第八十八話 幕間二:深淵の徴候と混色の旅団【後編】
石造りの回廊は、奥へ進むほどに冷気を増し、湿った影が壁にへばりつくように濃くなっていく。
魔法銀の鍵束が触れ合う金属音だけが、私の歩調に合わせて孤独に響いていた。
中層部にある独房の前に立ち、私は重い鉄扉の覗き穴を一度だけ確認してから、静かに鍵を開けた。
扉を開けると、そこには特殊な金属の格子で仕切られた牢屋があった。ベッドと机、椅子はあるものの、小間使いの部屋より狭い空間で、騎士団団長の娘を、そしてアウレリア随一の「天才」を閉じ込める場所としては、あまりに粗末な石の小部屋だった。
だが、扉を開けた瞬間の光景に、私は思わず息を呑んだ。
光虫を集めて作ったランプの明かりしかない牢屋の中に座る彼女は輝いていた。
銀の髪は、まるで月の欠片を集めたかのように淡い輝きを放ち、まるで私がやってくるのを予め知っていたかのように、黄金の瞳が私を正確に捉える。
埃の舞う不潔な空気の中にありながら、彼女の周囲だけは、あたかも聖域であるかのような清廉な気配に満ちていた。自らが光源であるかのような圧倒的な存在感。それこそが、ルナリア・アークライトという個体の本質なのだろう。
「……ご気分はいかがかな、ルナリア嬢」
私は、可能な限りの敬意を込めて呼びかけた。
魔術師として、私は彼女のような「純粋な才能」を心から尊敬している。たとえ立場が敵対していたとしても、その知性を辱めるような真似はしたくなかった。
「あら、わざわざお見舞い? それとも、ガロン様には言えない秘密の相談かしら。魔術師さん」
ルナリアは不敵に微笑んだ。枷を嵌められた手首を膝の上に乗せ、まるで顔見知りの知り合いに声をかけるような様子だ。
「とんでもない。ただ同じ魔術師として、アウレリアの誇る天才魔術師の貴女に敬意を表してご機嫌を伺いに来ただけです」
「……同じ魔術師?」
ルナリアは小首を傾げ、可笑しそうに喉を鳴らした。
「残念だけど、魔術師さん。あなたと私は、根っこの部分で別の生き物だわ」
「術の呼び名の違いを言っているのなら、不毛な議論でしょう。貴女の功績は、我々魔術師の理に基づいても十分に評価されるべきものだ」
「違うわ。私は魔術師じゃない。魔法使いよ、魔術師のザックスさん」
彼女は笑いながらそう言った。
「魔術師は、術(技術)を研鑽し、理論を積み上げ、世界を解釈しようとする人たち。でも、魔法使いは違うわ。先天的な法をこの身に宿し、術という境界を超えて世界そのものを体現する……。理屈で歩くあなたたちとは、見えている景色が違うのよ」
私は黙って彼女の言ったことを吟味する。〈魔法〉と呼ぶか、〈魔術〉と呼ぶか、これについて数百年の間、さまざま議論が繰り返されてきていた。もともとは〈魔法〉であったのは確かなようだ。
遥か昔の神話の時代。まだ人間の世と神の世が混在していた時代、神からその力を付与された一部の人間を指して「魔法使い」と呼んだのが始まりだったと言われている。その後、世界から神が姿を消す、〈神隠し〉の時代がやってきた。なぜ彼らが姿を消したのか、歴史はそれについてほとんど物語っていない。わずかに残った伝承では、「神が人間に失望した」というものから「強い力を持ち始めた人間を神が恐れた」というものまで様々あった。いずれにしろ、彼らは明確な理由を告げず、不意にこの世から去ったのは間違いない。
残された人間は混乱した。そして一部の魔法を付与された魔法使いが、自ら権力を振るう立場になったり、あるいは権力者にとって貴重な駒になったりした。いずれにしても魔法使いの家系は貴重なものとして、時の権力者の頭はすげ変わっても、彼らの一族は大事にされていた。
しかし、時が経つと共に、その子孫たちの魔力は減少し、できることが限られることが分かってきた。そこで彼らの一部は血に拠らず、魔法を再現する方法を研究し始めた。魔法使いの多くはこの研究を「邪道である」と強い拒否反応を持ち、攻撃する者も少なくなかった。しかし、一部の魔法使いは進んでこの研究に加わり、その原理を読み解き、再現性のあるものへとしていった。その中心的な人物が大魔法使いテーヨウだった。
彼はその時代の魔法使いとして卓越した才能を持ちながら、自らの魔法理論を体系化し、魔力がそもそも少ない人間でも、繰り返すことで魔力を高める方法論を確立した。この方法論に論理的な考察を加え、いわゆる「術式」という形で魔力の発現方法の公式を作ったのが魔術師ソウマだった。その後、魔石や麻薬といった魔力を助けるための素材の研究が進み、その中で、〈魔法〉は〈魔術〉へと言い換えられていった。
いずれも数百年という時の中でゆっくりと変わってきたことであるので、両者の違いについて、どこかの時点で定義されたわけではないのだが、〈魔法〉はどちらかというと、伝統的な呼び方、〈魔術〉は比較的新しいものというのが一般的な理解だった。
目の前にいる彼女が主席の座にいるアウレリア王国王立魔法学校が〈魔法〉であるところは、アウレリアの人々が先天的に持つ魔力の強さに誇りを持っていることの現れと言えるだろう。一方、東の隣国であるタイドリアでは、学校を含む公式用語で〈魔術〉と定められている。これはもともと魔力に乏しい彼らが、術式や魔石を巧みに使って、魔力を底上げしてきたという、歴史的背景に拠るものと考えられる。
物思いに耽った私を見て彼女はクスクスと笑った。まるで私の考えていることを読んでいるような様子だ。
「それに……」
ルナリアは黄金の瞳を細め、さらに悪戯っぽく付け加えた。
「魔法使いの方が可愛いじゃない? お姉様にだって、『お姉様は騎士様、私は魔法使い。完璧な組み合わせでしょ?』って、いつも言っているの」
私は思わず絶句した。この絶望的な状況でそんなことを言えるとは、この小娘はどういう神経の持ち主なのだ? あるいはこれこそが本来の魔法使いが持つ、人成らざる者、神と結びし者ならではの自信なのかもしれない。
「……なるほど。ではその偉大なる魔法使いの貴女が、ここでこうしているのはなぜでしょう? 騎士団の主力は北へ去り、父君もいない。流石の貴女なも、この石壁を壊すことはできないでしょう?」
彼女が閉じ込められている石牢は、魔力が多く含まれている洞窟の最奥だ。流石の彼女もここでは魔法を使えない。
「あら、そうかしら?」
ルナリアは立ち上がり、ゆっくりと私の方へ歩み寄った。枷が擦れる不快な音すら、彼女の優雅な所作の前では控えめに聞こえた。
格子の手前、私に近づけるギリギリまで近づく。心なしか金色の瞳がさらに強く光っている。
「魔法使いの私が予言してあげる。……まもなく、ライル様がここへ来るわ」
その名が出た瞬間、私の脳裏に会議室でのドルゴとメルルの怯えた顔が蘇った。私は自分の心を隠したまま、余計な情報を彼女に与えないように考えながら答える。
「報告書で読んだ人物のことか。クーデターを未然に防いだ謎の剣士。俄には信じられませんね。少なくとも魔術も使えぬ人間が、この丘陵の防御陣を突破できるはずがありません」
「ふふ、そうね。魔術師のあなたにはそう見えるでしょうね。でも、あの方はあなたたちが信奉するその『理』の、さらに外側を歩く人。あの方が一歩踏み出すだけで、貴方たちの計画は水泡に帰すわ。それこそ砂の城みたいに、……ふっと一息でね」
ルナリアの瞳には、一切の迷いがない。
それは願望ではなく、既に確定した未来を読み上げているかのような、静かな真理の響きがあった。ゾワっと心が震えた。それに気づいたのか、きらりと彼女の瞳が輝いた。
「……楽しみにしておくよ、ルナリア嬢。君の言うその『理外』が、ガロン様の絶対的な理の前に、どれほど無力であるかを知ることになるだろう」
そう言うと私は逃げるように独房を後にし、重い鉄扉を閉ざした。
独り、暗い回廊を足早に戻りながら、自らの掌が微かに震えていることに気づいた。
計算上、失敗の余地はない。
ガロン様の戦略は完璧であり、ライルという青年がここへ辿り着く確率は、ゼロに等しい。
だが、会議でのドルゴたちの戦慄と、目の前の少女の絶対的な確信。
それらは「人の機微」という不確定要素を切り捨ててきたガロン様の背中が、一瞬だけ、ひどく危ういものに見えた。
(そんなわけがない)
私は頭を一つ振り、ゴーレムの生成現場へと足を向けた。 密閉された地下空洞に、吹くはずのない風が通り抜ける。無数の鍾乳石が風に泣き、その共鳴音は不吉な笛の音そのものだった。
***
数千の蹄鉄が凍てついた大地を叩く音が、重苦しい地鳴りとなって私の鼓膜を震わせている。
王都を発ってから数日。北進を続けるアウレリア騎士団の本隊は、その威容とは裏腹に、長く伸びた隊列の端々から隠しきれない疲弊を覗かせ始めていた。
その最後尾、第二騎士団の末尾を行進するのが、私たちの第十三部隊だ。
イザベル副団長とギデオン総監が主導し、試験的に各家の兵を混ぜ合わせて編成された「混成旅団」。真紅、白銀、黒竜――色とりどりの紋章がパッチワークのように並ぶ私たちの隊列は、整然とした先行部隊に比べれば、どこか頼りなく、そして異質に見えた。
「……やれやれ。やっぱり時化てきたか。潮目が変わる時は、決まって嫌な風が吹くもんだがなぁ」
隊列の先頭で、馬上で大きく欠伸を噛み殺しながらそんなことを呟いたのが、私の上官だった。
第十三部隊長、ファビアン・シードリフト。海沿いの平民出身という異色の経歴を持つ彼は、騎士にしては線の細い体を揺らし、眠そうな垂れ目をさらに細めて、どんよりと垂れ込めた北の空を見上げている。
「隊長、その『海賊上がり』みたいな独り言はやめてください。そうでなくても、うちは方々から睨まれているんですから。少しはシャキっとしてください」
私は背負った長弓の弦を指先で弾き、微かな音でその張りを確かめながら、不真面目な上官を睨みつけた。
「いいじゃないか、リナ。風向きは向かい風だ。俺たちの世間話くらい、前の方にいるお偉方には届きゃしないよ」
「そういう問題じゃありません。……それより隊長、例の件ですが」
私は馬を寄せ、周囲に聞こえないよう声を潜めた。私の真剣な視線に、ファビアン隊長もわずかに気だるげな表情を引っ込める。
「……イザベル副団長の不在、という話だろう?」
流石に話が早い。私が頷くと、そのまま話を続ける。
「 なんでも副団長自らが少数の別動隊を率いて、情報収集と撹乱のために本隊を離れた……と。完全な秘匿部隊として活動している関係から一部の上級将校にしか知らされていないと聞いている」
どうやら「一部の上級将校」の末席には引っ掛かったようで、定期的な軍議の席で報告があったようだ。
「ですが隊長、私が掴んだのはそれとは違います」
「違うって、何がだい?」
「確かに第一騎士団の副団長配下の数名が別動隊として数日前に進発したのですが……」
私はなんとなく左右に目を走らせてから言葉を継いだ。
「その中にイザベル副隊長の姿はなかった、という噂があるのです」
隊長の目が、鋭く細められた。
「じゃあ、副団長はどこへ行ったというんだい?」
「そこまでは……分かりません。あくまでも噂ですから」
「ふむ……」
と隊長が何やら考え始める。右手が手綱から離され頭を掻き回し始めた。その様子に私は少し慌てた。隊長がこういう仕草をする時は、大抵碌でもないことを思いつくのだ。そして何が碌でもないかと言えば、それが後になって当たっていることが分かるからだ。
やがて頭を掻き回す手が止まると、ポツリと呟いた。
「……王都で何かがあったな」
私は思わず(ぐえっ)と変な声が出そうになった。
それでもできるだけ何気なさを装い話しかける。
「あ〜っ、えっと、どうしてそう思うんですか?」
「噂にしちゃ唐突だからさ。そもそも普通に考えて、行軍中の軍隊から副団長が離れるなんていうことはあり得ない」
私は頷く。
「あり得ないことを隠した時どうするか? そういう時はそれをあえて公開してしまう。自分たちにとって良いようにね。この場合は、『副団長は特別任務で隊を離れた』とかなんとか。こうしておけば、副団長の姿が見えなくなっても誰もおかしいと思わない。だけど、考えてみればこんな状況で、わざわざ副団長自らがそんな少人数の部隊を率いる必要があるのか? 正直、変な話だと思う。でも実際に姿を消している以上、なにか副団長でなければならないことが起きたんだ」
「でもどうして王都だと思うんですか?」
「そこなんだよなぁ」
再び彼は右手で頭を掻き回した。
「そもそもこの北伐は、アイゼンハイド辺境伯家からの蛮族襲来の報告から始まっている。別にそれ自体はそれほど珍しいことじゃない。ただ、彼らが普通なら嫌い合っている種族の壁を超えて動いているというのは異常だ。だから今回の出撃となっているわけだろう?」
私は頷く。こういう時の隊長は、誰かに説明することで、自分が何を考えているのかをまとめている。だから私はできるだけ話の腰を折らず聞き役に徹することにしている。
「じゃあ、『なぜ、いまなのか?』 彼らが動くのは基本的に食糧を求めてのことだ。であればわざわざ何もない冬に差し掛かるこの時期に動くのはおかしい。これに種族の壁を超えて動いているという行動の異常さを考えると……」
私は黙って聞いている。
「誰かが背後にいる」
堪らず口を開く。
「誰かって、誰なんです?」
「分からない」
あっさりそう言ったが、今度は髪の毛を掻き回さなかった。
「……分からないが、それが何者であれ、我々の注意を北に惹きつけておいて、空白になった王都になにかを仕掛けようとしている。そう考えると、副団長の行き先も自ずと見えてくる気がする」
「……やっぱり王都ですか」
隊長はそう答える私をちらっと見ると、視線を進行方向である北に転じた。
「いずれにしろ、俺たちが決められることの範囲は決まっている」
「北に向かうしかないということですね」
彼は小さく肩をすくめてそれを肯定すると、再び手で頭を掻き回した。
私はそれを見ながら考えていた。
(ファビアン隊長は頭が切れるし、遠くが見えている)
それは元々船乗りの家系に生まれたからなのか、わずかな兆候から不思議なくらい正確な未来を予想できる。そのことは、一緒に戦い始めてから色々な場面で実際に目にしてきた。一方で、軍隊という組織の中では、その能力が十全に活かし切れるとは限らない。
この第13部隊も、イザベル副団長とギデオン団長の肝煎りで編成された部隊であり、各家のどちらかといえば「はみ出し者」と「問題児」が集められ、それが平民出身の中級騎士であるファビオンの元にまとめられたという経緯から、部隊の中にはもちろん、周囲からの目も厳しい。特に直属の上司であり、騎士としての謹厳実直さを絵に描いたようなダストン連隊長からは嫌がらせに近い命令が下されることも少なくない。
(果たしてこの戦いがどうなるのか)
そう考えると寒さが一段と厳しく、雲が低く垂れ込んできたように思えた。
私は急に田舎の母が作ってくれる海鮮スープが恋しくなった。
(第八十八話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
今回の幕間二、後編は【深淵の盟約】の幹部・ザックスと、王立騎士団第二騎士団所属、第13部隊の副隊長・リナという異色の取り合わせです。
さて、お伝えしてきました通り、第二部は今回で完結です。一度連載も【完結】表示を出させていただきます。第三部の再開は1月5日からの予定です。
また再開後は1日1回更新(12時前後)となる予定です。構造はいままで通り一話を前編、後編に分けるという形で進めていきます。ご愛読いただいている皆様には、どうぞよろしくお願いいたします。
さて、本日(2025年12月29日)は連載開始三ヶ月となる節目の日となりました。お伝えしてきた通り、目標にしてきた「連載開始三ヶ月で100ブックマーク&10万」でしたが、お陰様をもちまして、10万PVを見事達成することができました! 思えば9月の24PVから始まり、10月21,257 PV、11月44,900 PV、そして12月の34,344 PVと順調に伸び続けてこの日を迎えることができました。改めましてお読みいただいた皆さんに感謝いたします。
またブックマークの方も、83まできました! こちらは変わらず100を目指して頑張りたいと思います。
少しの間お休みをいただきますが、またお目にかかれることを楽しみにしています。
良い年をお過ごしください。
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よろしくお願いいたします。
次回は1月5日の12時前後の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




