それにしても」
「それにしても、どうしたの?」
「相変わらずお姉様はお美しいわね。まあ、私の片割れなのですから、当然と言えば当然ですが」
「ル、ルナ……!」
場に流れていた殺伐とした空気が、彼女の冗談で一瞬だけ緩む。心配顔だったイザベル様も、緊張していた周囲の男たちも、毒気を抜かれたように鼻を白ませていた。
ルナはにっこりと笑うと、再びイザベル様へと向き直った。
「イザベル様。あの場でのライル様の判断は、正しいものですわ」
イザベル様の瞳に厳しい光が宿る。相手がルナであろうと、納得のいかない弁明は許さないという意志だ。
「殿下は、あのゴーレムの器と化しておられました。無理に引き剥がそうとすればゴーレムは沈黙したでしょうが、殿下の命もまた、無事では済まなかったはずです」
「……それは、確かなのか」
「ええ。古の魔術には人を器とするものが数多く存在します。あのゴーレムはその中でも……最も醜悪な、禁忌の類」
ルナが奥歯を噛み締める音が聞こえた。知らず知らずのうちに、私もまた拳を握りしめていた。
「強い魔力を持つ者を、生きたまま肉体ごと圧搾し、その行き場のない負の感情と絶望を魔力として封じ込める。その無数の怨嗟を統べる中枢が『器』――今回の場合、殿下なのですわ」
「……では、あのゴーレムは」
「アウレリアやタイドリア、各地から攫われた者たちの怨念の集合体です。それも信じられないくらい濃く暗い……。あの状況で無理にアレクシウス殿下を救出しようとすれば、殿下の精神は、器に注ぎ込まれた万の絶望に呑み込まれ、崩壊していたでしょう。私たちが目にするのは、生きた屍となった殿下の姿だったはずです」
イザベル様の蒼い瞳が大きく見開かれ、ライル様へと向けられる。
「ライル! 貴様……最初からそれを知っていたのか!?」
ライル様は空を見上げたまま、ゆっくりと、しかし確かな声で応じた。
「ルナさんが仰るような、詳しいことは分かりません。ですが――」
彼はそこで振り返り、一同を射抜くような視線で見回した。
「自分を救うのは、自分だけなのです」
全員が絶句し、ただ風の音だけが草原を通り抜けていく。
その沈黙を破ったのは、言葉ではなかった。
――シャリン。
硬質な、剣を引き抜く音が響き渡る。
周囲の温度が下がり、吹き渡る風さえも凍りつくように思えた。しかしライル様はその抜身の剣を一瞥することすらせず、再び空に視線を戻した。
「殿下は、お前に助けを求めておられたではないか……」
ゆらりと、イザベル様が間合いを詰める。その動きは騎士のそれではなく、獲物を屠る暗殺者のものだ。付き従う(王の影)の面々の顔から、感情が消える。自由な方の腕に、ルナが縋るように力を込めた。その金色の瞳には、せっかく一度は自分が解いたこの場の雰囲気が、再び剣呑なものになってしまったことに焦る色があった。
「イザベル様、いけませんわ……!」
彼女の制止を、イザベル様は黙殺した。さらに、髪の毛数本分ほどの極限の間合いまで、音もなく踏み込む。
「……北の空が燃えている」
空を見上げていたライル様が、そう呟いた。
こんにちは、佐藤峰樹です。
百話を超えた本話は、まさに第三部の転換点になります。振り返ると「思えば遠くに来たもんだ」と思いますが、どうも著者が登場人物に連れてこられたみたいで不思議な気分です。
ここのところなかなかダークな展開でどうなることかと思っていたのですが、根気よくお読みいただいている方はいるようで嬉しい限りです。
筆者的にも暴馬的な展開で目を回しているのですが、「続きが読みたい!」という方は、ぜひブックマーク&評価を頂ければ嬉しいです。こんな時だから、いま一話から本作を読むのは、なかなか得難い経験だと思います(多分)。私もうっかり先日読み始めてえらいことになりました。いや凄いです、色々(笑)。
次回は明日の12時前後の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




