第八十五話:逆転の盟約と託された意思【前編】
突きつけた短剣の切っ先が、皮膚を僅かに食む感触が指先に伝わる。
同時に、目の前のメルルが「ひっ」と短く息を呑み、自らの首筋を押さえた。
彼女の言う通り、私たちが一蓮托生なのだ。
予想外の事態にメルルの顔色が凍りつく。計算高い魔術師の目が、必死に損得を勘定して揺らいでいるのが手に取るように分かった。目から読む必要はない、彼女の混乱を私は感じることができるのだ。弱者だと思っていた私の予期せぬ反逆と、地上にいるライル様という規格外の存在の板挟みになり、思考がショートしかけている。
「ば、馬鹿な……。死ぬだと? そんなことをすれば……」
「お前が困る。そうでしょう?」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど透き通っていた。
それはメルルの〈命脈同調〉で自暴自棄になっていた時の私とは違う、自らの命という、私が持ちうる唯一にして絶対の武器を突きつけ、対等な交渉相手として彼女を見据える声だった。
「お前の任務は私を『生きたまま』連れ帰ることでしょう? 死体では意味がないはずです。私がここで死ねば、お前は任務に失敗し、崇拝するガロンに見捨てられる。……それは、かつて路地裏で泥水を啜っていた、無価値な自分に戻ることになるのではなくて?」
メルルの顔が憎悪と恐怖で歪む。
口にした私自身の胸も、鋭く痛んだ。それは〈命脈同調〉で結ばれていることもあったが、それ以上に、彼女の過去を覗き見たからこそ、この言葉がどれほど彼女の魂を抉るか分かるからだ。私も彼女も、共に自分を忘れ、他者の評価に怯えてきた者として人生の大半を生きてきた人間なのだ。
だけど、だからこそいまは言わなければならなかった。自分自身を抉る言葉が、武器になるのだ。
メルルの顔が真っ青になった。
「図星のようですね」
「き、貴様……!」
彼女にとって、ガロンに見捨てられることは死以上の恐怖なのだ。〈命脈同調〉がかかっている以上、私が死ねば、彼女も死ぬ。仮に私が死ぬ前に〈命脈同調〉を解除したとして自分が生き残ったとしても同じことだ。彼女に待っているのは破滅だけだ。
メルルの視線が、私の肩越しに地上のライル様へ走るのを私は見逃さなかった。私には見なくても分かった。ライル様は動いていないはずだ。殺気すら放っていないだろう。ただ、そこに「在る」だけ。
だが、その自然体こそが、虚勢で身を固めた彼女には底知れない深淵に見えているのだ。(戦えば負ける)いや、殺されるという結果以上の恐怖の存在を、彼女の本能が警鐘を鳴らしている。
一番有力な駒である私を握っていると信じた彼女だったが、その同じ駒がいま、最大の敵として自分の前に立ちはだかったのだ。
彼女は詰んでいた。
「……取引をしましょう」
私は告げた。その提案が、彼女にとって唯一の逃げ道であることを確信して。
「私を連れて行きなさい。抵抗はしません。その代わり、ここにいるライル様、クラリス、フォルカー、そして兵士たちには一切の手出しはさせない。即座にここから撤退すると誓いなさい」
「……なに?」
「それが条件です。もし拒否するなら、私はこのまま喉を突き、お前を道連れにする。どちらにせよ、お前の目的は永遠に達成されない。それはお前の主人であるガロンも同じことだ」
「…………ッ」
メルルがギリリと歯を噛み締める音が聞こえた。
屈辱感が伝わってくる。当然だろう、圧倒的な強者であったはずの自分が、無力な人質に条件を突きつけられているのだ。その一方で、彼女の生存本能が「この取引に乗れ、と。ここから生きて帰るには、それしかない」と彼女に告げているのも分かった。それでも彼女は考え続ける。魔術師として、【深淵の盟約】の幹部として、簡単に本能の声に従うことができないのだ。しかし、結論は同じだった。
「……いいだろう」
メルルは血を吐くようにその言葉を絞り出した。
「契約だ。アレクシウス、お前の身柄と引き換えに、こいつらの命は見逃してやる」
「では契約魔法を」
一瞬嫌な顔をしたメルルだが、首筋に当てていた短剣を下すと、左手に持ち替え、素直に魔法を唱え始める。
「契約の神ホルコスよ。我が誓いを聞き届けたまえ」
メルルの詠唱と共に、右手で宙に契約呪文の術式を書き始める。
「我、メルルはアレクシウスの身柄と引き換えに、此処にいる者たちへの一切の加害を禁ず。即座の撤退を約し、これを違えれば、我が魔力は永久に失われんことを誓う」
宙に契約魔法の魔法陣が現れる。メルルは左手の短剣で右手の親指の先を小さく斬る。
チクリとした痛みを、私も感じる。
メルルが血を魔法陣に一滴垂らすと、空気が震え、契約の成立を告げる鐘のような音が響き、音と共に魔法陣が消えた。
「――『契約』。これで満足か」
私は頷く。
「ええ」
メルルの中に不満が渦巻いているのを感じる。それでも、私を生かして連れ帰るという現実的な選択肢を選んだこを許容する感情もあった。彼女自身、魔力の限界点が近く、これ以上の戦い、特にライル様のような不確定な要素を相手にすることへの強い忌諱を感じた。
メルルが指を鳴らすと、私を囲っていたゴーレムたちが音を立てて崩れ落ち、泥へと還った。その中から輝く核が宙を飛び、メルルのもとに集まる。
「ドルゴ、起きろ! 時間がない!」
そう言うと、ライル様に打たれて昏倒していたドルゴがの巨体が、鞭で打たれたように、ピクリと動いた。ゆっくり両手を地面につけるとその巨体を揺らし起き上がる。
「……俺は、一体……?」
呆然とした様子のドルゴを見て、イライラした様子のメルルの声がさらに鋭くなる。
「説明する時間がない! アレクシウスは我らとともに来る。お前はさっさと部下を集めてこっちに来い!」
そう言うと空中に浮かぶ自分の真下に、巨大な魔法陣が現れ、メルル自身もその真ん中に着地する。
ドルゴは周りを一度見渡すと、様子が分かったようで、不承不承ながらも部下たちを集めて魔法陣へと向かう。その途中でちらりとライル様を見たが、慌てて視線を外すのが分かった。〈命脈同調〉で結ばれていなくても、その大きな体に、拭きれない屈辱が広がっているのが分かった。
メルルが私を向き直る。
「これでいいだろう? さあ、約束通り来てもらおう」
私は首に当てていた短剣を腰のベルトに戻し、メルルの待つ魔法陣へと歩き始める。
「殿下!!!」
クラリスの声が聞こえた。見ると泥に塗れた老執事が、膝立ちで私を見つめている。
私は彼に小さく頷いて答える。そして次に、ライル様を見る。
ライル様はいつもと変わらない表情で私を見ている。その口元に小さな笑みがあった。
私は何か言おうと口を開きかけたが、言葉は出なかった。口を開いたのはライル様だった。
「必ずお迎えに参ります」
いつもと変わらぬ黒い瞳。ただその奥に、静かな約束の光を感じた。そして気がついた。彼が「必ず」という言葉を口にしたことに。ライル様は、未来のことを容易く口にしない。一度、稽古の休憩時間に、「いつまでこの稽古を続ければライル様のようになるのですか?」と戯れに聞いたことがあった。その時ライル様は、ずいぶん考え込まれた。あまりに真剣に考えるので、こちらが申し訳なく思ったところで、「分かりません」と真面目に答えられて、吹き出してしまったことがあった。
その時、ライル様は笑う私に苦笑しながら、
「私も稽古が始まってすぐの頃、同じ質問を師匠にしたことがあります。その時、師匠は『お前の問題を俺が知るか』と言われました」
と教えてくれた。そして、
「未来のことをどう思うかは大事です。それは自分の未来を変える要素の一つになるからです。でも、その未来が本当に望むものなのかどうかは、また別の話です。善意から始まり善になることもあれば、悪になることもあります。だから『必ずこうなる』という約束はなかなかできないものです」
と言った。そこで彼は目を伏せて、
「……私も人にこうしてものを教えるようになって、師匠のこの言葉の意味を改めて考えています。教えるということは、本当に……」
その先を語ることはなかった。恐らく「難しい」と言いかけたのをやめたのだろう。「難しい」ということは、いまの自分で、将来の自分や未来を制限してしまうことだからだ。
そのライル様がいま、「必ず」と言ったのだ!
私の中にずっと忘れていた強い喜びが湧いていた。
(なにがあろうとも、必ずこの人は来る)
その確信が私の中に生まれた。
「さ、さっさと来い!」
苦しげな表情のメルルに促されて、私は魔法陣に乗りメルルの横に立つ。そして、見守る全員を見た。
その瞬間、光が弾けた。
強烈な閃光が視界を白く染め上げ、私の体は転移の奔流へと飲み込まれていった。
お読みいただき、ありがとうございました。
アレクシウス争奪戦もいよいよ終わりです。続いては……。これは後半で明らかにされます。
さてさて、X'masの奇跡は、pv777とpv888のキリ番ゲット! というオチでした(笑)。ブックマークは変わらず78。PVの方はキリ番はゲットできたものの918と伸び悩み、累計で95,351PV(本日12時時点)。ずいぶん苦しくなってきました。ですが「まだだ、まだ終わらんよ!」のクワトロマインド(冬でもノースリーブ)で頑張りたいと思います。応援の程よろしくお願いいたします。
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次回は本日の20時前後の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




