第九十五話:アークライトの双玉【前編】
視界がぐにゃりと反転した直後、足の下には冷たい石の感触があった。
「……ッ!」
鼻を突く鉄錆のような血の匂いと、濃密な魔力の澱に全身の毛が逆立つ。光が収まり、焦点が戻ってきた視界に飛び込んできたのは、あまりに凄惨な光景だった。
広い部屋のあちこちに、人の死体が無造作に転がっていた。その損壊具合から、手練れの戦闘者による一方的で、容赦のなさと、残忍さが感じられた。
思わず目を背けたくなる光景だったが、そうすることはできなかった。
一番遠い、この部屋への出入り口側に、一際異様な光景があったからだ。
その女はプラチナブロンドの髪をなびかせ、赤い唇を歪めて立っていた。黒いローブを着ていることから魔術師であるのだろう。ヴァイスが着ていたものと似ていたがそれよりも装飾は少なく、昔見た、魔法具を作っている時のルナが着ていたようなシンプルなものだった。
そしてその足元には、亜麻色の髪の長身の女性が膝を屈していた。それが誰かすぐに分かった。
(イザベル様!)
誇り高き騎士である彼女が自らその膝を屈する人は、この世にわずか数人、アウレリア王家に連なる者のはずだ。少なくとも、いま彼女の目の前に立つ、怪しげな女ではない。だとすれば何らかの魔術によって操られ、強制的に行われているのだろう。ここからでは顔は見えないが、それが屈辱に歪んでいることは想像に難くない。
部屋の中央では、イザベル様の部下だろう、数人の男が凍りついたように硬直させられている。
そして、この部屋で最も異様なものは私のすぐ目の前にあった。
祭壇と思われる石造りの円形の台の真上にルナがいた。彼女はそこに身を横たえていたのではない。祭壇の真上に両腕を頭の上で戒められて、吊るされていた。
か細いその手首には、不気味な紫色の木の蔦の様なものが巻きつき、そこから何かを吸い上げるように、拍動を繰り返していた。そのゴツゴツと節くれだった蔦が、無遠慮に真っ白い肌に絡みつく様は酷く猥雑で、それだけでも目を背けたくなる光景だった。左の腕にはイザベル様が渡された銀のブレスレットが見えた。魔石が黒に染まっている。
その体は、薄汚れた白い布切れ一枚に包まれ、血の気を失い項垂れた顔の白さが、一際、その汚れを目立たせていた。
そこにはいつも自信に満ち、どんなことでもできると信じて疑わず、なにより他人に自分の運命を委ねることを嫌った姿はなかった。
黒いローブの女は、突然の登場に驚いた様子でこちらを見ていた。
「何者だ!」
それには答えない。
「ルナに何をしたの!?」
女はその返事を聞くとニヤリと笑った。
「ああ、貴女はルナリアの双子の姉のセレスティアね。どうしてこんなところに迷い込んだのかは分からないけど、生憎いまは取り込み中でね、妹と違って無能な貴女には用はないの」
そう言うと、赤い唇が何事か術式を呟くのが分かった。同時に頭の中に、冷たい泥が流れ込んでくるような感覚に襲われた。
(――絶大な魔力を持つルナリアに比べて、貴女はなに? 顔の作りは同じだけれど、中身は全く違う凡庸な剣士。優秀な妹の足を引っ張るだけのお荷物。それが貴女よ)
それは独房でヴァイスに面と向かって言われたものより、遥かに鋭く、深く私の心に突き刺さった。(精神干渉の魔術だ)ということは分かっていても、心が揺さぶられる。
(――天に愛された妹、泥にまみれた姉。貴女はただの、できの悪いスペアにすらなれず、常に妹の存在を仰ぎ見て、その足元をウロウロすることしかできない。……惨めだとは思わない?)
ぐらりと視界が揺れる。小さい頃は何をやるにも私が先にお手本を見せていた。体が弱く、臆病で、おずおずと付いてくる手を引いていた。いつだって背後には、置いていかれまいと一生懸命に駆けてくる小さな足音と、「お姉さま、待って!」という声が聞こえていた。
それが変わり始めたのは、九歳になった頃からだった。道場に来なくなった彼女は、お母様の遺品の本と魔法具に熱中するようになった。最初はすぐに飽きるだろうと思って見ていたけれどそれは違った。横で見ていて心配になるほど、魔法の魅力に取り憑かれていった。そしてほどなくその才能が開花した。
見る見るうちに眩しい存在へと変わっていく姿を最初は喜んで見ていた。けれど、次第にその眩しさを直視できなくなっていた。
(そうだ。ルナリアがお前から光を奪ったのだ)そう言う女の声が頭に響く。
十歳の時に、王都の魔法学校に入学し、寮に住むことになった時、初めて離れ離れになることがとても怖かった。でも、心のどこかでほっとしている自分がいたのを覚えている。
だけど、離れて暮らし始めても彼女の話題が聞こえてきた。それほど巨大な存在になったのだ。もちろん私も剣士としての腕を磨き、優秀な成績で多くの大会で勝利を重ねていた。「アークライトの双玉」と呼ばれ、剣と魔法を修める双子の姉妹として、社交界で持て囃されることも少なくなかった。そうした場所が苦手な私だったが、時折出席する度に感じたのは、日々高まっていく彼女の名声だった。「学校始まって以来の英才」「十代にして完成された天才魔法使い」「新時代の術式の担い手」そうした賞賛を聞くのは嬉しくもあり、いつしか悔しくなっていた。
(――そうだ。お前は悔しかったのだ。妹のことを心のどこかで疎ましく思っていたのだ)
毒のように女の思念が心の隙間に滑り込んでくる。
確かにそうだ。私はいつしか眩しい存在となったルナのことを疎ましく思っていた。その証拠だろう。子供の頃は互いに、言葉にしなくても自然に通じあっていたことが分からなくなっていった。でも……。
(ルナの声が確かに聞こえた)
何年振りか、彼女の声がヴァイスと入れ替わりで魔法陣に立った時に聞こえたのだ。「……セレス、姉様……、ここへ来て……」と。
ルナが私を必要としている。
だから私はいまここにいるのだ。
顔を上げ、キッと自分を睨む様子に、女の灰色の目に力がこもると、赤い唇がさらに早口で術式を唱える。
(――ルナリアに呼ばれた? 誰も貴女なんか必要としない。まして天才魔法使いがお前のような役立たずの、実の妹の栄達を恨みがましい目で見ている姉を呼ぶわけがない! 考えてみろ、お前がここで何をできるというのだ? 私のような強力な魔術師の精神干渉を、お前の様な非力な剣士がどうやって防ぐというのだ? 身の程をわきまえるがいい)
ぐらりと心が再び揺れる。
(私はルナをそんなにも恨みがましく見ていたのだろうか?)
(――そうだ。私には捕らえたルナリアの思いが分かる。彼女は器が小さく無能なお前と並べられることが我慢ならなかったのだ。姉などおらず、いっそ一人であればもっと自由であった、と)
体から力が抜けそうになる。
(私は、いない方が良かった……? ルナは私のことをそんなふうに思っていたのか……。無理もない……。私は姉らしいことを何もできていなかったのだから)
あの日、王都の自分の部屋で朝焼けの光を浴びながら感じた、自分の輪郭が侵食されるのを感じる。ありのままの自分であること。それを私自身が許したあの感覚が、失われようとしている……。
(……お姉様、私の心を見て)
それはルナの声だった。
パリン、と。 脳内を侵食していた黒い泥が、硬質な音を立てて砕け散る感覚があった。
「な……ッ!?」
目の前の女が驚愕に目を見開き、よろめくのが見えた。次の瞬間、頭に直接、全く違う場面が雪崩れ込んできた。それは陽だまりのように温かく、懐かしい――黄金色の光だった。
(……あ……)
視界が白く染まり、脳裏に「誰か」の記憶が映し出される。 それは、誰かの目から見た女の子の背中だった。すぐに気がついた。それはルナの視点から見た、幼い日の自分の背中だ。
『お姉ちゃん、すごい!』
幼いルナの声が響く。そこに映ったのは近所のいじめっ子から彼女を庇って、木の棒を構えて立っている私だった。
『私ね、いつも思っていたの』
想いが、言葉となって心に溶けてくる。
『お父様に叱られても、泥だらけになっても、剣を振っている時のお姉ちゃんは、誰よりも楽しそうで、キラキラしていて……。私にとっての一番の憧れだった』
風景が変わる。 道場で大人と一緒に稽古をしている子供の私がいた。
『私も、あんな風になりたい。お姉ちゃんみたいに、何かに夢中になって、誰かを守れる強さが欲しい。……守られるだけの妹じゃなくて、いつかお姉ちゃんの隣に並べるような、私だけの「剣」が欲しい』
そして、場面は書庫へと変わる。 埃っぽい部屋で、ボロボロの魔導書の文字を目が追っている。不意に視線が頁から離れた小さな指先へと映る。たどたどしく術式を唱える声が聞こえる。次の瞬間、パチパチ、という破裂音と同時に、指先から小さな火花が出る。
『見て、お姉さま! 私、見つけたよ! お姉さまみたいに私が夢中になれるものを!』
胸が、熱くなる。 彼女が魔法に没頭し、私から離れていった理由。それは、私を疎ましく思ったからでも、剣術が嫌いだったからでもなかった。 剣術にひたむきな私を見て、自分も同じように夢中になれるものを探し、それを見つけたからだったのだ。 (双子だから)という枠を越えて、違う道を歩むことで、対等な存在として私に近づこうとしていたのだ。
(そうだったのね、ルナ……)
流れ込む想念の最後にいまの彼女の声が、はっきりと響いた。
(私の自慢のセレス姉様。……助けに来てくれて、ありがとう)
光が収束し、現実の視界が戻る。 目の前には、祭壇に吊るされたまま、ゆっくりと目を開ける姿があった。 その黄金の瞳には幼い日と同じ輝きがあった。
「……馬鹿な。精神干渉が、完全に遮断されただと……?」
女が信じられないものを見る目で後ずさる。 私は静かに剣を構え直した。もう、迷いはない。失いかけていた自分の輪郭を完全に取り戻していた。
「ええ、そうよ」
女を見据える。
「……双子であっても、私たちは別の人間よ」
自分の口から発せられる声は不思議なほど静かだった。
「違いがあるのは当然。……執着して、勝手に苦しんでいたのは私だった。でも、もう他者と自分を比べたりはしない」
「なっ……!?」
「私は、私。ルナは、ルナ。……貴女のような空っぽの魔女に、私の価値を決めさせはしない」
その時、ライル様が初めて会った時から言っていたこと、「自然である」という言葉が違う色合いと重さをもって体の中に現れていた。それは頭ではなく、お腹の奥で起きた「理解」、「理を解く」という納得だった。
「自然」であること。それを求めていたがゆえに、掴もうと執着するほど離れていっていた私。でもいまこの瞬間。私はそれを理解した。多分、私はこれからも時に道を見失い、失敗するだろう。だけどこの道を歩けられる。なぜなら、自分を自分として生きることが、これほどまでに「楽しい」と知ってしまったから。
「……お姉様」
その声を聞いた瞬間、彼女が何を求めているのか、体が理解した。振り向きざまに腰の剣を抜くと背後にあった紫色に輝く魔石を叩き割った。
ガチャン!
という音と、
「やめろぉおお!」
女の絶叫が重なり部屋に響いた。
こんにちは、佐藤峰樹です。
さて、再び場面は戻ります。ヴァイスとネネトを相手に自分に向かい合ったセレスの成長は、書いていて眩しいものがあります。
お陰様でブックマークは92となりました。夢の 三桁まであと8つ! 着実に一歩一歩進められてきたのは、読んで頂いている皆さまのお陰です。ブックマークの登録の有無に関わらず、改めて拙文を読んでいただけたことに感謝いたします。まだ100には届いていませんが、引き続きよろしくお願いいたします。
次回は明日の12時前後の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




