第八十四話:虚飾の崩壊と逆転の盟約【後編】
「痛っ」
首筋に鋭い痛みが走った。その痛みが、私がまだ生きていることを教えてくれた。
ぼんやりと目をめぐらせると、そこには空中で自分の首筋に短剣の刃を向けている女がいた。
「で、殿下!」
クラリスの声がした。そうだ、私は空中に浮かぶ女に、隠し続けてきた秘密を暴かれたのだ。それまでずっと溜め込んでいた負の感情が爆発した瞬間、胸の奥にズキリという鋭い痛みを感じた。まるでその痛みが呪いの種であったかのように、体中の血管を通じて広がり、全身の血から温度が失われていったのだ。そして自分が生きているのか、死んでいるのかすら分からなくなっていた。
ただ、女が私の血管の一本一本から、体に刻まれた怒りや悲しみ、怨嗟の感情を搾り取り、それを愉しんでいるのは分かった。
それでも最初はなんとか抵抗しようとした。だがその度に、自分の内側から湧き上がってくるドロドロとした黒い感情――私が長年、必死に押し殺し、仮面の下に隠し続けてきた「自己否定」の塊が、私の姿をして問うてくるのだ。
(私は、誰?)
男として育てられ、王太子として振る舞うことを強要され、国民と私自身を騙し続けている自分自身を前に、私の抵抗は虚しく潰えた。何度も、何度もそれを繰り返すうちに、
(私には生きる価値などない……)
そんな思いが浮かんできた。
(そうだ、もう楽になりたい)
この苦しみから解放されるなら、死は救いのように思えてきた。元々なかった自分を捨てるのはとても簡単なことで、気がついてみれば、いままでそれを選ばなかったのかが不思議に思えてきた。
(この女が欲しいというのであれば、こんな私、くれてやればいい……)
そう思った時、
「――アレクシウス殿下」
と、私を呼ぶ声が聞こえた。それは自分の感情が生み出した混沌の海の底で、もがく私に差した一筋の光だった。ライル様の声はいつもと変わらず穏やかな温かみに満ちていた。
固く瞑っていた目をゆっくりと開ける。
瞳が久しぶりの光に怯えたようにギュッと縮まる。次第にぼやけた視界の中に、黒い影が像を結ぶ。
ライル様だ。彼が、来ている。
「殿下、呼吸をしてください」
その言葉も、いつもの稽古と同じだった。
ライル様の稽古は単純だった。
(いまに居続けること)
それだけだ。だから私には難しく、そして新鮮だった。私の人生は、生まれたその瞬間から未来が決まっていた。常に心はいまになく、すでに確定した未来へと向けられていた。
そんな私が、彼の稽古を通じて少しずつ、いまに居ることを学んだ。ただ立ち、そこに居ることを感じることから始まる稽古は、私が知っている他のどんな稽古とも違った。最初は戸惑うことばかりだったけれど、続けるうちに、ずっと私のようなものを装っていた、鎧のようなものが剥がれ落ちるのを感じた。
誰かに作られたアレクシウス王太子ではなく、アレクシウスという生身の体を持った、一人の女性としての私の存在を感じ、許すことだった。
私はずっと自分の体が憎かった。十歳になる頃から始まった体の変化は、私にとっては呪いに等しかった。もともと「男の方とは思えない美しさ」と言われてはいたが、成長期を迎えた私の体は急速に女性のものへと変わっていった。一人で鏡の前に立つと、そこには自分ではない自分が映る。
普段、硬い布で締め付けられている胸がその抑圧に抗議するように膨らみ、豊かになってゆく。腰のくびれからつながる下半身も、男性のそれとは違う、まるみを帯びふくよかになっていく。その他にも、女性ならではの変化のその全てが、自分に科せられた呪いでしかなかった。その一方で、手で触れる二つの膨らみは暖かで柔らかく、そこに間違いなく真実の私がいることを主張していた。
それでも私は、自分の体を嫌い、呪うことで、王太子として望まれる自分を作り上げてきた。いつしか自分自身でも、それが本当の私だと思うようにもなっていたが、一人になると空っぽの、空虚な自分と、不安しかなかった。クラリスは私に本当によく尽くしてたが、それは王太子としての私だった。それでもごく稀に、立場を越えて私を見る目の中に、私自身が気がつけていないものに気づき、愛おしそうに、そして悲しそうな光が宿るのを感じていた。
それは数少ない、私の救いでもあった。たった一人でも、自分ですら気がつけなくなっている、本当の私を見てくれている人がいる。だから彼に「お嬢様」と呼ばれた時は嬉しかった。
呼吸と共に、私の中から消えていた暖かなものが蘇ってくるのを感じた。
それはある日の稽古の一場面だ。
「足の裏を感じてください。自分が大地に存在していることを感じてください」
そう言うライルに私は、
「ちっぽけな私の存在を、大地はどんな風に感じているのでしょう?」
と問うたことがあった。その時彼は笑って、
「分かりません。でも、大地が殿下を感じていようといまいと、殿下がそこにいらっしゃる限り、大地は殿下と共にあるのです。その事実は変わりません」
その言葉を聞いた時、私の体をある感覚が貫いた。
(私の存在を否定することは、大地も、宇宙も、神にも誰にもできない)
その事実に体が気がついたのだ。
私の存在を誰かに許してもらう必要はない。存在していること自体に意味があるのだ。
呼吸と共に目の前の霧が晴れていくのが分かった。
同時に私のものではない感情が、私の中に混じっているのに気がついた。それは私にこの魔術をかけたこのメルルという名の女のものだった。
彼女はライル様の登場に混乱していた。一言で言えば、自分の存在の根底を疑わされるほどの恐怖を感じている。
その感情の中には、小さい頃の彼女の姿もあった。
泥にまみれ、路地裏で膝を抱える幼い少女。名前はなく、誰からも必要とされていなかった。彼女にあるのは「値札」だけ。誰かが彼女を買うのは、労働力として、あるいは慰み者として。商品として扱われ人から人の手へと売り買いされる日々。
だがある時、彼女の中に眠る魔術の才能が見出された。途端に、周囲の彼女を見る目が変わる。しかしそれは蔑みから、新たな欲望の対象へ。値札の桁が跳ね上がった。けれど、それは彼女自身が愛されたわけではなかった。「便利な道具」としての価値がついただけだった。
そんな彼女を拾い上げ、本当の意味で「居場所」を与えたのが、ガロンという男だった。
『お前には力がある。私がその力に意味を与えてやろう』
差し伸べられた手。【深淵の盟約】という組織。そこだけが、彼女が人間として息ができる場所だった。魔術の才能こそが彼女の全て。それさえあれば、二度とあの泥濘には戻らない。そう信じて、彼女は人の心を弄ぶ魔女となり、その地位を築き上げてきたのだ。ガロンの魔力強化を受けいれることは、彼女にとって犯され、汚され尽くした体を捨てることであり、喜びであったのだ。体を流れる冷たい血が、彼女の味わったあらゆる負の感情を抑え、力に変えているのだ。
(……ああ、そうか)
私の中に流れ込んでくる、焼けつくような焦燥感の正体が分かった。
(メルルは、ライル様に怯えているのだ)
理屈も魔術の常識も通じないこのライル様の存在は、彼女が人生をかけて積み上げてきた「魔術による優位性」を、根底から否定する存在だからだ。彼に敗北することは、彼女にとって単なる死ではない。自身の価値を剥奪され、またあの無価値な少女に戻ることを意味する。
だから彼女は必死なのだ。恐怖に震えながら、虚勢を張っているのだ。
「ライル! 貴様のその剣で、その年寄りと男を殺せ! 従わなければ私もろともアレクシウスを殺す!」
頭上でメルルの絶叫が響いた。喉に当てられた切っ先が食い込み、物理的な痛みが増す。クラリスが息を呑み、ライル様以外の全員が動揺している気配がする。だが、今の私には、その脅しが酷く空虚なものに聞こえた。
(嘘だ。彼女は私を殺せない)
彼女にとって最も重要なのは、ガロンへの忠誠と、任務を遂行することで自分の価値を証明することだ。そのためには、ゴーレムの器にするために私を生きたまま連れ帰らなければならない。もしここで私を殺し、作戦が失敗に終われば、組織での居場所を失う。
彼女が信奉するガロンを失望させ、無価値なものとして追放され、再び居場所を失うことは、彼女にとって死ぬことよりも恐ろしいことなのだ。
私の中で彼女への気持ちが、わずかに変わった。それは、共に「作られた自分」を生きる者としての、奇妙な共感なのかもしれない。
しかし、いまは感傷に浸っている場合ではない。
私は、懐に忍ばせていた護身用の短剣を、そっと握りしめた。手の震えは、もう止まっていた。私は顔を上げ、空中のメルルを見据える。
「おやめなさい」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。信じられないものを見る目で私を見下ろすメルルの前で、私は懐の短剣を引き抜くと、その切っ先を躊躇いなく自らの喉元へと突きつけた。
「これ以上続けるのであれば、私はここで命を断ちます」
(第八十四話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
今回はアレクシウス視点からの物語です。存在すること自体に意味がある。これは筆者にとっても重要なテーゼです。書きながら改めてそう感じました。
さて、X'masの本日PVも伸び悩んでいます(苦笑)。こればかりは仕方がありませんね。むしろお忙しい年の瀬にお読みいただいた皆さんに感謝いたします。
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次回は明日の12時前後の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




