第八十九話 繋がれた銀貨、影の招集【前編】
吹き抜ける夜風が、岩肌を削るような音を立てていた。
竜背丘陵の夜は、王都のそれよりも遥かに深く、冷たい。私は岩陰に身を潜め、隣で魔石版の微かな光に照らされているエリオットの横顔を、どこか遠いもののように眺めていた。一際冷たい風に顔を撫でられ、思わずその源を目で遡る。それは三日前まで、自分が目指し行軍の途にあった北の大地のように思えた。
(ギデオン殿とレオポルド殿はご無事だろうか……)
思わずそんなことが頭をよぎる。予定では、後四、五日で、アイゼンハイド辺境伯が守る白狼の砦に合流し、そこから本格的な蛮族討伐作戦が展開される予定であった。後四日の内に、そこに戻らなければならない――そう思うと、こうしている時間が酷く無意味に思える。
(ライルたちはまだか?)
彼らがやってくるであろう方向を見る。そこには変わらず、暗闇が静かに広がるだけだった。この状態で一日以上が経っていた。幸い私たちが発見した拠点へと侵入できる入り口の周りは、わずかながらではあるものの、灌木が生い茂っており、身を隠すことに苦労はしなかった。またエリオットの持ってきた風眼のお陰で、定期的に飛んでくる魔道具による警備さえ躱せば、他に注意するものはそれほどなかった。
「どうやら奴らは、人の目よりも魔術の目をあてにしているようですね」
とはエリオットの言だ。ライルからの報告では、少なからず実戦部隊も存在するはずだが、この拠点の警備については、基本的に魔術を頼っているということなのだろう。或いは、北の蛮族軍の方に主力を回しているのかもしれない。
その代わり、岩肌に生える灌木が薙ぎ倒されたり、所々に巨大な足跡があることから、ゴーレムがこの辺りをうろうろしていることも分かっている。
数はそれほど多くはなく、行動にも規則性がなく周囲を徘徊している様子から、失敗作のゴーレムをこの周囲に放つことで番犬代わりに利用しているようだ。そのせいか野生動物の姿はほとんど見ることがなかった。静かで寂しい丘陵に響くのは寂しい風の音と、時折、ゴーレムの仕業なのだろうか、木の倒れる音だけだった。
しかしそれとは別に、私の耳には今日の朝、エリオットが父から託されていた「アステリオンの銀貨」――符牒を通じて、ライルと交わされたやりとりが、いまも耳の奥でこびりついていた。
こちらからの呼びかけに答えたのは父、フォルカーではなくライルだった。思わぬ人物の登場に緊張が走ったが、ライルはいつもの通りの落ち着いた声で、フォルカーから「銀貨」を託されたことを告げると、私たちが王都を離れた後で起きたことを説明した。
それは衝撃的な内容だった。
【深淵の盟約】を名乗る敵は、エリオットの話の通り、アウレリア王家の血筋の者、リヴィア王女とアレクシウス殿下を狙って行動を起こしていた。
ライルはセレスティア嬢と共にリヴィア王女を追い、これを間一髪のところで救出し、敵のヴァイスと名乗る魔術師を捉えることに成功した。この魔術師がライルの尋問にペラペラと答え、リヴィア王女襲撃は囮であり、本来の狙いは水晶の離宮にいらっしゃる、より王家の血が濃いアレクシウス殿下であると話したと言う。なぜこんな重要な情報を簡単に喋ったのかは謎だが、ライルは、
「普通に尋ねたら答えてくれました」
と言うだけだった。
いずれにしろライルはその場をセレスティア嬢に任せると、すぐに水晶の離宮に向かった。しかし、そこで見たのは左腕を失ったお祖父様と重傷で戦闘不能となった父、そして無数のゴーレムに囲まれ、敵の魔術師に操られた状態のアレクシウス殿下だった。
(……父とお祖父様が倒されるとは)
改めてそう思う。(王の影)の現役の長である父は無論、伝説的な腕前を持ち、父をして忌々しそうに「息をしている限り、油断がならない」と言うお祖父様が倒れる姿は想像できなかった。
ライルの話では、到着した時にはどちらもすでに倒されていたので、何があったのか、どんな戦いだったのか、詳しいことは分からなかった。分かったのは、相手はドルゴという名前の顔に赤黒い隈取が入った大男だということだけで、「急いでいたので、それ以上のことはあまり印象に残っていません」という返事だった。
彼自身は、そのドルゴなる男を刀で叩いて昏倒させたと言うが、それほど大したことをやったとは思っていない口ぶりだった。どうもあの者は、遠慮や謙遜ではなく、本気で自分のやっていることを普通のことだと考えている節があるので、そこはこちらで補って考えなければならない。
(そうでないと、二人が気の毒だ)
そう思った。
また、アレクシウス殿下が敵と同行してその場を去った経緯も不可解なものだった。
ライルの話では、メルルという名の女魔術師はなんらかの魔法により、殿下と自分の体とを同調させることで、「自分を殺せば、アレクシウスも死ぬ!」と脅すことで、ライルの攻撃を躱したという。しかし殿下はそれを逆手に取り、「自分が死ねばお前も死ぬ」と逆に交渉の材料にすることで、その場にいる全員の命と引き換えに、彼らの望み通り同行することに同意し、魔方陣で何処へとなく姿を消したという。どうやら奴らの狙いが生きた自分を連れ去ることだと見抜いた殿下の機転によるもののようだ。しかし、ライルほどの男がその場にいたのであれば、(他に方法がなかったのか?)と思うところもあるのだが、彼からの説明ではその辺りの細かな事情が分からなかった。
ただ、殿下の行方について、父とライルが共に(ルナと一緒のところではないか?)と予想したことは概ね首肯できた。ここまでの経緯を見ている限り、奴らの狙いが新造ゴーレムの製造であるのなら、その材料として(器)であるアレクシウス殿下と、(炉)であるルナが一緒にいる可能性は高い。
いまもこの冷たい岩肌の地下のどこかで、二人が囚われ、忌々しいゴーレム製造の材料にされようとしていると考えると、吐き気がした。そしてこの一連の出来事で、ずっと後手に回されている自分に腹を立てていた。
いずれにしろ、いまはライルと合流した父の部下(王の影)たちの応援を待つしかなかった。
(それにしても、ライルの言うことをあの者たちが素直に聞くのだろうか?)
そう考えたところで、
「イザベル殿」
というエリオットの声が聞こえた。思ったよりも自分が深く物思いに沈んでいたようで、その声にちょっと不意を突かれたような気がした。
エリオットは相変わらず物腰は柔らかだが、この数日同行したことで、この男が密偵として極めて優れていることが分かった。なにしろものの考えや行動が恐ろしく合理的だ。それ自体はこうした仕事をする者にとっては当然のことだが、タイドリア独自の魔道具を最大限使うことで、できるだけ効率よい任務を遂行と、一人一人の生存率を高めることが追求されていることに驚かされた。また、アウレリアの(王の影)は、私を含めて基本的に親類縁者を含む血縁関係者が代々その任務を継いでいるが、彼らは違った。軍に付属した養成機関があり、身分に関係なく素質のある者は勧誘され、時には民間からの登用もあるというのだ。
そうした話を聞くうちに、
「そう言えば、エリオット殿は自分のことを『密偵』と呼ぶが、組織の名前はあるのですか? もちろん答えずとも構いませんが……」
と聞くと、彼は少し考えた後、
「……カヤ・アンと言います」
と答えた。私が、
「意味は?」
と訊ねると、
「タイドリア語で密偵です」
と笑って答えてから、説明してくれた。
「私たちの組織には特にこれといった名前がないのです。軍に付属した養成機関がありますが、そこはアウレリアの言葉で言う『情報部』という名前で呼ばれ、我々『密偵』『諜報員』を養成する。それだけなんです。だから時々仲間と言っていました。『俺たちも(王の影)みたいな格好の良い名前があればいいのに』と。そうしたらもう少し希望者が増えるんじゃないかと笑っていました」
そう語るエリオットは少し懐かしそうだった。彼はその他にも屈託なく、自分たちの組織の理念が「合理性」であり、生き延びて帰還するを第一に考えていることや、その理由が密偵を一人育てるための費用や時間が馬鹿にならないという、極めて現実的な理由であることを説明してくれた。そうしたことから、タイドリアの誇る最新の魔道具技術も、優先して彼らに与えられていると言う。
「まあ、これは秘密なんですけど」
と微笑みながら言うその口ぶりからは、父にも同じようなことを話していることが感じられた。
目の前のエリオットは、褐色の髪に灰色の瞳の、なんの変哲もない三十代半ばの男にしか見えなかった。そこに彼の凄みがあるのだ。
(我々の方が彼らから学ぶことが多いかもしれないな)
そう思いながら改めて彼を見ると、珍しく何か言いづらそうな様子で私を見ている。
「どうしました?」
「……今朝のやり取りで先方の、ライル殿のお話に出てきたクレールという人物のことなのですが」
「はい」そう答えながら私は少し用心した。いまでこそ馴染んではいるが、人の良い密偵などいるわけがないのだ。
「フォルカー殿のお父上、ということは、イザベル殿のお祖父様ということですね?」
「そうです」と答えながら、私はこの話がどこへ行くのかを頭の中で考えていた。
(お祖父様がかつてタイドリア内でこなした任務のことだろうか? だとしたらどれのことを知りたがっているのだろう?)
「……お二人とも重傷を負われているいま、こんなことをいま聞くのは、大変、その非常識で……。その……」
そう言い淀む彼に助け舟を出す。そのくらいの義理はあった。
「幸い二人とも命には別状がないとのことです。それに任務の上でのことですので、お気遣いは無用です」
その言葉に、エリオットは意を決したように私の顔を見て一気に言った。
「あの! 実は私、クレール殿に興味がありまして!」
予想外の言葉だった。
「……きょ、興味ですか?」
「はい。……笑われるかもしれませんが、私の憧れの人物なのです」
「……はっ?」
(何を言い出したのだ、この男は!?)
そう思う私の前で、エリオットは秘密を打ち明けた少年のように、照れくさそうに頬をかいた。
よくよく話を聞くと、お祖父様はタイドリアの養成機関では、破壊工作の講義で取り上げられる伝説的な人物なのだと言う。講義では名前は明かされていなかったそうだが、その物語の登場人物のような活躍にエリオットは惹かれ、独自に調べた結果、クレールという名前に辿り着き、さらに養成機関で習った以上の人物であることを知り驚いたという。
「正直に言って、最初の頃は、一人で敵の拠点に侵入して、妨害を排除して機密資料を奪取したとか、鐘が聞こえる範囲の人間を全部殺す『アウレリアの弔鐘』とか、『流石に作り話だろう』と思いました。ところが調べてみると、事実は講義よりもさらに凄いことが分かってすっかり夢中になってしまいまして」
以来、卒業して任務に就いてからも、自らの立場を利用して調べられることはほぼ全て調べ上げたという。
「……あの、それは父も知っているのですよね?」
「はい。フォルカー殿には、知り合ってから何年か経った後、お話ししました。最初からお話しすると怪しまれると思いまして。ただ……」
私は続きを半ば予想しながら促した。
「ただ?」
「……やはり自分のお父上のことというのはお話しし辛いのでしょうか、ほとんどお話は聞けませんでした」
そう語る彼の灰色の瞳が、本気で悲しげになっていた。
そうだろう。父のお祖父様に対しての感情はかなり複雑だ。未だ全盛期だったお祖父様が、アレクシウス殿下のご誕生と同時に引退を宣言し、当時、まだ二十代の父に長の立場を半ば強引に継がせた時は、父も組織も大変だったと聞く。その頃の苦労については、本人を含む私の先輩格にあたる人間に聞いても、みな口ごもるばかりでまともに答えてくれない。それどころか私は父の口から、お祖父様の現役時代の話を聞いたこともほとんどなかった。私も小さい頃は随分せがんだが、そのうち諦めて聞くこともなくなった。だから私の知るお祖父様の逸話は、父以外の人間から聞いたものだ。それも父の居ないところで。
「そこで孫娘のイザベル殿であれば、なにかお祖父様のことでご存じのことがあるのでは? と思って伺った次第です」
そう言うエリオットの目には、先ほどとは異なる強い期待の光があった。
「あ、いえ。残念ですが、私もほとんどお祖父様とお会いしたことがなく、お話しするようなことはないのです」
これは半分本当で、半分嘘だった。
私が生まれた時にはお祖父様はすでにアレクシウス殿下に仕えていたため、ほとんど会うことがなかったのだ。それでも殿下が小さい頃に、(信頼できる遊び相手)を兼ねて訪ねたことがあり、そうした際に何度か会ってはいるが、孫娘と祖父という関係と言えるものではなかった。
また、アレクシウス殿下の性別の秘密についてはアウレリアの重大な機密事項であるので、その殿下の身の回りの世話をしているお祖父様のことを迂闊に他国の人間に話すことはできない。今朝のライルの報告でも、その点について省かれていたのは、流石の彼も事の重大性を理解しているからだろう。
私の答えにエリオットがあからさまに悲しい顔になった。
「そう……でしたか……。……これは無理を言って申し訳のないことをしました。お忘れください」
そう言うと、再び薄く光る魔石版に顔を戻した。その顔が何とも悲しげで、いい年の男がこんなにがっかりするのを久しぶりに見た気がした。
私も再び視線を元の闇に向け、彼に対する先ほどの自分の見立てを再検討することにした。
しばらくした後、再びエリオットから声がかかった。
「イザベル殿」
さっきと全く同じ言葉と口調だったが、その声には先ほどとは異なる、この仕事に就く者だけが持つ、冷たく張り詰めた響きがあった
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昨年9月29日の連載以来、三ヶ月で10万PVを達成、ブックマークは84となりました(年明けに一つ減りました(苦笑)。
改めまして呼んでいただいた皆さまに心から感謝いたします。
そして、2026年、第三部の最初のお話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は第二部のラストで辿り着いた【深淵の盟約】の拠点でライルたちを待つイザベル視点です。(さて、どう始めようかしら?)と考えながら書くうちに、前編で5000文字を超えていました(笑)。
今回からは1日1回更新なのですが、ほとんど普通に一話分の分量になってしまい、自分で苦笑しています。
お休みの間は、続きのことを考えたり、AIイラストを試してみたりとしていたので、そんなことを今後の展開に活かしていきたいと思っています。
まずは、新しい年の始まりに、ブックマークやページ下の【★★★★★】から評価をいただけますと、大変励みになります! よろしくお願いいたします。
いま押した方も、いつか押す方にも、本年一年が素敵な年になりますよう!
次回は明日の12時前後の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




