第八十七話 幕間一:失地回復の男と女【前編】
煤けた執務室の壁に残った、長方形の白い跡。
三日前までそこには、ベルンシュタイン家に代々伝わるラロ・サピアスが描いた壮大な風景画が掛けられていた。我が家の象徴でもあったその絵画を売った金は、昨日、領地を見捨てて立ち去ろうとした数十人の騎士たちを繋ぎ止めるために使われた。
「クソが……。どいつもこいつも、金がなくなればこれだ」
俺は手元の帳簿を、机の上へ乱暴に叩きつけた。バサリと開いたページに並ぶのは、どれもこれも血のように赤い数字ばかりだ。
全ては、あの忌々しいクーデターから始まった。
長兄ゲルハルトの独走による玉座襲撃の失敗。その「家の罪」の代償は、三男であるこの俺に最も残酷な形で押し付けられた。六王家の中でも最高位であった公爵の爵位は、侯爵へ降格、そしてベルンシュタイン領の「四分の一」が没収され、隣接するランカスター家と王家の直轄領に組み込まれてしまった。
単に面積を削られたのではない。王都の役人どもが地図の上に線を引いたのは、領内の収穫の三割を支えていた肥沃な平野部と、関所収入が見込める宿場町だった。
「三男ユリウスにクーデターの意思なし」
という、ありがたいような、そうでないような評決で俺自身はお咎めなしとなり、成り行きで当主となったわけだが、残されたのは、維持費ばかりが嵩む古びた本城と、防衛の要だが作物を育てるのが難しい痩せた岩山ばかりだ。魔術で土地の改良も可能だが、いまは先立つ金がない。
さらに追い打ちをかけたのが、王家から課された「贖罪金」と、損壊した王宮の「造営役(修理負担)」だ。
ベルンシュタインの存続の代わりに、体よくクーデターの後始末を任された俺に、拒否権などなかった。領民から絞り上げたわずかな年貢は、右から左へ王都の国庫へと吸い取られていく。手元に残る現金はごくわずかなものだ。だが、領地を維持するためには兵が必要だ。そんなわけで売り払ったのは絵画だけではない。棚を彩っていた銀の燭台も、来客に家名の高さを知らしめていた先祖伝来の重厚な甲冑や、儀礼用に装飾が施された名剣も消え失せた。それどころか、広間にあった歴代当主の武勲が織り込まれていた巨大なタペストリーさえも剥ぎ取られ、剥き出しの石壁から、冬の冷気が容赦なく執務室へと染み出していた。ついでに、執務室の足元に広がっていた柔らかな毛皮の絨毯も消え、いまはペラペラの麻の敷物があるだけだ。
それでもなんとかいまは取り繕えているが、来年のことを考えると頭が痛い。
ベルンシュタイン家は六王家の中でも特別に公債の発行が許されていた。そのお陰で他家に比べても大規模な事業や騎士団を維持していたのだが、その幾つかが来年償還期限を向かえるのだ。もちろん現在の我が家の経済状況で返せる当てはない。
机に突っ伏して頭を抱える。
「ライル……あの、薄汚い山猿がいなければ……ッ!」
その名を口にするだけで、奥歯が軋む。奴があの日、俺の前に現れなければ、こんなことにはならなかった。俺はいまも王都で、ベルンシュタインの輝かしい騎士として、こんな領地の、それも片隅に残された古城で北風にさらされるようなことはなかったはずだ。
(まあ、その場合は、あの性格がクソな兄貴たちに馬鹿にされていたんだろうがな……)
と自嘲的に思う。愛妾である母から生まれた俺は、そのことを理由に八歳の頃に「要らない子」としてアークライト家に預けられて育った。ゲルハルトは顔を合わせるたびに、
「成人したらせいぜい俺たちの護衛でもしろ」
と言われていた。当主である親父は正妻の顔色を窺うばかりで何もせず、俺は直接会話をした記憶がほとんどないほどだ。
そんな嫌な記憶と、認めたくない現状の中で、唯一良かったと思えることは、母上を呼び寄せることができたことだった。母上はこれまで、王都に一番近いベルンシュタイン領に設えられた小さな別荘で暮らしていたが、その土地が王家の直轄領となることが決まり、いまはこの古城で一緒に暮らしている。
物静かな性格の母上は、今度の騒動にも関心はなく、俺が無事だったことと、これから一緒に暮らせることをひたすら喜んでくれるような人だった。その表情を見て、俺も一安心したものだ。
「これからはご苦労をおかけしません」
と言いたいところだが、現実は厳しい。目を上げるとそこには、現実を真っ赤な数字で可視化した帳簿が見える。
それを思い切り机の上から払い落としてやろうかと思ったところに、扉を叩く音が聞こえた。以前なら従卒なりが立っていたはずだが、いまはそんな余裕はない。
「入れ」
と答えると、筆頭家老のユーベンが入ってきた。ユーベンはすでに六十歳を迎えた男だが、元々騎士団上がりであったことからいまでも姿勢が良い。代々、ベルンシュタイン家に仕える家柄だったが、ゲルハルトに嫌われ長く閑職にあったところ、今回の騒動で人がいなくなったこともあり繰り上がる形で家老に復帰していた。謹厳実直を絵に描いたような男で、兄貴と反りが合わなかったのも頷ける。
「閣下! 王都より、至急の伝令にございます」
その手には王家紋章で蝋封印された書状が握られていた。俺は黙って頷き、それを受け取り開く。その内容を見た瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。
そこには、北の防衛の要であるアイゼンハイド辺境伯から、「蛮族襲来」の緊急の要請があり、王都からこれを討つための「北伐」が決定されたことが記されていた。それも大規模な総動員令だ。
王都で数日前に大掛かりな御前会議が行われることは知っていたが、俺は自主的に蟄居という形を取り、全権委任状を送ることでこれを欠席している。恭順の意を示したわけだが、実のところ金策やら後始末でそれどころではないというのが本当のところだった。そもそも出席したところでいまの俺に発言権はない。であれば節約の方が大事だ。
北で起きている騒動のことは流石に耳に入っていたが、大規模な「北伐」が行われるとは思っていなかった。
「……はは、ははははは!」
その文字を見るうちに、俺の喉から乾いた笑い声が漏れた。そんな俺をユーベンが怪訝そうに見る。領主ともあろうものが家老の前で安易に笑うことを責めているのかもしれない。
「ユーベン、『北伐』が決まった!」
「なんですと!?」
流石のユーベンも驚いた顔を浮かべた。それでも声に抑制が効いているのは大したものだ。
「……それで、どうされるおつもりですか?」
「決まっている! 我が騎士団もこれに参加する」
「……王命である以上、閣下のお言葉は正しいと思います。しかし……」
そこで言葉が途切れる。当然だ。いまの我が家の経済状況を考えれば、とても騎士団を編成し、戦費を準備する金がない。しかし……、
「ユーベン、これはベルンシュタイン家の苦境を脱出するためのまたとない機会だ。『王命』であれば商人どもへの公債の償還期限を多少伸ばすことが交渉できる上、多少の無理を言って戦費を借りられる。それに戦いで軍功を挙げれば、失われた領土を取り戻すことも可能だ!」
俺の言葉にユーベンが少しの間考え込む。やがて顔を上げたその顔には、武人らしい決意が伺えた。
「……分かりました殿下。この「北伐」を我がベルンシュタイン家の失地回復の端緒としましょう」
そうだ、失地回復だ。あのクソ山猿に植え付けられた「敗北者」の刻印を、戦場での武勲で洗い流し、俺が「真の強者」であることを証明する、最後にして最大の逆転劇。
俺は即座に筆を執り、羊皮紙の上に返事を書く。
『「北伐」の報、謹んで承服いたしました。我がベルンシュタイン家は、王の御旗のもとに総力を挙げて参じます。如何なる任務であっても、ベルンシュタイン家は、アウレリアとヴァレリウス陛下の剣となり盾となり、粉骨砕身の覚悟で務めさせていただきます』
これを早馬で王都に送ると、ユーベンに現在残っている騎士と兵士を中庭に集めるように命じる。
集まったのは三〇〇名足らずだった。騎士の姿を見ると古参の者が多く、忠義というよりも、再就職が決まらなかった口も少なくないようだ。しかし、そんなことはどうでもいい。
「聞け! 先ほど王都より北の領土を侵そうとする蛮族どもに対して「北伐」の軍を起こすとのご下命が下った。これは我らがベルンシュタイン家にとって千載一遇の機会である。もの共、武器を磨け、鎧の錆を落とせ! この戦いで武功を上げた者は、誰であっても取り立て、我がベルンシュタイン家の重臣とする。この戦いは私は無論、お前たちにとっても失地回復の機会である! 蛮族共を蹴散らすのだ!」
広場には北風と沈黙しかなかった。
城の踊り場から一息に喋り切った俺の姿に、全員が呆気に取られていた。
(外したか!?)
と思った瞬間、横に控えていたユーベルが大音声を出した。
「北伐だ! 蛮族共に鉄槌を加えよ!」その声に、
「ぅおおおおおおおお!!!」という唸り声が応じた。
「北伐……北伐だ!」 「聞こえたか! 蛮族を討てば、この泥をすするような生活から抜け出せるんだ!」
最前列に並んでいた、古参の騎士たちは、震える手で剣の柄を握りしめた。彼らは、家門の衰退とともに誇りを失い、ただ死ぬのを待つような日々を過ごしてきた者たちだ。一人の老騎士が、充血した目で俺を仰ぎ見る。その頬には、寒さのせいだけではない涙が伝っていた。
「重臣に、取り立てると……。我らのような老耄を、再び……!」
後ろに控える若手の兵士たちの熱狂は、より直情的だった。
「やってやる! 蛮族どもの首を獲って、借金まみれの故郷に錦を飾ってやるぞ!」 「ベルンシュタインに栄光あれ! 閣下に栄光あれ!」
誰かが掲げた槍が、冬の鈍い陽光を反射した。それが火種となり、次々と抜き放たれた剣が林立する。 「ぅおおおおおおおお!!!」 地響きのような咆哮が、城壁を震わせ、足元から伝わってくる。それは忠誠心というよりも、追い詰められた獣たちが放つ、生存本能に近い叫びだった。
彼らの瞳には、先ほどまでの絶望的な諦念はない。代わりに宿ったのは、一発逆転の勝機に賭ける、ぎらぎらとした狂熱だ。 俺はその熱気に当てられそうになりながらも、確信した。 この軍勢は、もう止まらない。あとはこれを、どこへ導くかだけだ。
そして思った。
(待っていろ、ライル。 お前がその訳の分からぬ、デタラメな動きで手に入れた称賛も、地位も、すべてはこの戦で俺が塗り替えてやる。この借金も、屈辱も、すべてを死体の山の下に埋めて、俺がベルンシュタインの真の主になってやる)
俺の目の前には、凍てついた北へと続く、寒々とした荒野がどこまでも、奈落の入り口のように広がっていた。
お読みいただき、ありがとうございました。※少し遅れての更新になりすみません。
今回の幕間一、前編は久しぶりのユリウス登場です。第二部には名前のみで、本人の出番がなかった彼ですが、地味に残務処理をしていたわけです。第三部には果たして登場するのか? 私も分かりません(笑)。
前回の後書きに書きましたように、今回からは第三部までの幕間を2話お届けします。第三部の開始は少しお正月休みをいただいてからと考えております。この間は、一度「完結」表示を出させていただき、再開は1月5日からの予定です。
また再開後は1日1回更新となる予定です。ご愛読いただいている皆様には、どうぞよろしくお願いいたします。
さて連載開始三ヶ月で100ブックマーク&10万ですが、ありがたいことにブックマークは81! 98,085PV(28日12時時点)を達成。こちらはギリギリ達成の目が見えてきました。PVもそうですがブックマークが増えたのは本当に嬉しいです。押していただいた皆様に心から感謝します。
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次回は本日の21時前後の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




